87、彼女?と彼女の問答
マリエルと入れ替わって気づいたこと。
視線が低い。多分、普段の自分より少しだけ目が悪い。髪が短くて楽。胸も軽くて楽。足が速い。遅すぎる朝食兼昼食のシチューに入っていた茸がやたら美味しく感じた。いつもはあまり美味しいと思わないのに。知らない女の子の友達がたくさんいる。声をかけられて、困った。モテる。考えてみれば、中身違いとはいえ、告白されたのは生まれて初めてだった。嬉しかったかどうかは別だが。手のひらは硬い。剣士の手だからいくつも胼胝があって潰れていて、親しみを覚える。そして小さい。オーリアスの手よりもずっと。
本の頁を捲る。目が文字をなぞり、通り過ぎていく。
乾いた本の匂い。少しだけかび臭くて、時々虫食い。多分、この本にシミーは棲んでいないだろう。
入れ替わって気づいたこと。
中身がマリエルの自分は、普通に女の子に見える。まるで最初からそうだったみたいに。
昼下がりの救護室の中は、尖ってささくれている部分を均してしまうような気配に満ちている。
しかし、それを素直に受け止める気分にはなれず、文字を追っていた目がいつしか変色した紙面から離れて、長椅子の上、並んで座っている少女の姿を追う。
何も違わない。長くて黒い髪も、高らかに存在を主張する胸も、着ている物も、顔の造作も。
それなのに、仕草? 表情? 何かが決定的に違っていて、落ち着かない。
『自分』を外からしげしげ見ることなど普通はないから、そのせいかもしれないが。
そっと目を逸らして視線を紙面に落とせば、見たことのある、でも見慣れない華奢な指が頁を捲る。
ぱらり。文字を追いかける集中は簡単に途切れて、記憶はまた同じ場面を再生する。
頁を捲る指に、掴まれた跡なんてないのに。
「オーリ」
腕に何かが触れたことに驚いて肩がはねた。
「ごめんなさい。急に触ったからびっくりしちゃいましたよね」
毎朝鏡の中に映る見慣れた目が、気遣いの色を浮かべて見下ろしている。
「何か見つかりました?」
「……今のところ、特には。マリエルは?」
「わたしもあんまり」
「クロロス先生、この記述をちょっと見てもらえるかしら」
机の上に開いた本をじっと見ていたスライムを、オルテンシアの手がひょいと掬い上げる。そのまま運ばれていったスライム先生を見送り、ため息を呑みこんだ。
「あなたたちも休憩しながらやりなさいね。根をつめるのはかえって効率がよくないのよ」
オルテンシアの声に、はぁい、と返事をした『オーリアス』に、もやもやしたものが強くなる。
マリエルの身体に馴染むこともできず、かといって自分の身体を見れば、そこには『普通の女の子』として活動している自分がいるわけで。
自分は一体、どこに収まればいいのだろう。
男に戻りたい、と飢えるように思う時期は過ぎて、確かに女の身体に慣れて、なんだかんだと馴染んでいたらしい。こうして誰かと入れ替わってしまえば、男からも女からも放り出されてしまったような頼りなさがふつふつと湧いてきて、やるせない。
「なぁ、マリエル」
「はい?」
「……マリエルはさ」
何を言いたいのか自分でもまとまらない内に、口が勝手に動き出した。
「マリエルは……その」
ぱたんと本を閉じ、ローブの裾を無意味に指先で引っ張り、中身が違う今なら、素直にかわいいと思える『自分』を見ないようにして呟いた。
卓の上、少しよれてしまった包装紙で包まれた箱は、ちゃんと渡せたけれど、まだ開封されないまま置いてある。箱と同じように、口を噤んだまま我慢していればいいのかもしれない。こんなこと、いちいち人に聞くなんて格好悪いと思うのだ。だって、ただ可能性に思い至っただけだ。そうなるかもしれない、というだけで、現実にそうなったわけではない。それなのに。
「……怖くないのか?」
「怖い、というのは、何に対してですか」
「何って……」
きちんと膝を揃えて腰掛けていた『オーリアス』が、こちらを向く。膝を揃え、上品な角度で斜めに倒して座るその姿勢は、普段の自分では絶対にありえないものだ。
「……何だろうな、自分でもよくわからない」
口に出しはしたものの、自分の感じている不安を上手く伝えられるとは思えなかった。
女であることが怖くないのか、なんて、聞かれたマリエルだって困るだろう。
「お昼に救護室で会うまでに、何かありました?」
確かに、色々あった。いざ救護室にやってきたら縛り上げられたクロロスがいて愕然とし、その視線に怯えているところにマリエルがやってきて、やっと会えたと喜んだはいいものの、さらにやってきたグレゴリーとコタローも入れ替わっていて驚いた。それもさることながら、何よりクロロスがスライムになっていたという衝撃の事実がそれまでの鬱屈した気分を吹き飛ばしてしまったので、今この時まで、詳しい話はする暇がなかった。ぷるんぷるんの先生、という未知の存在にわくわくして、その瞬間は忘れていたとも言う。そこからは、情報収集の手伝いになってしまったし。
「あー……なんていうか、告白? された」
「告白、ですか?」
目を丸くしているマリエルに頷き、苦笑いする。
「されたはいいけど、ほら今入れ替わってて、おれはマリエルだけどマリエルじゃないだろ? それで二日後に返事するって言ったんだけど、なかなか離してもらえなくて」
もぞもぞと座りなおし、顎の先に揺れる金色の髪をかき上げて、それでも落ち着かなくて、指先がさ迷う。
「マリエルが告白されたことを、マリエルに報告するって、おかしいな」
「わたしも変な気分です。『わたし』からその事実を教えてもらってるわけですから……どんな人でした?」
「なんか、背が高くて思い込み強そうな……先輩かもしれない。そういえば、名前も聞いてなかった」
いきなり婚約指輪を嵌められそうになったんだぞとおどけて言えば、マリエルはきゃらきゃら笑って、真顔になると断言した。
「ないですね」
「……うん、まあ……でも、なんかちょっと悪いことしたような気がするから、おてやわらかに、な」
断る際にはひとつよろしく、と呟いた『マリエル』に、『オーリアス』が唇を尖らせる。
「そういう人には、はっきり言ったほうがいいですよ。変に勘違いされたら困ります」
「そうだけど」
「それで? 何かされたんですか、その人に」
このままなかったことにして、違う話題を振ろうかと思っていたところに的確な一撃を食らって口ごもった。見下ろしてくる視線が怖い。我が顔ながら、こういう顔をすると結構怖い。
「いや、別に、何かされたわけじゃないけど」
「けど、何かあったんでしょう?」
「……ただ、手を掴まれただけ」
本当に、それだけだ。それだけのことに不安を覚えた自分が情けなかった。もしかしたら、本当の本当に『普通の女の子』になってしまうかもしれない可能性を直視してしまって、動揺した。
慣れ親しんだ怪力は、自分が女だということから目を背けることのできる一つの支えで、それが失われてしまったらと思うと怖かった。
「……それだけだから」
情けなくて嫌になる。いっそこのまま女になってしまおうと思えれば楽なのに、そう思い切ることもできない。だって、オーリアスは男に戻りたい。剣士にだってなりたい。これまで過ごしてきた年月も、その為に励んできた時間も、無くしたくない。元通り取り戻したい。その気持ちはちゃんとあるのに、いつのまにか少しずつ、女の子として過ごすことに慣れている。
それに気づいたら、怖くなった。
「オーリ」
不意に、暖かいものがぎゅっと肩を抱いた。
「マリエル?」
「もし、オーリが誰かに捕まったら、助けに行きます。絶対です」
『自分』に抱きしめられるというのは、この上なく不思議な気分だった。そして、すっぽり抱きしめられてしまう『マリエル』の小ささは、今はオーリアスのものなのだ。
「誓願を立てたって、かまいません。だから、そんな顔しないで下さい」
自分が今どんな顔をしているのか、さっぱりわからない。それでも、暖かい腕の中にいるとやけに安心した。たとえそれが『自分』の腕でも、そうしてくれているのはマリエルだから。
「……なんか、変な気分ですね。自分を抱きしめるのって」
「おれだって、変だよ。自分に抱きしめられてるんだから」
「お互い様ですねぇ」
マリエルには、今までざんざん恥ずかしいところを見せてきた。だから、オーリアスが本当は何を怖がっているのか、きっとわかっているような気がする。でも、それを口には出さない。その代わり、『それ』を少しだけ違う形に変えて渡してくれた。
時々、マリエルは同じ年だと思えないほど聡くて大人で、不思議になる。
女の子という生き物は皆こうなんだろうか。
自分の姿をしていても、やっぱり違う。マリエルは、マリエルだ。
顔を見合わせて、少し笑って、小さな声で続けた。
「おれも、助けに行くから」
「はい。助けに来てくださいね」
どことなく張り詰めた表情をしていた『マリエル』が、自然な顔で笑っているのをこっそりと確認した狼族と忍者は、ほっと息をついた。だんだんただならぬ感じになってきた二人に、退室した方がいいような気がする、とおろおろしている内に話がどんどん進んでいってしまい、出て行く機会を失ってしまったこのいたたまれなさよ。
二人とも深刻な顔をしているし、下手に話の途中で動いたら空気を壊すだろう。しかし、これは自分達が聞いてもいい話なのだろうかと思いつつ、ひっそりと、出来る限り気配を殺して必死に本を見ていたのだが、正直内容は全然頭に入っていなかった。
だって、仕方ない。この距離ではどうしたってばっちり話は聞こえるし、二人の間にあった距離は段々縮まっていって、いまやゼロ。正直、気になる。直視しないようにするのに必死である。
というより、これは多分、グレゴリーもコタローも、完全に忘れられているのではなかろうか。一応、卓を挟んで向かいに座っているのだが。
オーリアスもマリエルも全然こっちを気にしないで二人の世界を作り上げてしまったので、男二人肩身が狭いこと甚だしかった。オーリアスが男か女かという疑問は、横に置いておくとして。
聞かれたくない話ならこんなところで話さないだろうから、聞いていたところで咎められはしないだろうが、いたたまれないことこの上なし。
その上、『グレゴリー』には少々困ったことがあるのだ。
「……グレゴリー、コレ、ドウヤッタラ、止マルノ?」
こっそり耳をそばだてるには、どうもこの身体は始末が悪い。
さっきまでぴくぴく動いていたとんがり耳をそっと手で押さえ、コタローは正直すぎる狼族の肉体に困惑していた。意識するまもなく耳はぴくぴく、尻尾はゆらゆら、興味ありますと勝手に動き出してしまうのでほとほと困った、というか恥ずかしい。
情報収集は習い性で、他人の話に聞き耳を立てるのはもう習慣なのだが、これでは全然忍べない。聞き耳を立てているのが丸わかりである。
すす、と差し出された帳面に書かれた『無理』という単語を見下ろし、忍者入りの狼族はしょんぼりと耳を寝かせた。獣人族が間諜になれない理由を身をもって体感しているコタローを見て、グレゴリーは口布の内側で笑う。
こちらはなかなか快適だ。ただ、話せないのが思いのほか辛い。
部屋の主のオルテンシアは、少女たちの会話が良い方向に落ち着いたのを確認して、机の上のぷるぷる揺れている彼らの担任を指先でつついた。
青春してていいわねぇとこっそり笑う。この年頃のオルテンシアには、こんな風に腕を差し伸べてくれる友達はいなかった。本当はいたのかもしれないが、過ぎてしまった月日は取り戻せず、傍にいてくれたかもしれない友達も、もう取り戻すことはできない。
がたん!
まったりした昼下がりの空気が流れていた救護室の扉が、突然音を立てて開いた。
突風のように駆け込んできた生徒に、オルテンシアは眉を寄せて立ち上がる。
ああ、入れ替わり現象だけでも頭が痛いというのに、これ以上まだ何かあるのか。
「先生っ、やべーよ! やっちまった!」
「も、もこもこ、もこもこくんが……!」
「救護室の扉は静かに開けなさい! 一体どうしたの」
「エルマーが!」
「も、もこもこがっ……!」
「もこもこ?」
意味がわからない。ぽかんとしている一年生四人と救護教諭の耳に、なにやら叫び声のようなものが届く。
「エルマーとその他大勢が、もこもこくんに飲み込まれちまった!」
「ま、魔力が交じり合って、へ、変なふうになって、それで」
「入れ替わってる間くらい、どうして大人しくしておけないの!」
「あいつが罠をしかけなくなったらそりゃもうエルマーじゃねーよ、先生! つっても、あいつに言われて仕掛けたのはオレなんだけど! それがどんどんもこもこしてて、止まらねーんだよ!」
「も、もこもこが、もこもこで……!」
「ああもう、ちょっと落ち着きなさい! もこもこってなんのことなの?!」
にわかに廊下が騒がしくなり、ばたばたと廊下を走る音が響いた。
「もこもこくんはエルマーの罠で! その罠が暴走してるんだ!」