86、救護室の主はため息をつく
ぱらり。
捲った本の頁の記述を追いながら、横目でちらりと確認。
さて、これで何人目だったか。
目を疑うような光景を見た時、人は大体同じような顔をするものらしい。今また哀れな子羊が救護室を訪れ、混沌の餌食となって硬直している。
「そこの二人、あなたたちも入れ替わったの? それならここに学年と氏名を記入してちょうだい。それ以外ならこっちね」
目を疑うような光景とはつまり、スライムと見つめあうクロロスのことなのだが、この破壊力がなかなか侮れない。クロロスが担任している四人組みなど、もはや驚愕を通り越したらしい。
じっと横たわったまま微動だにしない『クロロス』と、その至近距離で、これまた微動だにしない薄紫色のスライムという光景を、雨に打たれる子犬のような目をして見つめている。
床に転がり見つめあう呪術師とスライム。それを取り囲む悟りを開いたような無垢な顔つきの少年少女狼族。事情を知らないものからすれば、怪しい儀式の真っ最中のようである。
呪術師の顎は赤く腫れていて痛々しいが、これはクロロスの精神が宿ってしまったというスライムがやったことなので、後でポーションでも飲めば勝手に回復するだろう。呪術師なのだから薬剤には不自由しないだろうし。
「はい、じろじろ見ない」
「あ……は、はい、すいません! これに書けばいいんですね」
「あなたたちも、ってことは、アタシたちだけじゃないってことですか?」
「そう。もう二十人を越えたわ。教職員にもちらほらいるし……あなたたち、来るのが随分遅かったわねぇ」
よく似た顔の少年と少女は、かたや満面の笑み、かたや今にも泣き出しそうに顔を歪めている。
「だって、ねーちゃんが」
「アタシが何したっていうのよ」
「まだしてないけどっ……絶対なんかする気だったろ!?」
「うん。アタシ一回男になってみたかったんだぁ」
「やめて! 笑顔怖い! オレの身体で何する気!?」
「えへ」
「ねーちゃん、やめろよ! なんかしたら許さねぇからな!?」
「……あ?」
「ひっ!?」
「今なんつった?」
「な、なんもいってないよ……たのむよー、変なことすんなよー、ねーちゃーん……」
普段は完全に弟を舎弟のように扱っている姉が、半泣きで弟に取りすがっている。弟の方は普段の気弱そうな顔つきが嘘のように悪い笑顔を浮かべていて、これもまた見事に入れ替わっているようだ。
「せ、先生、これ、治るんですか? どうやったら元に戻りますか?」
「残念、今のところ治しようがないのよねぇ」
「そ、そんなぁ……」
この精神の入れ替わりという現象は、実に興味深い症例ではあるが、解呪では解除できなかった。現在この学園で最も高度な状態異常治癒スキルがオルテンシアが持つ解呪である以上、それで治らないのならどうすることもできない。
司書のスピカに頼んで特別に持ってきてもらった禁書を読み、付箋を貼っていく。学園長は王宮に伺候中、頼りなる老クヌートルは遠地の友人に会いに行くと出かけていて、すぐには捕まらないのが痛い。
午前中には殆ど入れ替わり現象を訴える患者が来なかったので、少数に起きている状態異常なのかと思っていたが、なんの、クロロス捜索隊が出て行った辺りから、救護室に助けを求めて訪れる連中がぞろぞろ来た。
やはり休養日ということで、午前は寝て過ごす生徒、職員が多かったらしい。起きてみてびっくり、というわけだ。とはいえ、救護室に来たところで現状把握の為に氏名を書いてもらうことしかできないのが、救護担当としては情けない。
だが今のところ、状況の異常さからは考えられないほど、混乱が起きていなかった。
普通なら今すぐ全校緊急招集して現状把握に努め、解決策を探して教員達はてんやわんや、生徒達は出歩くなんてもっての他、寮に軟禁ぐらいのことは当たり前に行われるはずなのに、この学園の生徒も教職員も、どこかネジが一本すっとんでいるようなのんびり具合である。
生き馬の目を抜くような、熾烈な競争主義が蔓延る魔法都市ソフィアン出身のオルテンシアは、ここラビュリントスに来て以来、時々己の常識と忍耐とを試されているような気にさせられる。
視界の端で、黒髪の少女がそろそろと人差し指をスライムに向けて突き出しているのが見えた。
残りの三人がごくりと息を呑んだ音が、静かな昼下がりの救護室に響く。
「先生、アレ、何なんです? あれ、オーリアスパーティでしょ。あの子たちも入れ替わってるの?
それにあれ……床に転がってるの、クロロス先生だし」
長椅子と小さな卓を挟んだ向こう側で行われているナニかが気になるらしく、しげしげと見入っている少年の袖を、少女が引っ張る。
「ちょ、ねーちゃん、ダメだって……関わらない方がいーって」
「だって、アレなんなの?」
気になるのは尤もだが、それより先に記入しなさいと二人を促し、救護室の主はため息をついた。
本当は、ご法度なのだ。安心感を与える存在である救護担当教諭として、患者に不安を与えるような態度は、表に出すべきではない。しかし、うっかりこぼれてしまったものはもう戻らないので、ごほんと咳払いで誤魔化して、目の前の二人から用紙を回収する。
「一年生のミュウ・シュタイムとリュウ・シュタイムね。さしあたって施せる治療がないので、戻って自由に過ごしてもらって結構よ。二人とも体調に変化はない? そう、何か異常を感じたら、すぐに来るように。元に戻す方法が見つかったらすぐに呼び出しをかけるから、そのつもりで」
つん。
そろりと差し出された指が、スライムをつついた。
すっごいぷるぷるしてますよ、という興奮した声が普段撲殺魔女の二つ名で呼ばれている少女から上がり、それを聞いた残りの三人が、さっと顔色を変える。
さっきまで子犬のようだった目が、瞬時に獲物を狙う鷹のような目に変わったのをちらりと確認。そのスライムの中身は自分達の担任だとわかっているはずなのだが、どうにもスライム体への好奇心を抑えきれなくなったようだ。
「何か聞きたいことはある? 不安に思うことがあるなら、答えるわ」
「……強いて言うなら、アレがなんなのか気になるんですけど」
アレ、とは勿論、怪しい儀式もどきのイロモノパーティとその担任とスライムを指している。
「アレはうっちゃっておきなさい。あえて言うなら、新しい交流方法を試している担任と生徒といったところね」
「……へー」
「ねーちゃん、もういいよ、行こう。ヤバイよ、あいつら……なんか目がいっちゃってるよ。うわっ、全員でスライムつつきだした! なんで救護室にスライムがいるんだよ……」
「あんたねぇ、スライムごときにいちいちびびってんじゃないわよ。なっさけない! あんなの握りつぶしちゃえばいいじゃない」
『リュウ』が発したその言葉は、やけに大きく救護室の中に響いた。
スライムをつんつんしていた四人が、びくりと肩を震わせて声の主を見る。
「に、に、握りつぶす!?」
信じられない、という目で見つめられた双子の姉弟は、わけがわからないまま、後ずさった。
「握りつぶすのはやめてちょうだい。あれ、クロロス先生の精神が入ってるから」
「はあ?」
「うっそぉ、クロロス先生って、スライムと入れ替わっちゃったの?」
揃って、うわあ、という顔をした二人は、心なしか硬直しているように見えるスライムと、無表情で床に転がる呪術師の肉体を交互に眺め、最後に『握り潰す、ダメ、絶対』と全身で訴えている四人の同級生を見て、目を逸らした。
「……あー……じゃあ、アタシたち帰ります」
「よ、よかった、オレ、スライムと入れ替わってなくて……ねーちゃんの方がまだマシだよ……」
「まだって何よ」
「ねーちゃん、オレの顔でその喋りやめてくれよ! なんか、もう、見てらんないよ!」
「見なきゃいいでしょ、見なきゃ!」
双子の姉弟はスライムと呪術師から目を離すと、そそくさと救護室を出て行った。世の中には見てみぬふりという言葉がある。時に現実から目を逸らすことも必要なのだ。
「あなたたちもいつまでもクロロス先生で遊んでないの。見た目はスライムでも、中身はクロロス先生だって本当にわかってやってるの?」
「あ、あはは……すみません」
「先生、すいませんでした」
そろそろと金髪の少女がスライムを両手に掬い上げる。
気にするなとでもいうようにぷるぷる揺れているスライムに苦笑いしながら、オルテンシアは机の上の本を数冊取り上げた。
「暇なら手伝ってちょうだい。これを読んで、それらしい記述があったら付箋を貼って」
「え……おれたちが見ていいんですか」
「ええ。こっちは閲覧禁止の書籍じゃないから。それに、スライム体とはいえ、クロロス先生がついてるんだし……こっちの『クロロス先生』はおねむみたいだし。そうね、これも簡易クエストみたいなものよ。手間賃は払います。人手がほしいんだけど、入れ替わり現象が起きていない生徒たちは大体麓に下りてしまっているし、手のあいてる教員だけじゃ足りないの」
そう言うと生徒達は明らかにほっとした顔をした。お気楽に遊んでいたかと思えば、やはりそれなりに不安を感じていたらしい。考えてみれば、いつまでも救護室に居座っていたのもそのせいなのかもしれない。さっきの双子のように、なんだかんださっさと現実に適応してしまえる性格ならいいのだが、そうできない性格の子どもなら、仕事を与えて気を紛らわさせてやった方がいい。
「先生ノ身体、寝台二ノセタ方ガイイカナ」
「そうですね、床は冷えますし」
「よかったな、寝てくれて……先生、ちょっとこっちに置きますね。グレゴリーそっち持ってくれ。おれが頭の方持つから」
「あっ、オーリ、ダメです、わたしじゃ持てませんよ、多分」
「あ、そうか。おれ今、マリエルなんだよなぁ」
「うふふ、なんだか変な感じですねぇ」
全く、なんて奇妙な光景なのだろう。
一見するとどこも変わったところのない四人なのに、それぞれ中身は別人。
見た目にはわからない異常ほど、厄介で恐ろしい。仲のいい子ども達だから笑っていられるが、犯罪者、それも巧妙な性質のものと肉体を交換するようなことになったら、未曾有の大事件になりかねないのだ。その危険性を、いまいちわかっていないようなこの学園の呑気さが恐ろしい。子ども達はともかく、教師たちまでそのうちなんとかなると思っているようでさえある。
それでも、こんな呑気な学園もあるのだと思えば、馬鹿馬鹿しくて、いっそおかしかった。
昼の光が差し込む明るい救護室の中、オルテンシアは昔の自分と会えたなら、笑って伝えてやりたいと思う。
あなたが血道を上げて邁進しているその道の先は、崖なんだと。
でも、落ちた先にあった細い獣道だって、そう捨てたもんじゃないから、心配しないで、と。
さて、何か解決方法が見つかるといいのだが。