85、彼女?の試練
マリエルに会いたい。
ただそれだけの事なのに、世の中はままならない。心なしかやつれた顔をした『マリエル』は、目的地に向かってよろよろ歩いていた。
小脇に抱えたカティスからもらった箱は汚すまいとがんばったが、その頑張りが報われたとはいいがたい。若干よれてしまった包装紙を見下ろし、ため息をつく。
走り回って逃げたので髪は乱れてところどころもつれているし、疲れたし、とても空腹だ。その上色々精神的にも疲れているし、もう散々だった。
外を走り回ったせいで林檎のような頬をした『マリエル』は、校舎の中に入って、ほっと息をついた。
温かく乾いた空気の中に入ると、自分の身体から冷えた外気の匂いが立ち上る。
その匂いを嗅いですんと鼻を鳴らして、またため息。
ついてない。全くもって、ついてない。朝起きたらマリエルになっているなんてわけがわからない状況だし、もう昼を告げる鐘が鳴ったのに朝食も食べられていないし、自分より大きな男子生徒に追いかけ回されるし。
「疲れた……」
正面玄関から入って、右手に折れて真っ直ぐ。救護室までの道のりを歩きながら、思わずこぼれた独り言に慌て、周囲を確認する。マリエルが変な女子だと思われるわけにはいかない。
見回した廊下はしんと静まり返っていて、何の気配も感じられなかったのでほっとした。
普段、臨時休講の連絡や魔物出現注意の張り紙、一年生はまだ受けられないがクエスト受注についての諸注意など、諸々の連絡事項が張り出されている壁面には、聖誕祭用のきらきらする飾りがぶら下がったり張られたりしていて、華やかだ。
窓硝子から差し込む光にきらりと光る、それらの放つ雰囲気は晴れがましい。その雰囲気だけでも、疲れきった心身に伝播してこないものか、と重い足取りの『マリエル』は思う。
自分の身体に会いに行くべく外に出て、女子学生寮の脇の小道を歩いていたら、カティスに出会って聖誕祭の贈り物と思しきプレゼントを渡された。特に他意はない様子だったので、これは悪い出来事とはいえない。マリエルではないことがバレやしないかと焦りはしたが、本日起こった出来事を思い返すに、これはむしろ『いいこと』の方に分類される。
とぼとぼ歩いていたオーリアスは、ふと足を止めて壁の飾りに見入った。
廊下の壁面一杯に張られた飾りは、一体どこのクラスが担当したものか。ここの部分だけ気合の入り方が違っていて、物語の場面を切り取った形で綴られていく創世の神話に見惚れる。
切った物、折った物さまざまだが、手製の飾りだけで創世神話を表現する巧みさに感心した。
本当によく出来ているのに、これも明日になったら片付けられてしまうのだろうか。
しげしげと壁面に見入りながら、窓から差し込む光を受けて目を細める。
「マリエルってモテるんだなぁ……」
まさか、告白されるなんて思わなかった。
しょんぼりと肩を落とし、今日何度目かわからないため息をまたひとつ。
カティスと別れた後、気を取り直して女子教員寮まで歩き出したオーリアスを、いや『マリエル』を待っていたのは、見覚えのない男子生徒だった。随分背が高いと思ったが、今思えばマリエルが小柄なせいもあって、余計にそう思えたに違いない。
やけに足音が近いなとは思っていたのだ。まさか尾けられているなんて思わなかったし、自分ではない足音がしたところで、同じ方向に行く人がいるんだなと思うだけだろう、普通は。
滑って箱を取り落としそうになって足を止め、無事に小脇に抱え直して、気づいた。
自分が立ち止まっている間、後ろの足音も止まっていたような気がする。何食わぬ顔で10セムほど歩き、立ち止まってみる。すると、背後の足音もぴたりと止まるではないか。
気のせいではないらしい。ならば、マリエルの知り合いの誰かが、悪戯でも仕掛けてくるつもりなのか、と最初は思ったのだ。
いきなり何かされても自分はマリエルではないのだから、上手く対応できるかどうかわからない。
それならボロを出す前に、気づきましたよ、という体で振り返ったほうがいいかもしれない。そう思って振り返った先にいたのが、件の男子生徒だった。
じっとこちらを見てくる相手に、やっぱりマリエルの知り合いなんだろうとオーリアスは思った。
しかし、オーリアスには目の前の相手が誰かわからない。振り返ったはいいがこれは困った。とりあえず、不審に思われないように笑顔を向けておく。マリエルはいつもにこやかだし、おかしくはないはずだ。
『マリエルらしさ』に悩みながらも、できるだけ邪気なくにっこりしてみせると、向き合った男子生徒は顔を赤くして、つかつかと近づいてきたではないか。
やっぱり知り合いだったんだ、そう思って対応に頭を悩ませるオーリアスに、ずいと近づいた男子生徒がどもりながら口を開いた。
「き、今日もかわいいね、マリーウェル」
「……あ、ありがとうございます」
その第一声を聞いて、もしかしてマリエルの付き合っている相手というか、つまり、彼氏なのかとオーリアスは戦慄した。そんな相手には絶対誤魔化せない。中身がマリエルでないことが間違いなくバレる。 だが、一週間のうち休養日以外は殆ど全部といっていいほど、一緒に行動しているのに、下手したら休養日だって一緒にいることがあるマリエルに、そんな相手がいるそぶりなどあっただろうか。
おかしいな、と思った『マリエル』が抱えている箱をちらりと見て、がっちりした体つきの男子は、さらに一歩近づいてきた。
「……さっきのあいつ」
「は……はい?」
「さっきのあいつ、彼氏?」
「さっきの……えっ、違う、いえ、違います」
「そう」
カティスのことかと思い至って慌てて否定すると、嬉しそうに笑われる。なんだか、とても居心地が悪かった。何だろう、このおかしな感じは。しかし、今の質問からすると、やっぱりマリエルの彼氏ではないようだ。
立ち尽くす二人の頭上、晴れた空から、ちらちらと風花が舞う。金色の睫毛の先に引っかかった雪の欠片を指先で撫でたところに、突き出された小さな箱。
今日は箱に縁があるらしい。
「これ、受け取ってほしい」
ああ、聖誕祭の贈り物か、とオーリアスは素直に思った。さっきのカティスのこともあったし、おかしなことではない。
「いただいて、いいんですか?」
なるべくマリエルらしく言うと、男子生徒は心なしか興奮した顔で、元々近い距離をゼロにする勢いで身を乗り出してきた。
「う、受け取ってくれるのか! そうか!」
なんだろう。何かがおかしい。
小箱を受け取るべく、出しかけた手を引っ込めようとした『マリエル』の前で、しゅるしゅると小箱のリボンが解かれる。そこから出てきたものに、オーリアスはこの状況をようやっと吞みこんだ。
「け、結婚を前提におつきあいしてくれ! これは婚約指輪の代わりだ。おれが卒業したら、ちゃんと結婚しよう。その時には」
青く晴れた空の下、まるで祝福を告げるような美しい風花が舞う。
その中に立つ二人。少女の小さな手を少年がそっと握り、その指に指輪を。
「……っだ?! そういうことか! 無理だ、じゃない! ムリです! おつきあいはナシで!」
呆けている隙に危うく指輪を嵌められそうになったオーリアスは、必死に左手を取り返そうともがいた。
「な、なぜだ!? いま受け取ってくれるっていったじゃないか!」
「聖誕祭の贈り物だと思ったんだ! いや、思ったんです! お、おつきあいはっ」
無理、と叫びかけて、自分が『マリエル』だということを思い出す。つきあう、つきあわない、は自分が判断することではないのだ、そういえば。
「あ、明日、いや二日後! 二日後にもう一度お願いします!」
「二日後!?」
「はい、二日後で!」
「い、今返事をしてくれ! つきあってくれるのか、くれないのか!」
「こ、こまっ、困ります! 二日後! 二日後なら返事をしますから!」
「なんでだ! なんで今日じゃ駄目なんだ!?」
「な、なんでって……」
よく見てください。どう見てもマリエルですよね。でも中身は違うんです。
「そんなこと言えるかー!」
「そんなこと!?」
「い、いや、違います、とにかく、二日後にもう一度お願いします! そうしたらちゃんとっ」
じりじりと距離を取りながら叫ぶと、男子生徒は指輪を握り締めたまま、ぎらぎらした眼差しで引いた分だけ近づいてくる。
「いまさら告白をひっこめられると思うか! 梃子でも返事をもらうからな!」
『マリエル』は青くなって身体を引いたが、掴まれた手のひらが離れない。ぎらついた目をした自分より大きな相手に、鼻息も荒く至近距離に詰め寄られるというのは、こんなに怖いのか。
ふいに二人の間を通り抜けた風にローブの裾がひらりと揺れ、その頼りなさに、すっと血の気が引いた。素足の膝小僧が、寒さではない感覚のせいで粟立つ。
「た、頼む、今返事をくれ、マリーウェル!」
「……っご、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
後ろを振り向きざま必死に手を振り払い、脱兎の如く逃げ出したオーリアスの背後から、激しい足音が追ってくる。
掴まれていた手が痛かった。自分の身体なら、あの程度で力負けすることなんて絶対にない。あの男子を持ち上げることも、投げ飛ばすことも朝飯まえだ。
でも、今の自分はマリエルで。
剣を扱う以上、ただかよわい少女というわけではない。しかし、自分より上背のある男に力で迫られたら、逃げることがあんなにも難しい。手を振り払うことさえ必死にならなければできないなんて、ぞっとした。
「マリーウェル!」
幸い、マリエルは足が速い。小柄なことがどうしても不利に働くが、機敏さでは有利だ。体力もちゃんとある。どこを走っているのか、どこに逃げようとしているのかもわからず、ただひたすら逃げたオーリアスは、自分で思う以上に混乱していたのだろう。
叫び声と足音が聞こえなくなったことに気がついた時には、旧校舎の裏側に積まれてある、薪の山だの燃える資材だのが固めておいてある場所の影に隠れて、しゃがみこんでいた。
呼吸が苦しい。激しく走ったせいで、胸の奥が燃えるような辛さを訴えている。もういないとは思っても、なるべく存在を気取られないようにと必死に荒い呼吸を押さえつけた。
少しずつ治まっていく呼吸と動悸を感じながら、ぎゅっと目を閉じる。
かなり思い込みが激しそうな相手ではあったが、別におかしなことをされたわけではない。無体なことを言われたわけでもない。
誰だって勇気を振りしぼって告白したのに、理由もなく二日後もう一度告白してくれ、それまで返事は保留、なんて言われたら、それは頭に血も上るだろう。
自分があの男子の立場だったら、とてもいたたまれない。それは充分理解できる。
それなのに、なんだってああ恐慌状態に陥って、逃げ回るはめになったのかを考えると、今は『マリエル』になっているオーリアスは、恥ずかしさと困惑で立ち上がれなくなりそうだった。
少し捲れてしまっていたローブとチュニックの裾を引っ張って直し、抱えた膝に顔を埋める。
さっきの狂乱が嘘のように、穏やかな昼の気配が辺りには満ちている。カティスにもらった箱を、ここまで投げ出さずに抱えてくることができたのは奇跡のように思えた。
「……最悪だ……」
怖かったのだ。力で適わない相手に近寄られて。
見知らぬ男に言い寄られて、力ずくでどうにかしようと思えばされてしまうような状況が、怖かったのだ。
だから逃げた。
あんな、どこを走っているのかもわからなくなるほど混乱して、ただ怖かった。
男だった時なら、こんな恐怖があるとは思いも寄らなかったに違いない。オーリアスは男で力も強くて、剣もそれなりに扱えて、それは勿論、自分より強い人間がたくさんいることは当たり前に理解していたが、自分を不当に踏みにじられる可能性についてなんか、考えたこともなかった。
もし。
もし、今のオーリアスの身体から、物心ついたころから当たり前にあった怪力がなくなってしまったら。
普通の女性のように、マリエルのように、男に掴まれたら逃げ出すことさえままならないような状況になってしまったら。
小さな身体を、さらにぎゅっと縮める。自分が女の身体になって、なんだかんだ言いつつもそれなりにやってくることができたのは、どうにかなると思っていたからなのだと、はっきりわかった。
邪魔なくらい大きな胸も、生理の痛みも、嫌だけれど我慢はできた。マリエルという優しい友人がいて、立ち直る手助けをしてくれたからというのもあるが、それらは仕方ないなと諦めがつくものだったのだ。嫌だけれど。
でも、さっきのは違う。
人より強い自覚が、自信があるから、どんな目で見られても平気だった。
胸だろうが足だろうが、見たければどうぞ、お気持ちわかりますよと平静でいられたのだ。見られるくらい、どってことない。
しかし、それは『自分が勝てることがわかっている』という前提での余裕だ。
自分が『普通の女の子』だったら、そんな余裕など持っていられるわけがない。
あの日、オーリアスは突然男から女に変わってしまった。
だったら、これまで当たり前にあった怪力だって、ある日突然消えてしまう可能性だってあるわけで。
そうしたら。
そうしたら、自分は一体どうすればいいのだろう。
力持ちじゃなくなった自分なんて、そんなの。
そんなの、それはもうただの女の子じゃないか。
こわい、と声に出してしまったら本当のことになりそうで、奥歯を噛んだ。
ひたすら走って火照っていた身体が、段々冷めてくる。マリエルの身体に風邪をひかせるわけにはいかない。
のろのろと立ち上がったオーリアスは、温かいところ、人のいるところに行こうと歩き出した。ここからなら、女子教員寮よりも校舎に入ってしまった方が早い。校舎に入って、困った時の救護室に行こう。男から女になってしまった時はあまり役に立たなかったが、この状況を説明して、少し休ませてもらえばいい。
そうして、なるべく人目につかないようにして、校舎までやってきたのだった。
もし、余裕があれば、もう一度ここの飾りを見にこよう。マリエルやグレゴリー、コタローと一緒に。
癒されるような気持ちで壁を眺めていたオーリアスは、きゅるる、と空腹を訴える音が鳴ったのを契機に、またとぼとぼと廊下を進みだす。
先に食事を摂りに行ったほうがよかっただろうか。だが、なんとなく心細くて、一人で行くのは嫌だった。
ブーツの踵が鳴るこつこついう音を聞きながら、ようやっと救護室の前までやってきた『マリエル』は、ほっとして扉を叩いた。
「……はい、どうぞ。今たてこんでるから、勝手に入ってきなさい」
「失礼します」
やっと休める、と安心したオーリアスは、安息の場所である救護室の中に『寝台の上に縛り上げられて転がされている恨めしげな顔の担任教師』という試練が待っていることを、知らない。