84、「す」のつくあいつ
冷たい風に、背中の半ばまである長い黒髪がなびく。
さらさらとかすかな音をたてるつやつやの髪に少し羨ましい気持ちを抱きながら、マリエルは女子教員寮の裏手を歩いていた。このまままっすぐ行けば女子学生寮に着く。
鏡の前で、観客が自分だけのショーを心ゆくまで開催した後、我に返って切なくなるとともに、異様に恥ずかしくなったマリエルは、そそくさと出かける準備を整えた。
ちょっとはしゃぎすぎたかもしれない。友人の身体でこれ以上あれこれするのはやめておこう。
オーリアスがいつも着ている黒いシャツと、ショートパンツ、それにニーハイ、ついでに一度も使用した形跡のない、紺地に白の細縞の下着を失敬して着用すれば撲殺魔女の出来上がりだ。
勝手に箪笥を見てもいいのかしらと悩んだのは一瞬で、こんなことでもなければ、折角買った可愛い下着は箪笥の肥やしのままだろうといそいそと新しい下着を着けて、その大きさに戦慄したのは秘密である。
「いい天気……」
ほわっと白くたゆたう霧を吐き出しながら、枯れた草をさくさく踏む。
空気も澄んでいて、寒いが気持ちいい。
いつもと違う目線が新鮮で、『オーリアス』はほんのりと笑みを浮かべていた。すれ違う生徒達がいつもと違う雰囲気の撲殺魔女に一瞬だけ振り返るのには気づかない。
「あ、シャーレン! おはようございます」
クラスは違うが、寮の部屋が隣同士で仲のいい友人が前から来るのに、マリエルは笑顔で声をかけた。
「お、おはよ……」
「可愛いですね、その髪飾り」
「そ、そう? これ、今日おろしたてなんだ」
「シャーレンは髪が栗色だから、赤が映えて素敵です」
「ありがとう」
どちらかというと歯に衣着せぬ性格の友人が、珍しくもじもじと頬を染めて俯いているのを『見下ろした』マリエルは、さっと青褪めた。
やってしまった。今マリエルは『オーリアス』なのだった。それなのに、寮でしか殆ど顔を合わせない他クラスの生徒とオーリアスが知り合いなわけがない。
「マリエルとパーティ組んでるのは知ってたけど、結構きさくなんだね、オーリアスって」
「そ、そう、かな?」
「あたしのこと、マリエルに聞いたの?」
「は、う、うん、そうなんだ」
「そっか」
にっこりしている友人を見下ろしながら、マリエルは必死にオーリアスらしさを求めて記憶を辿っていた。話し方、動作、行動。一体どうすれば『オーリアス』らしく見えるのだろう。
「マリエルに会いに来たの? マリエルなら、さっき寮から出て行ったよ」
「あ……そう、なんだ」
さて困った。もしかして行き違いになってしまったのか。
「髪飾り褒めてくれてアリガト。はい、これあげる」
小さな肩かけ鞄を探った魔法使いの少女は、何かを掴むと『オーリアス』に差し出した。
「もらっていいの?」
「うん。これ美味しくて、今はまってるんだ。今度ゆっくり話そうね」
「う、うん。じゃあ、また」
機嫌よさそうに行ってしまった友人の背中を見送って、『オーリアス』はため息をついた。
危なかった。これは気をつけないと、おかしなことになりそうだ。
「オーリ、どこにいるのかな……」
鏡の前ではしゃいでいた時はこの状況を楽しんでいたが、今の出来事によって、急に不安が湧き上がってくる。
ころりと手のひらに転がるのは、模様の入った包装紙に包まれた飴。
それと引き換えに不安を手に入れてしまったマリエルは、先程までとは裏腹に、しょんぼりした様子でとぼとぼ歩き出した。
クロロスの中身を探そう。
そう勇んで救護室から飛び出したはいいが、グレゴリーとコタローはすぐにその難しさに気がついた。クロロスを探すのではない。クロロスの『中身』を探さなければならないのだ。
当たり前だが、中身というのは目に見えない。目に見えないものなんて、一体どうやって探せばいいのだろう。
手がかりはあの『クロロス』の中身が、人間ではないらしいということ。そして、どうやら二足歩行でも四足歩行でもないらしいということだ。
「……アレッテ虫、カナ?」
『コタロー』がこてんと首を傾げる。虫。確かに、人間ではないし、中には足を持たないものもいるだろう。しかし、それにしては表情豊かだったあの『クロロス』を思うに、少し違うような気もした。
かといって、何かと言われても困ってしまう。
ルーヴはクロロスの昨日の行動を探りがてら、校内を探してみるということなので、二人は今、校舎を出て、外にある研究棟の前まで来ていた。
とりあえず、現段階では『クロロスは虫と入れ替わった説』が濃厚なので、不自然な動きをする虫がいないかどうか、確認しながらここまで来たのだ。途中、凍りついたように動かない蜘蛛と、枝からぶら下がる蓑虫を発見して、もしやという思いにかられて近寄ってみたが、蜘蛛はそっとつついたらのそのそと壁の隙間に消えていったし、蓑虫は、考えてみればぶら下がっているのが通常なのだから、あのひたすら動き続ける情熱溢れる『誰か』とは違うだろう。
「先生、ドコニイルノカナ……」
『グレゴリー』に返答しようとした『コタロー』は、吹き抜けた冷たい風に思わず首を竦めた。外套は羽織っているものの、寒い。
「グレゴリーッテ、イツモコンナニアッタカインダネ。イイナァ」
対して『グレゴリー』はうっとり目を細めている。グレゴリーはしみじみと自分の毛皮に包まれた身体を見つめた。我が身を離れて、初めて実感した毛皮のありがたさである。毛皮が無いとこんなに寒いとは。どうりでオーリにもマリエルにも、見ているだけで寒いから襟巻きくらいしろと叫ばれるわけだ。
目の前でふさりふさりと尻尾が揺れて、コタローが喜んでいるのがわかる。
「ボク、寒ガリダカラ、チョット嬉シイヤ」
『コタロー』は黙って頷いた。こうしてコタローの身になってみれば、声が出せないということの大変さがよくわかった。元々そう喋るほうでもないグレゴリーでも、咄嗟に声が出せないという状況に精神的な圧迫を感じている。元からおしゃべりな人がこうなったらさぞ大変だろう。
薄暗くて、なんとなくおどろおどろしい研究棟の中に入り、受付で記帳する。
ああ、クロロス先生の中身よ、いずこ。
二人の脳裏に『クロロス』の奇行が浮かんだ。
先生があのままだったらどうしよう。もうポーションを作る授業もできないし、『お静かに』されるんじゃないかと怯えなくてすむし、視線と気配で無言の説教という陰湿な怒り方をされることもないのだろうか。
あれ、いいことばかりだな、と思ったコタローは慌ててぶんぶんと首を振った。その頭上でぴるぴると耳が動く。
普段、非常に物静かなコタローなのに、今は尻尾は揺れているし耳も動いているし、とてもわかりやすい。もしかして、喋れることに結構浮かれていたりするのだろうか、とグレゴリーは口布の中で音なく笑う。
軋む階段を上がって、廊下の奥。
部屋の主が不在なのはわかっていたが、一応扉を叩いて、そっと取っ手を回したグレゴリーは、軽い音と共に扉が開いたことに驚いた。
念の為の確認としてやってきたのに、鍵が開いている。
「先生……ココデ、寝テタノカナ?」
漂い出る不思議な匂いは、いつものクロロスの研究室の匂いだ。誰もいないのを確認して、二人はこっそり部屋の中へ入り込んだ。
部屋の中に、特に変わった様子はなかった。
数え切れないほど引き出しのある大きな箪笥、何に使うのはさっぱりわからない器具。机の上には紙の束が山のように置いてあるし、きらきら光る小瓶の詰まった箱もある。
床も棚もきちんと掃除されていて、変な虫がいそうな気配はない。
「ヤッパリ、ココジャナイミタイダネ」
普段の高さと違う視線で見るクロロスの部屋が物珍しく、きょろきょろしていたグレゴリーとコタローは、何か小さな音が聞こえたような気がして動きを止めた。
こん、こん、こん。
極小さな音だった。気をつけていないと聞き逃してしまいそうな。
不規則に響くその音を探し、二人は耳を澄ませる。主のいない部屋に勝手に入り込んでいることへの後ろめたい気持ちと、響いてくる不思議な音への好奇心が重なって、二人の心臓の音も早くなる。
ぴるぴると耳を動かしていたコタローは、静かに床の片隅に置いてある籠に近づくと、その中を覗きこんだ。
「ウワア、コレ、何ダロウ!?」
「!?」
慌てて『グレゴリー』の見ているものを覗き込んだ『コタロー』は、なにやら見覚えがあるような気がして眉を寄せる。
二人が覗いた籠の中。
そこには大きな蓋つきの硝子瓶があり、その中には、なにやらうねうねした拳大の何かが動いていた。
「……っ!?」
ソレが何か思い至ったグレゴリーは、声が出せないもどかしさに足踏みしながら、帳面にがりがりと書きつけた。まさかここにいるなんて。
「エ……コレ、アレ!? 君ノツクッタスライム!?」
こくこく頷いて、おそるおそる瓶を取り出す。一抱えもあるような大きな瓶の中で、薄紫色のスライムが硬直していた。
「ア、怖ガッテルノカナ……動カナクナッチャッタ」
グレゴリーはなんともいえない気分で、スライムを見つめた。あの時とは色が違うし、少し大きくなっている気がするが、多分、これはあのスライムではないだろうか。
「先生、飼ッテタンダネ……」
じーっと見守る二人の前で、ふいにスライムが激しく動き始めた。
「ワッ!?」
蓋部分目掛けて、何度も飛び上がる。
ぷにょんぷにょんとした動きの度に、こん、こん、と音が鳴った。
「コノ音ダッタンダ……」
よほどこのスライムは外に出たいらしい。もはや執念じみたその動きがかわいそうになってきた二人は、硝子瓶をしまおうと籠に向き直った。飼い主の許可なく、勝手に外に出すわけにはいかない。
「スライムッテ、何食ベルンダロウネ?」
「……?」
スライムの生態の謎に顔を見合わせて首を傾げた二人は、ふと元と同じようにしまいこまれた瓶を見下ろした。
二足歩行でもなく、四足歩行でもなく、うぞうぞ動く生き物。
そんな、まさか。
慌てて引っ張り出した瓶の中で、スライムは精魂つきたようにぐったりしていた。
「セ、先生……?」
恐々呼びかければ、勢い良く伸び上がり、何かを訴えるように動く。
狼族と忍者の目が飛び出そうになった。
スライム!
先生はスライムになっていたのだ!
どうりであの『クロロス』がうぞうぞ動いていたわけだ。なるほど、スライムなら全てに納得がいく。
ああ、先生!
よりによってなぜスライムに。
入れ替わる相手なら他にもたくさんいただろうに。
二人はこみ上げてくる熱い何かを振り切るように部屋を飛び出すと、クロロス入りスライムの入った瓶を抱え、救護室へと駆け出した。




