81、彼女?と彼女の場合
『もっかい言ってよ』
涙ぐんでいるような、笑っているような声が繰り返す。
抱かれている温かい感触と、くすぐったさ。
懐かしい気分で目を覚ましたオーリアスは、ぼんやりと目を開けた。
ちちち、と鳥の鳴く声がする。ぬくぬくと毛布の中に潜り込んで、あくびを一つ。
今日は聖誕祭。夕飯はマリエルたちと一緒に食べようと約束しているが、それ以外は特にない。もう少し寝ていたってかまわないだろう。
そのまま二度寝に入りかけたオーリアスを目覚めさせたのは、自分自身の寝返りだった。正確に言うと寝返りを打った際の違和感だ。
元から一つに括っていた髪は今では随分長くなって、少々煩わしく感じることもある。寝ている時など、うっかり髪を背中に敷いて寝たりすると、寝返りの度に引き攣れてはっとするのだ。そのせいで、普段は緩くまとめて頭上に流すか胸の前に垂らすかして寝ているのだが。
ごろん。
目を閉じたまま、毛布の中で寝返りを打つ。とても快適に左から右に向くことができた。
ごろん。
その逆も意のままだ。
おかしい。もう慣れてしまったとはいえ、あの鬱陶しさがない。すりすりと枕に後頭部を擦りつけても、引き攣れることもなく快適である。それになんだこのほのかに甘い匂いは。
自分の寝台からこんな匂いがしたことなんかなかったはずだ。するとしたら、精々すっとする薬草の匂いくらいである。
渋々と目を開けて、毛布から顔を出して部屋を見渡したオーリアスは、ぎょっとして飛び起きた。
部屋の広さは変わらない。ただ、ここが自分の部屋ではないことは間違いなかった。オーリアスの部屋にはあんな大きな箪笥はないし、可愛らしい小さな卓も、立派な鏡台も勿論無い。漂うのはほんのりした花のようないい匂いで、この匂いには覚えがあるような気がした。
おそるおそる寝台から降りようとして、あげそうになった悲鳴を飲み込む。
やわらかい生地、袖や裾にさりげなく施された可愛らしい刺繍。上下に分かれずに、すとんと足元までを覆う、朝の光を透かす布越しに浮かび上がる、薄い桃色。こんなかわいらしい寝巻きなんか絶対に持っていないし、着たこともない。
おかしい。間違いなく、昨日は自分の部屋で寝たはずだ。それなのに、起きてみたら全く見知らぬ場所にいて、とんでもないものを着せられている。それに、それにこれは喜ぶべきことかもしれないが、胸が無くなっている。あの小山がなくなっているのだ。
もしかして、男に戻ったのだろうか。いや、だとしてもあまりにもおかしい。
そろそろと頭に触れてみると、細くてやわらかい髪が指に絡む。硬めで寝癖もあまりつかない、馴染んだ髪の感触ではない。それになにより、顎の辺りまでしかない髪の色が黒ではなくて金だった。
わけがわからないまま、ふらふらと寝台から降りると冷えた空気が全身を包んだが、そのおかげで目がはっきりと覚める。
おそるおそる手近の鏡台に近づいて鏡を覗いて、今度こそ声を上げた。
「なっ、マ、マリエル!?」
ぎょっとした顔をしている少女が鏡の向こうでこちらを見ている。思わず出してしまった声も、聞き慣れた少女のものだ。少し高めの、女の子らしい声。
慌てて周囲を見回しても、誰もいない。しんとした部屋の中、困り果てた顔をしたマリエルが鏡の向こうにいるだけだ。
そうして、視線の高さも違うということに気づく。マリエルはオーリアスよりも20シム以上小さいのだから、『オーリアスの感覚』を持って『マリエルの視界』を見ていれば、違和感があって当たり前だった。
「……なんだ、これ……」
困り果てて、よろよろと寝台に腰を下ろす。
夢でも見ているのだろうか。寝て起きたらマリエルになっていただなんて、そんな馬鹿な。
見下ろした小さな手も、まるで自分の手とは違う。爪も小さくて女の子らしい。ただ、手のひらの側は、しっかりと皮が厚く、何度も肉刺を潰して出来あがった手だということがすぐわかる。
剣。剣を握る手だ。この手は。
こんなに細くて小さいのに、と半ば逃避するように『マリエルの手』を撫でたオーリアスは、はっとする。今なら、もしかして剣を振るうことができるかもしれない。もうずっと杖しか装備できなかったが、もしかして。
思い至った可能性に立ち上がり、そして剣を握れるかもしれないということ以上に、重大なことに気がついた。
信じられないが、どうも自分はマリエルになってしまったらしい。ということはだ。
「おれがマリエルになって、じゃあマリエルは……」
一番高い可能性としては、『オーリアスの身体にはマリエルが入っている』だろう。
「こんなことしてる場合じゃなかった!」
とにかく一刻も早くマリエル入りの自分と合流して、現状を確認しなければ。
慌しく出かける用意をしようとしたオーリアスは、ぴたりと動きを止めた。不自然な動作で、見慣れない箪笥を見て、愕然とする。箪笥の上には白くて丸い平皿が置かれ、中には綺麗な端切れで作られた小さな巾着がいくつも盛られていた。ひとつひとつ柄の違うそれは、ふわふわと甘い香りを漂わせている。どうやら手作りのサシェらしい。
かわいらしいそれらを通り過ぎて、鏡の中に戻ってきた緑の目が愕然とこちらを見る。気がついてしまった。まさか寝巻きで外に出るわけにはいかない。つまり、着替えなければならない。そうすると寝巻きを脱がなければならないし、下着だって着けなければいけないわけで。
「だ、ダメだろそれは!」
最近はどうも扱いが怪しくなってきているが、オーリアスは男である。現在女の身体にそこそこ馴染んでいようと、それは譲れない。
そのオーリアスが、勝手に女の子の下着を物色してもいいものか。何より、着けるためには見なければいけないのだ。どこを? もちろん、女子の秘密の花園たる、胸である。自分のものならもはや見慣れた小山にすぎないが、あれだけ胸に関することになるとぴりぴりするマリエルの胸を、勝手に見るだなんて!
以前マリエルはオーリアスになら下着を見せてもいいと言ってくれたが、下着の中まで見せてくれるとは言っていない。
「そういう問題じゃない!」
これはオーリアスの自意識の問題である。
だが一刻も早く自分の身体がどうなっているのか確認したい。
しかし、その為にはマリエルの見てはいけない部分を見ることになってしまう。
小さな卓の上には、見慣れた白いローブと中に着るチュニックがきちんと畳まれて置かれているので、これまで探すはめにならなくてよかったが、一体どうすればこの状況を打破できるだろう。
いっそ箪笥を漁るのは許してもらって、『その部分』は見ないようにして下着を着ければいいのか。
しかし、普段着けているのが上からすぽん、の自分にそれは荷が重い。そんな上級技術は身につけていないので、背中で鉤の部分を留めるのに、学園祭の時だって四苦八苦したのだ。
ああ、一体どうすれば。
部屋の中をうろうろ歩き回り、頭を抱え、唸っていた金髪の少女は、突如はっと顔を上げた。
発想の逆転。そう、発想の逆転だ。
そろそろと『自分』の胸元を見下ろす。女の子らしいふわふわした寝巻きに包まれたその部分をそっと見つめた後、一つの可能性を見出した。
『オーリアス』の身体で下着を着けずに外出したら、間違いなく痴女である。いろいろと目立ちすぎる。大きいというのは全く持って不便なものだ。
しかし、これなら。
チュニックを着て、さらに上からすっぽりとローブを装備するマリエルなら。
下着を着けずに、つまり、見てはいけない部分を見ずに、えいやとチュニックを着てローブを被ってしまえば、いけるのではないだろうか。
もう一度その部分を見下ろし、ごくりと息を呑む。
いけそうな気がする。多分、いける。戦闘で激しく動き回ったりするわけではないし、いける気がする。
「小さいって便利だな……いや、でも……」
そんなことは許されるのだろうか。だが、自分がマリエルの身体を見てしまうのも気が引ける。
眉間に皺を寄せて、うんうん唸り始めた『マリエル』がやっと覚悟を決めたのは、とうに朝が過ぎ、昼の気配が近くなってからのことだ。
「ふふ……うふ、うふふ」
たゆん。
身体を動かす度に揺れる『ソレ』に、マリエルはちょっと興奮していた。
たゆん、たゆん。
「きゃー、すごい、すごーい!」
うふふ、うふふ、と嬉しそうに色気の欠片もないそっけない寝巻きの胸を揺らして喜んでいる『オーリアス』は、きらきらと輝くような笑みを浮かべている。
「すっごいなぁ……」
ほうっとため息をつき、そっと下から持ち上げてみる。やわらかくて、重い。ふにふにと揉んでみる。とても『揉んでいる』感じがした。
「これはすごい……すごいですよ! 知ってましたけど!」
目が覚めたら全く知らない部屋、鏡を覗いたら『オーリアス』という状況には驚いたものの、驚きが一周して変なところに落ち着いてしまったマリエルは、この状況を楽しんでいた。
どうしてこんなことになってしまったのかはわからないが、なってしまったものは仕方がないではないか。仕方ないのだから、悩むよりは楽しんだ方がお得である。
だって、こんなことでもなければ絶対に味わえなかった『素敵な胸の自分』なのだ。勿論この身体はオーリアスのものだが、この身体を現在所有しているのはマリエル。
つまり、このたゆんたゆんしているモノだってマリエルのものだ。
ならば、ちょっとくらいいいではないか。ゆさゆさしたり、お色気ポーズをとってみたり。
考えてもみてほしい。普段のマリエルがゆさゆさしたところで、揺れるものなど、ない。
いや、少しはある。ちょっぴりはあるのだ。でも、こんなにたゆんたゆんは、絶対にしてない。
お色気ポーズなんて、やっても鼻で笑ってしまう出来になることが確実だが、今の身体なら。
うきうきと壁にかけられた鏡の前までやってきたマリエルは、両腕で思い切り胸を挟んで強調する格好をして鏡を覗いた。
「すっ、すごい、すごいですこの破壊力……!」
お次は誘うような流し目をしながら、軽く指を引っかけて、上着の首周りを引き下げてみる。
「きゃーっ、きゃーっ! オーリったら! オーリったらこんなことして!」
やっているのは中に入っているマリエルだが、実際にポージングしているのは『オーリアス』なわけで、それはもう小山の破壊力と相まって、大変性的な感じに見えた。結ばれていない、長い黒髪が雰囲気を変えている。
ちょっと変わった着せ替え人形遊びのようで、マリエルは大興奮する。
こんな格好、オーリは絶対やってくれないですし。
こんなことを自主的にしていたら、もうそれはオーリアスではないとは思う。だが、折角の見た目と素敵なモノをお持ちなのだから、使わないのは勿体ない。誰に見せるわけでもなし、自室でやってみる分にはいいだろうと勝手に納得し、おおはしゃぎで色んなポーズを決めていくマリエルには『誰かと中身が入れ替わってしまった』現象に対する不安は、今のところなかった。
「ぼ、釦、ぼたんも外しちゃおうかな……!」
どんなに楽しく堪能したところで、この魅惑のたゆんたゆんは自分のものにはならないのだ、という現実に、切なくなって正気に戻るまで、もう少し、時間がかかりそうだった。