67、学園祭二日目午後の部 その時二人は喧嘩をした
『気をつけなさい。あんたはあたしと同じなの。あんたが誰かを本気で殴ったら、その相手は死ぬ。あんたが軽く殴っても、うっかり骨ぐらい折れるかもしれない。いい? 殴るときは手加減よ、手加減! 一に手加減、二に手加減、三、四、五、六、それ以降も全部手加減だからね!』
物心ついて以来、それはもう言い聞かされ続け、時に『とても手加減した拳骨』を使われながら育てられたオーリアスは、その時、叔母の教育に心から感謝していた。
ついぶん殴ってしまった相手が宙を飛んで黒板に激突して、ずるずると床に伸びたのを見下ろす。白目を剥いて気絶している少年のその左頬は真っ赤になり、哀れなほど腫れあがっていたが、自分が殴った相手を心配するより先に、この場にいる誰よりもオーリアスは安堵していたのだ。
ああ、よかった。
死ななくて。
クラスメイトの悲鳴と駆けつけてきた担任の視線を一身に浴びながら、そう思っていた迷宮学園入学初日のホームルーム。
「に、にお……!? こ、こ、この下賎民めが! 貴様には慎みと恥じらいはないのか!?」
「はあ?」
人の顔はこんなにも赤くなれるのかと感心するくらい真っ赤になって怒っているオルデンに、オーリアスは小首を傾げた。なぜこんなに怒っているのか全くわからない。そしてなぜこんなに怒られなければならないのかと、理不尽さにむっとする。
「なんで匂い嗅いだだけでそんなに怒られなきゃならないんだよ。後ろ向けって言ったら向いたのおまえだろ!」
「後ろを向くことと匂いを嗅ぐことがなぜ同じ意味になる!? 後ろを向くは後ろを向く! 匂いを嗅ぐは匂いを嗅ぐで全く別物だろうが!」
「なんだよ! 前からだと嫌がるかと思って後ろからにしてやったのに!」
「後ろからだろうと前からだろうとやってることは同じだとなぜ気づかんのだ!?」
「だから! なんで匂いを嗅がれたくらいでそんな怒るんだよ!?」
「なぜ怒られないと思うのか全く理解できん……!」
いい争う内に段々声が大きくなり、その内教室の外にまで怒鳴り声が響き始める。至近距離で睨みあう二人の様子をくじを引きにきたお客さんがそっと扉のところから覗いているのだが、二人はそんなことには全く気づかない。
「男だろうと女だろうと変わらず腹の立つ……!」
「そっちこそもう少しまともなこと言えないのかよ!」
「今さっきまともなことを言っただろうが!」
「何が!?」
「……これだから馬鹿は!」
とうとう掴み合いが始まり、ポーションくじを引きにきたのに生徒の喧嘩を見守るはめになったお客さんたちは、取っ組み合うメイド服の少年と、お色気占い師のような格好をした少女をはらはらと見つめた。片方は女の子だというのに、二人の喧嘩は実に喧嘩らしい喧嘩だった。掴みあいもその下でちょいちょい出されている蹴りも、少年と比べて全く遜色ない。まだ大丈夫そうだし、いざとなったら止めに入ろう。
「誰がバカだよ!? そっちがバカだろ!」
「なんだと!?」
「そんな格好で睨まれても全然恐くないんだよ!」
「貴様だって同じようなものだろうが! なんだその無駄な露出は!?」
「仕方ないだろ時間なかったんだから! そっちこそスカート捲れてるからな!」
殴り合いになったらどうしよう、いやまさか女の子の顔は殴らないはずよ、むしろあの子の方が押してるわ、と今や見世物のようになってきた二人をお客さんたちがはらはらわくわくと見守る中、床に転がってとっくみあっていた二人の喧嘩にようやく勝敗がつく兆しが見えてきた。
転がりついでにポーションの入った箱をどちらかが蹴り飛ばしてかなり派手な音を立てたが、どちらも興奮のあまり気がついていないらしい。
「……ぐっ!」
「おれに勝てると、思うなよ!」
その細腕のどこにそんな力があるのかと驚くような力で、少女が圧し掛かっていた少年を押し返し、えいやと体勢を入れ替えた。お客さんたちの鼓動も跳ね上がる。まさか女の子が勝ってしまうのか。
固唾を呑んで見守るお客さんたちの前で、メイド姿の少年に馬乗りになった美少女がにやりと笑う。
「おれの勝ちだろ!」
「このっ、はやくどけっ!」
「うるさい! おまえが謝るまでどかないからな!」
勝ち誇って、ぐい、と上から覗きこんだオーリアスは、ふと気がついた。
こんなふうに、誰かと喧嘩したのは初めてだ。
初対面の時だって、我慢できずについ手が出ただけで。
その後は当たり前かもしれないが一方的に嫌われて、オーリアス自身もオルデンという人間のことを到底好きにはなれなかったし、友達なんて元々いない生活だったのだから、友達ができないように手を回されたって平気だった。だから、そのことで怒りを感じることもなかったのだ。面倒くさい奴だなとは思ったが。
喧嘩というのは、なんだかとても『友達』らしい行為のような気がする。別に仲はこれっぽっちもよくないので、友達でもなんでもないけれど、友達っぽい行為であることは間違いない。
少なくとも、オルデン・ラビ・ラビュリントスが、今この瞬間、初めてのまともな喧嘩をした相手になったことは間違いなかった。
ふいに表情を変えて、じっと真剣な顔で見下ろされたオルデンは、怒鳴りつけようとしていた毒気を抜かれて、顔を引き攣らせた。
嘲ってやろうにも、言葉が出てこない。つかみ合ったままの互いの手から力が抜ける。
何か考えるような顔をしているオーリアスを見上げたまま、空白になったオルデンの思考に、妖精の悪戯のような感傷的な囁きが浮かんできた。
こんなふうに、誰かと触れ合ったのは初めての気がする。
いつだって誰かに傅かれていた。それが当たり前で、当然のことなのだと一番近しい肉親は数え切れないほどオルデンに言い聞かせた。自分とオルデンは特別なのだ、と。
尊い血を持ち、この国を手にするに相応しい特別な存在。だから、それ以外は皆どう扱ってもいい存在で、使ってやればやるだけ喜ぶのだから、好きなだけ使いなさい、と。
自分とオルデンは特別なのだと熱っぽく語る人は、けれどオルデンに触れようとはしなかった。
いつだって絹と宝飾品に囲まれている人は、幼いオルデンを抱きしめたこともなければ、寝かしつけてくれたこともない。
王子というのはそういうものなのだと思っていた、それなのに、そうではなかったと知った時の気持ちを、一体なんと表現すればいいだろうか。
力が抜けて、ただ握り合っているだけのような、繋がった指から伝わる体温は熱かった。腹の上に乗られているのは重いが、温かい。
そうして、しげしげと互いを見つめている二人に、お客さんたちの興奮は最高潮になっていた。
激しくとっくみあっていたと思ったらふいに何かに気がついたような顔をして、夕日の差し込む人気のない教室の中で見つめあう二人。片方は少年、片方は少女とくれば、もしやこれは盛大な痴話喧嘩だったのだろうか、それとも喧嘩を乗り越え、恋が生まれてしまったのだろうか、と目を皿のようにして二人を見守る。
ああ、なんて甘酸っぱい。もうポーションくじなんてどうでもいい。
そんなお客さんのことなど露知らず、二人は無言で手を解くと、ぎこちなく体を離し、黙ったまま身づくろいして、そういう約束でもしていたかのようにさっと背中を向けた。
そのまま出て行こうとしたオルデンの背中に、困惑したような少女の声が届く。
「なぁ」
黙ったまま足を止めた少年は振り向かない。
「……なんでもない」
ぽつりと響いた少女の言葉がころりと床に転がる前に、少年は足早に教室を出て行った。
困ったような顔をして髪をかきあげた魔女の目に、設置してあった場所から大幅にずれたところに飛ばされていたポーションの箱が映る。
箱の底に転がっている残り少ないポーションの小瓶が、橙色の光を受けて鈍く光っていた。