62・5、その頃彼らは 5
「やぁ、久しぶりだな、我が最も古き同胞よ!」
静謐な青い空間に、陽気な男の声が響いた。豊かさを感じさせる朗らかなその声は、大抵の人間に好意を抱かせるものだったが、この場の主は鬱陶しげに閉じていた目を片方だけ開けて、声の持ち主である招かれざる存在を見た。
「……永遠に眠っていればいいものを」
色のついた眼鏡をかけ、きちんとした身なりの男は、どこかの気さくな貴族のように見える。立ち居振る舞いも見た目相応の落ち着きと、洗練された品の良さを感じさせる。だが、その本質は男の見た目とかけ離れていることを白い少年は知っていた。
「少々『腹が減った』もので、目が覚めてしまった。そこで、食事ついでに色々と出歩いているのだよ。ここも実にいい場所だ。まるで果樹園じゃないかね? 右を見ても左を見ても、もぎ放題の果実が鈴生りの果樹園」
にこやかな笑みを浮かべている男の目の奥にぎらついた欲望が揺れる。
「青い果実はいい。熟す前の酸味、硬い歯ごたえ、仄かな甘み、淡く色づいた美しさ……未熟な良さを味わうのも楽しいものだ。成熟した果実はもちろん、素晴らしい。まるでもいでくれといわんばかりに香りたち、そっと歯を立てればやすやすと皮が弾け、芳醇な中身があふれ出してくる……しっとりとそれでいて鮮やかな美しさもいい。それを啜り、貪るのは実によろしい。時には、腐りかけのどうしようもない果実も楽しめる」
熱を込めて、今にも涎をたらしそうな顔で、男はここにはない『果実』について語った。
「今にも地面に落ちそうな、いや、地面に落ちてぐずぐずに腐れ落ち悪臭を放つような、そんな果実も時にはいいものだ。食べ合わせ次第では、そんな腐りかけこそ、花開くような美味に変わることもある。汚泥のような色だからといって喰わず嫌いはよくない」
「……用件を言え、『悪食』。我は忙しい。おまえが眠りについて、何年が立った? 小さきものの時など我らにとって刹那とはいえ、それなりの時が過ぎたはず」
巨大な繭からのぞく少年の開かれた片目に宿る気配に、男は雄弁なその口を閉じ、笑みの形に吊り上げた。
「おお、怖い! 怖い! 我らが最も古き同胞よ、そう怒らないでくれたまえ。先ほどのことを怒っているのかね? ちょっとした茶目っ気じゃないか。あれほどきれいでおいしそうな果実を、わざわざ木から落とすようなことはしないとも。ただ、少々確認したいことがあっただけなのだよ」
男はひょいと何もない空間にそこに椅子があるかのように腰を下ろし、朗らかに少年を見つめる。何年立とうとも、少年は少年のままここにいる。男が眠りにつく前もそうだったし、きっとこれからもずっとこの姿なのだろう。男がずっとずっとこの姿をとっているように、少年も少年のままでい続ける。
何かが起きない限り、きっと永久に。
ここはまるで小さな、可愛い箱庭。いつだって自分達には、この世界は小さくて、あまりにも愛おしい。同胞たちは、皆この世界を愛しんでいる。程度に差はあれ、いつだってこの世界に干渉し、見つめ、時には笑い、怒り、少なからぬ命を奪い、または生み出し、小さな世界を抱きしめている。
「最も古き同胞よ」
「……我が名はクレイドル。小さき同胞よ、二度は言わぬ」
「随分とその名が気に入りなのだな、クレイドル。わたしが眠りにつく前にもその名のままだった」
少年に名前を与えた小さきものは、とうに消えてしまったのに。
ほんの少しの欠片も、魂の匂いさえ残さずに。
ゴーガンと呼ばれた男はそれを見ていた。見ているだけで何もしなかった。そして、少年も。
揺らめく青い空間の中に片方だけ開かれた銀の目が、遠い記憶を辿るように宙に向けられる。
男は、この少年のそういう『同胞』らしくないところがわりと好きだった。傷つく心など持ち合わせていないはずなのに、いつのまにか少年の好きな小さきもののように振舞うようになり、いつのまにか、そうではなかった頃の少年の姿は記憶の彼方に追いやられて、わざわざ引き出さないと思い出せないほどになった。
「そういえば、ここに案内してくれた果実、あれは実にうまそうだったな。程よく熟れて、少し癖がありそうな……帰りに食べていってもいいかね?」
「だめに決まっているだろう、この『悪食』め。千の島と百の国、『牙』の左足と『目』の右目、『爪』の指三本喰って、まだその飢え癒されぬとは哀れよな」
ぎらりと男の目が光る。それは全ての生き物の、全ての憎しみと殺意をあわせてもまだ足りない呪いに満ちていた。
「……口を慎みたまえ、『太古』のクレイドル。それとも、それは遠まわしな許可か? この果樹園で好きに喰らえという意味か?」
青い空間に、かすかな吐息が響く。
「謝罪しよう、小さき同胞よ」
「許そう、最も古き同胞よ。これでも主に仕えるようになってから、不思議と飢えが治まっているんだがね」
「……主だと」
「そう、実は最近、主に仕えるようになってね」
少年は閉じられている方の目蓋を震わせた。開かれた方の目が信じられないものを見るように、見開かれる。
「……我も年よな。耳が遠くなるとはこのことか」
「それが実にかわいらしい主で、わたしとしては主の願いを叶えてあげたいと思っているんだが」
愛らしい声に不似合いな嘆きの文句も意に介さず、男は自分の望みだけを告げる。いつだってそうしてきたし、これからだってそうするだろう。それが『同胞』のやり方で、少年が変わり者だというだけなのだ。とはいえ、男だってそれなりに変わり者で、だからこそ、少年は男をここへ招きいれたのだろうが。
「それはつまり、我に何かしろという話か」
「そのとおり。少し助けてもらいたい」
「……悪食ゴーガンを手助けせよとは、運命神を信じる小さきものが聞いたら、気を失いそうな話よな」
「あんな性格の悪いどうしようもない同胞を信じて、何かいいことでもあるのかね?」
心底不思議そうな男に、少年は年経たものだけが浮かべることのできる、何かを許すような笑みを浮かべた。
「小さきものは、小さきゆえに大きなものに頼らずにはいられない。そして、小さきものは小さきゆえに、荒れ野に一人立つことも辞さぬ……実に不思議で、実に……」
その後に続く言葉を、男は知っていた。
眠りにつく前、少年はそう呟いて、そうして『クレイドル』になったのだから。
「とりあえず話を聞いてもらえると助かるんだが」
「……我はここから動けぬ。できることと出来ないことがある」
「わかっているとも。それでも、わたしでは手を出せない領域の話だからここに来たんじゃないか。まあ、来てみたらとても楽しそうだったから、しっかり楽しんでいるんだがね」
「そしてついでに我が小さきものらを悪戯に死に追いやろうとしたか、貴様」
「……それについては謝罪しよう、悪かった。だから話を聞いてくれ。あれ以外は何もしてないんだ。主に言われたように特別棟を破壊だってしていないし、教員室で踊り食いだってしてない」
ぴしりと青い空間が凍りついた。
少年の閉じられたままだった瞳がかっと見開かれる。
うっかりやらかした失言に男はそっと目を逸らし、身を守るために自分の力を半分ほど解放した。
あふれ出す黒い力が、青い空間の中で渦を巻く。
「いや、命令はされたが、まだ何もしていない。わたしは無実だ、ほら、触りたいと思って触ったら罪になるが、触りたいと思うだけなら無実だろう。要の結界を破壊して教員のニ、三人踊り喰ってこいとはいわれたが、実行していないなら無実だ、違うかね?」
それを聞いた少年はにやりと笑ったが、目が笑っていなかった。
「では、我が判決をくだしてやるゆえ、そこに直れ」
「……何とか無罪を勝ち取って、話を聞いてもらうことにしよう」




