62、学園祭初日午後の部 黄昏 下
連れて来られた老教師の研究室の中、少年と少女は部屋の中を泳ぐものに見惚れていた。
座り心地のいい椅子を勧められ、腰を下ろしてもまだ目が『それ』を追いかけてしまう。
部屋の中には、温かな橙色に光る魚が泳いでいた。
色とりどりの硝子瓶と用途のわからない器具、ごろごろと幾つも無造作に転がっている、宝石の原石と思しき塊。重厚な作りの机の上には、なぜか平皿に金平糖がこんもり乗っている。
書棚には布が下げられていて、どんな本がそこに並んでいるのかを知ることはできない。
窓にもすでに布が引かれ、外の風景は見えなかった。そのせいで薄暗い部屋の中を照らしているのが、明るく発光している魚なのだ。
ゆらりゆらりと部屋の中を自由に泳ぐ魚に照らされた老錬金術師の研究室は、迷宮学園とはまるで違う世界に迷い込んでしまったような気持ちにさせた。
「さて、ここまで連れきてなんだが、実は、君たちに特に聞くことはないんだよ」
まるで猫じゃらしを前にした子猫のように、あっちにこっちにと泳ぐ魚を真剣に追っている生徒達に笑って、クヌートルは自身も二人の前の椅子に腰を下ろした。
教師の声に慌てて魚から目を離した二人は、戸惑って目の前のクヌートルを見つめた。
「どうしてあんなことになったのか、実はもう聞いているんだ」
旧校舎で大鬼ごっこの最中、二人は壁の中の空間に入り込んでしまった。そして出るためのものだと思って押したでっぱりのせいで、そこから下に落下した。落ちた先で、今度はどこかわからない白い小部屋に放り出され、そうしてその小部屋から長く続く白い通路を経て、白い世界の終わりを告げる扉までたどり着き、その扉を開いた。
そのことをマリエルたちに言えなかったのは、その扉の先に待っていた『彼』のせいだ。
言ってはいけない、と『彼』は言った。そして二人もそれを誓った。他言はしない、と。
だからこそ、パーティメンバーにどうしてあんなことになったのか説明しろと詰め寄られても、二人とも黙っていたのだ。だが、それは二人の事情である。うっかり墜落死しかけたのだから、教師から説明を求められるのは当然で、ここにくるまでの間も二人はそのことを考えて頭を悩ませていたのに。
それなのに『もう聞いている』とは一体どういうことなのか。
それはつまり。
「君たちには、年寄りの話を少し聞いてもらいたいだけなんだ」
グレゴリーを梳かす櫛を取り出したのと同じく、何もない空中から温かいお茶の入った茶器を人数分取り出したこの学園一番の古株教師は、まじまじとその不思議な光景を見ている生徒達に片目を瞑り、香りのいいお茶を勧めた。
「君たちは『彼』に会ったんだろう? 『彼』とは今この学園にいる中では、わたしが一番つきあいが長くてねぇ……」
懐かしむように呟き、お茶を一口含む。軽く片手を上げた少女に、クヌートルは頷いて発言を促した。
「先生は……知ってるんですか」
「『彼』のことかい? ……ああ、大丈夫だよ、わたしになら『彼』のことを話しても」
二人は確認するように視線を合わせていたが、剣士の少年が声を上げた。
「先生になら話しても大丈夫だというのは、なぜでしょうか」
「ふむ、信用できないかね? その用心深さは非常によろしい」
ちらりと警戒心を覗かせる二人に微笑み、クヌートルは先に手札を切ってやることにした。
「『彼』の名はクレイドル。髪は白くて、瞳は銀色」
二人の目が丸くなる。
「かわいらしい、小さな男の子だ」
彼らと同じように、若く未熟で冒険心ばかりが先走っていた頃、自分も同じように、突然『彼』の世界に迷い込んだのだと教えてやったら、この二人はどんな顔をするだろうと老教師は思う。
「先ほど君たちがあんなことになったのは、断じて『彼』のせいではない」
ふと笑顔を消したクヌートルは、真剣に言葉を選んだ。
「『彼』は悪戯をして面白がるところはあるけれど、誰かを怪我させたり、傷つけたりということは絶対しない。だから、あれは『彼』のせいではない。『彼』は君たちを驚かせようとはしたが、ちゃんと地面まで無事に降ろすつもりだった。その為の力も使っていた」
それならなぜ、と自分を見つめる生徒達に、老教師は困った笑みを浮かべる。
「そう、それが『ちょっと面倒な口外できない人』のせいなんだ」
オーリアスは、大鬼ごっこの最中迷い込んだあの白い世界の扉の先の光景を思い出していた。
この先が旧校舎だったらいいのに、と願いを込めて開いた扉の先。
そこは、青く揺れる深海のような場所だった。
ゆらゆらと揺らめき流れ、たゆたう青色に染められたその場所に果ては見えない。確かに歩いているのに、上下左右も曖昧な水の中のような、海の底にいるような。
懐かしいような寂しいような、頼りなく、それでいて心地いい青い空間。
扉を開いた瞬間から、オーリアスとフォルティスはその空間に魅せられた。中に進むことを躊躇う気持ちは微塵も沸かず、吸い寄せられるように中に入ると無心に足を進める。
歩けば歩くほど、ふわふわゆらゆらと、自分とその空間の境目がわからなくなり、体を包む水のような青に溶けていくような感じがした。その感覚は、ひどく心地よかった。温かい毛布の中で浅い眠りを貪っているようなやわらかい何かに包まれて、自と他の区別もなく、ただ気持ちがいい。
夢見るように歩き続け、そのうち、歩いているのか横たわっているのか、誰かに抱かれて揺られているのかわからなくなった頃。
ふいに目の前に、とても大きな白い繭のようなものが現れた。青い世界の中にただひとつ、違う色をしているそれはやわらかな曲線を描いて、青の中に据えられていた。
そうしてそこに。
「……男の子が、座っていました」
横にいるフォルティスが同意を示すように小さく頷いた。
その巨大とさえ言える白い繭が現れたことによって、甘い安らぎを突然破られた二人は、夢から覚めたようにはっとして辺りを見渡した。上下左右どこまでも青い空間に据えられた見上げるような大きさの繭。
そしてそこから、裸の肩をのぞかせて目を閉じている小さな男の子。
目を開けたらさぞかし可愛らしいだろうと思わせる、小作りの端整な顔は、穏やかな眠りの中にいるように見えた。さながら、巨大な繭はこの子のための揺りかごか。
「……どうしてこんなところに」
うっとりするようなまどろみから覚めてみれば、この空間もこの男の子も二人の理解の範疇を超えていて、二人はただ困惑して互いの顔と眠っている男の子を交互に見ていたのだが。
『やれ、迷子とは世話の焼ける』
小さな唇が開いたのはその時だ。
確かに、それは子どもの声だった。それなのに、二人はその声を耳にした瞬間、金縛りにあったように動けなくなった。動いてはいけないと思ったし、動くことは罪だとさえ思えたのだ。
ただ目だけを皿のようにして子どもを見つめていた二人は、子どもの目がゆっくりと開いた瞬間。
今すぐ跪いて全霊で愛を叫ぶか、傍にいることの許しを請いたいという気持ちが破裂したように溢れ、息をすることさえままならなくなった。
それは本能の絶叫とでも言うできもので、理性でどうにかなるようなものではなかった。ただその銀の眼差しに見つめられ、言葉をかけてもらえるなら何でもできるし、何でもしてみせると胸が一杯になって、張り裂けそうになる。
少年と少女はこれまでの短い人生で味わったことのない激情に喘いだ。
「おや、随分脅かされたもんだ……まぁ、『彼』にしたら、ちょっとしたお茶目だったと思うけれども」
「あ、あれがお茶目の一言で済むなら、世の中の大抵のことはお茶目で済むと思います!」
「人生観が変わりそうな衝撃だったんですよ!?」
「ただの人間と『彼』との間にはアヴィス海溝よりも深い亀裂があるからねぇ……」
息も出来ないほどの愛と涙が溢れ出してくるような切なさという激情に、立っていることすらできなくなっていた二人は、急に楽になった呼吸と正常に戻り始めた意識に混乱した。
『迷惑な客と迷子が一度に来るとは、なかなか面白き日よの。小さきものよ、我はクレイドル。我がことは他言ならず。送り届けてやるゆえ、ゆるりと帰り道を楽しむがよい』
じっと見つめられ、二人はふらふらと頷いた。激情は去っていたが、その瞳に抗おうという気は欠片も存在しなかったのだ。簡単に抱き上げられそうなほど小さな男の子から発される、威厳とも威圧とも違う、ひたすらに圧倒的な存在感に酔っている内に、二人は今日二度目の落下に見舞われる。
『いずれ機があれば、また会おうぞ小さきものよ』
愛らしい幼子の声を聞きながら、二人は青い空間から真下に落とされた。
我に返って悲鳴を上げながら、闇の中を一体どれほど落下しただろうか。そうして、もういい加減気を失いそうになった頃、突然視界が明るくなったと思ったら天井から落下するはめになっていたのだ。
「クレイドルの力はちゃんと君たちを守るはずだった。それこそ、ゆっくり空中を漂って地面に降ろすはずだった。だが、その力を打ち消したものがいる……それが、件の客人でねぇ」
やれやれと老錬金術師は笑い、最後のお茶を飲み干した。
「あれは自分のせいじゃないから説明しろとせっつかれたよ。おかげで件の客人には会えずじまいだ」
残念だよとがっかり顔の教師に、二人は困惑したまま問いを発した。
「それで……結局、あの子は、あの子と言っていいのかどうかもわかりませんが、あの子は、一体なんなんですか」
「もし、先生以外にあの子のことを話してしまったら、どうなるんですか」
「ふむ、クレイドルが一体どういう存在なのか……わたしも、全部はわからない。君たちより知っていることもあるが、それは全部推測にすぎない……真実を求めて、もうどれくらいさ迷っていることか」
悪戯な微笑を浮かべたクヌートルに、オーリアスも笑った。教えてくれる気はないらしい。自分で探せと言われているような気がする。
「わたし以外にクレイドルのことを話したらどうなるか? どうにもならないよ。君の記憶から『彼』が消えるだけだ。そうして、クレイドルという名の職員の記憶が出来上がる」
「……え」
「実のところ、クレイドルは普通にこの学園の職員として存在していてね。もちろん、子どもの姿ではないし、君たちが見たような『彼』としてではなく、普通の人間のような姿でだけれど。でもそうだな……大抵の人はクレイドルのことを、とても便利な職員の一人と思っている。でも、聞かれると顔を思い出せない。どんな顔だったかと首を傾げることになるだろうね……『彼』の姿を知っているもの以外は」
約束を破って他言すれば、記憶は書き換えられる。そういうことが当たり前にできる存在なのだと言外に言われた二人はぞっとして口を閉じた。
「だからって害があるわけじゃない。忘れたほうがいいこともあるしねぇ……時々いるんだ、君たちみたいにうっかり『彼』の元へ迷い込む生徒が」
だから、これはクレイドルから与えられた選択肢なのだと老錬金術師はやさしく告げた。
「忘れる方法もある、覚えておくこともできる。どっちを選ぶかは、君たち次第さ」
仲良くなるとじきじきに呼び出されることもあるよと笑い、クヌートルはぱん、と手を打った。
「さあ、これで話はおしまいだ。君たちの先生にはわたしから話をしておくから安心しなさい……もうすぐ日が暮れるね。さ、もうお帰り。学園祭はまた明日もある。明日こそ、ゆっくりお祭りを楽しみなさい」
「……はい」
ゆらりと泳ぐ光の魚が、床に伸びた三人の影を横切っていった。
異世界のような錬金術師の部屋から出た二人は、いつもどおりの校舎とさっきまで話していた出来事の差異に眩暈を覚えながら、力なく歩き出した。
「結局、不思議体験をしたってことでいいんだよな?」
「多分、いいんじゃないかな……ボクらにどうにかできる次元の話じゃなかったし」
「だよなぁ」
どんどん近づいてくる学園祭の喧騒も、今日はもうすぐ静かになるだろう。そしてまた明日、さわがしくてわくわくするお祭りがやってくる。
ゆっくり日常の中に戻っていきながら、二人はそれぞれ今日の不思議な体験と老錬金術師の話を思う。
「あ、そ、そういえば、あのっ……」
さぁもうすぐマリエルたちのところだ、と足取りを軽くしていた魔女の背中に、慌てたような声がぶつかった。
何事かと振り返ったオーリアスは、口をぱくぱくさせているフォルティスの様子に、ははんと頷く。
「ああ、アレな、大丈夫、わかってるって! バラしたりしないから、安心していいぞ」
「え……」
立ち止まっている剣士の顔をひょいと覗き込み、その肩にぐいと腕を回す。
「男なら誰でもなるんだから、あんまり気にするなよ」
にこっとして小声で囁かれたフォルティスは、頬に当たった吐息と左腕に当たっているやわらかい感触、位置的に視線を下げるだけで目に飛び込んでくるくっきりした谷間の陰影に、上擦った声で、頷いた。
「う、うん」
「おれとおまえの秘密な、秘密」
なんだか笑顔がやけに眩しくて、直視できない。でも見たい、という板ばさみになっているフォルティスのことなど露知らず、撲殺魔女は廊下の窓から見える夕暮れの空に目をやった。
今日は朝から色々なことがありすぎて、あまり学園祭を満喫できなかった。明日はのんびり学園祭を楽しみたいなと思う。
すくなくとも、朝イチでスカートを捲くるはめになったり、不思議な場所で不思議な人に会ったり、墜落死しそうになったり、マリエルに泣かれたりするのは、もうごめんだ。
どうか明日は、平穏な一日でありますように。
緊張と興奮と動悸でがちがちの剣士と肩を組んだまま、撲殺魔女は夕焼け色の廊下を歩いていった。