61、学園祭初日午後の部 黄昏 上
オーリアスとフォルティスは、とても困っていた。
あの後、落下の場に居合わせた教師に、まとめて救護室に担ぎ込まれたのはよかった。二人ともグレゴリーのおかげで怪我ひとつしなかったし、ずぶぬれでしょぼっとした狼族ともども、今年教員になったばかりで、あの場に立ち会うことになってしまった運の悪い新任教師に半泣きで乾かされたのもいい。
うっかりグレゴリーが全身ぶるぶるしてそこらじゅうに水滴が飛んだのも、笑い話だ。オルテンシアに体調を確認されて大丈夫だとお墨付きももらったし、事情説明は別の教師が来るからその人にしなさいと告げられ、衝撃的な光景を見たり体験したりした後だから、その人が来るまで少し休みなさいと別室に送られ、お茶まで出されて、椅子に座って一息いれたまでもよかった。
ついでに水気を飛ばされていつものもふもふに戻ったグレゴリーに癒されたのも。
問題は、ついさっき死にかけた二人がその原因を頑なに話そうとしないせいで、目一杯心配させられた三人が苛々し始めてしまったことにある。
「言えないって、どういうことですか?」
救護室の中にぽつりと響いたマリエルの台詞に、危うく墜落死するところだった二人は顔を見合わせた。グレゴリー以外の面子の顔が怖い。救護室がいつの間にか尋問室になっている。
アイトラとカリンの視線がざくざく突き刺さってくることから逃避して、つとめて何気ない口調で撲殺魔女は聞き返した。
「どういうことって?」
かっと緑の目を見開いたマリエルが、やさしく魔女の右手に自分の右手を重ねる。
「いきなり天井から二人揃って落下してくることになった原因が言えないってどういうことですかっていうことなんですけど意味がわかりませんでしたか、そうですか。じゃあもう少し詳しく言いますね。グレゴリーくんがいなかったらもう少しで魔女と剣士の挽肉になるところだったオーリとフォルティスくんが三階の天井から突然落下することになった原因はなんなのかと聞いているんですが、これでもまだわかりませんか」
「……わ、わかりま」
きりきりと手の甲をつねられたオーリアスは必死にその痛みに耐えた。
「……大鬼ごっこが終わっても全然出てこないし……不安になって迷子放送かけてもらおうってグレゴリーくんと言ってた矢先に、危うく目の前で大事な友達に死なれるところだったわたしの気持ちは、どこに持っていけばいいんですか……」
上擦った声でそう呟いたマリエルは、必死に泣き出すのをこらえているようだった。
「マリエル、ごめん……本当に、心配かけて悪かった」
これが逆の立場だったら、オーリアスだって怒り狂っているところだ。いきなり墜落死しかけ、かと思えば、その原因は言えませんの一点張り。事情を説明する気はないのかふざけるな、と間違いなく詰め寄っている。心配だって限界値を越えれば怒りに変換されるのだ。心配の元凶が無事ならなおさらだ。誰だって詳しい説明が欲しくなって当たり前で、それなのに、オーリアスとフォルティスは、黙って口を噤んでいる。
「彼女の言うとおりですわ……あなたが上から落ちてくるのを、わたくしたちがどんな気持ちで見ていたと……」
「あたしたち、そんなにおかしな事聞いてる? どうしてあんなことになったって、聞いちゃいけないことなの?」
アイトラに泣かれ、カリンに俯かれたフォルティスは、慌てて叫んだ。
「そんなことない! 二人には、本当に心配をかけてすまなかったと思ってる……」
そうだ。オーリアスもフォルティスも、本当に申し訳なかったと思っている。心配してくれてありがとう、とも。
そこで、二人はまたちらりと顔を見合わせた。
どうする?
どうって、できれば説明したいけど、でも。
だよな、でもどうしよう。
ちらちらと目で会話している撲殺魔女と剣士を見る三人の目が、段々鋭くなっていく。
散々心配をかけておいて、この目と目で通じ合ってる感はなんだ。絶対この二人は目で会話できるほど仲良くなかった。顔見知りに毛が生えたくらいの関係だったのに、それが今ではただならぬわかりあってる感を漂わせている。お互いにしかわからない会話を目で交わす関係に大鬼ごっこの時間でレベルアップするだなんて、一体どういうことなのか。
目の前で死なれかけた恐怖と焦燥、それに心配が、死にかけたわりに呑気な、しかも原因を頑なに口にしようとしない二人への怒りに変わっていく。
「オーリ」
「フォルティス」
「な、なんだよ」
「何かな」
「オーリったら随分フォルティスくんと仲良くなったんですねぇ」
ぎしり、と椅子が軋む音がした。
「本当。凄く仲がよさそう……ねぇ、大鬼ごっこの間、何してたの、フォルティス」
「まさかわたくしたちに言えない様なことをしていたわけでは、ありませんわよね?」
「な、何言ってるんだよ、そんなことあるわけ」
「そうだよ、そんないかがわしいことなんて」
向けられている獣のような眼差しに硬直していた二人が、はっと視線を交わす。
二人の脳裏には、不思議空間での密着からのフォルティスの下半身事情、それに伴う口外しないという約束が浮かんでいた。落下の原因とは関係がないが、これも確かに口にできない事情ではある。
気まずそうに、そっと視線を逸らした二人にアイトラとカリンの精神力はごりごりと音を立てて削られていた。気分は恋人をぽっと出の新人に取られたお局さまである。
「そ、その話 く、詳しく話していただかないことには」
「朝日が拝めないと思ってちょうだいね……?」
ぎりぎりと睨みつけられたオーリアスは、とんだ誤解だと慌てたが後の祭り。二人は完全にオーリアスとフォルティスの間に、何かいかがわしいことがあったに違いないと思い込んでしまっているようだ。
「違う、誤解だ!」
「な、何が誤解だって言うんですの!? 大鬼ごっこの間中、わたくし一度もお二人を見かけませんでしたわ!」
「そうよ! 他の人は見たのに! いくら校舎が広いっていったって、そんなのおかしいじゃない! ふ、二人で、な、何してたのよぉ!?」
今にも泣き出しそうになっている少女二人に責められて、撲殺魔女は今にも気を失いそうだった。
違う、本当に違う。ちょっとアレだったが、それはいかがわしいとかではなくてただの生理現象で、ある意味とても健全なアレで、でもそんなの女の子に言うわけに行かないし、言ったらフォルティスがもう浮上できなくなりそうだし、でも落下の原因を言えるかというとそうもいかない。
フォルティスは赤くなったり青くなったりして口ごもっているだけで、全く役に立たない。むしろ変に恥ずかしがっているので事態を悪化させている。
どうしよう、と発狂しそうになったオーリアスは、先ほどから黙ったままのマリエルに縋るような視線を向けた。マリエルも原因追求に燃えているようだったが、とにかく一旦、アイトラとカリンの誤解を解きたかった。マリエルなら、そんなおかしな誤解はしないはず。
希望的観測に従って惨殺僧侶に視線を向けたオーリアスは、マリエルがため息をついた後、苦笑を浮かべてくれたのでほっとした。
「……マリエル」
「……わかってます。言わないんじゃなくて、言えないんでしょう?」
黙ったまま皆の話を聞いていたグレゴリーが、ぴくりと耳を動かしてオーリアスとマリエルに合図を送る。いつも迷宮でやっている『何かが来た』の合図に、二人が扉を振り返ったところで、扉が叩かれた。
「入ってもかまわないかね?」
「はい、どうぞ」
ノックの後に入ってきたのは、老齢の教師クヌートルだった。
「大丈夫だったかい? さっきは大変だったんだって?」
「グレゴリーが助けてくれたので、大丈夫です」
やさしく目を細めた老教師は、ゆらゆらと尻尾を揺らしている狼族に微笑む。
「そりゃあ、凄い。たいしたもんだ」
「ワウ」
「友達ってのは、ありがたいもんだねぇ」
にこにこと微笑まれたオーリアスは、こっくりと頷いた。本当にそのとおりだ。
「それで、さっきのことなんだけどねぇ」
自分をじっと見ている一同に、クヌートルはそっと人差し指を口の前に立てた。
「それ以上二人に聞かないであげてくれるかい? 実は、ちょっと面倒な人と関わってしまったんだよ、二人とも。口外できない人なので、二人とも聞かれても答えられないんだ」
目を丸くしていた魔女と剣士は、思わぬ助け舟に盛大に頷いた。首がもげるのではないかというくらい頷いた。これでこの修羅場を終了させられる。
「二人には話を聞きたいから、今からわたしの研究室まで来てくれるかな?」
「は、はい」
「わかりました」
「そんなに長くはかからないから、二人が帰ってくるまで、ちょっとまっててあげてほしいんだ。そう、その間に今日の英雄の彼を労わってあげたらどうだろう? ここにちょうどよさそうな櫛が人数分あることだし」
空中から三本の櫛を当たり前のように取り出したクヌートルに、呆気に取られていた一同だが、はっとしたようにマリエルが櫛を受け取りに立ち上がったことで、我に返った。
「そうですよね、グレゴリーくんがいなかったら今頃……」
「本当にそうだわ……ごめんね、あたしフォルティスのことばっかりで」
「受けた恩を返さずして淑女とはいえませんわね」
突然櫛を持った少女に囲まれたグレゴリーはあわあわとクヌートルと、魔女と剣士を見たが、真面目な顔をした二人に、本当にそうだ、できれば自分も梳かしたかった、と言われて困った顔をした。
「オレ、普通ノコト、シタダケ……」
「おまえがやったことは、普通なんかじゃないよ。後で絶対お礼するから、待ってろよ?」
「ボクも。お礼せずにはいられないからね」
「お嬢さんたち、くれぐれも丁重にね」
「はい! 大丈夫です、わたし慣れてますから!」
えへんと胸をはったマリエルと、憑き物の落ちたような顔で櫛を握り締めているアイトラとカリンを残し、クヌートルは二人を連れて、救護予備室から出た。
「それじゃあ、行こうか、二人とも」