60、学園祭初日午後の部 下
講堂内には熱気と歓声が満ちていた。
「それじゃ逃げ切ったツワモノの表彰も終わったところで、行くぞジャンケン大会ー!」
「おー!」
わくわくと歓声を上げている参加者たちから少し離れたところで、グレゴリーは満足気に目を細めながら、大勢の参加者たちを顔を確認していた。
そのふさふさの胸元には、大鬼ごっこ勝者の証がきらめいている。
紐の通ったこの小石、見た目こそ、ただつやつやした白色の石だが、『いいもの』という看板に偽りはなかった。賞品のこの石は、なんと結界石なのだ。持ち主の意思で自在に発動できる結界術が封じられた水晶のことを結界石と呼ぶが、これも魔石と同じくピンきりがあり、市場価値は極めて高い。いざという時のお守りとしてこれ以上のものは中々ないが、いいものを買おうと思ったらいくらかかることか。まず学園祭のを景品ごときでお目にかかれるシロモノではない。
だが、大鬼ごっこを出し物として用意したクラスには、結界石入手の伝手があった。
それというのも、このクラスの担任はアルゴスなのだ。高名な結界術師を担任に持つ生徒ならではの伝手である。なんとか大鬼ごっこを出し物にしようと頑張った先輩たちはアルゴスに頼み込み、数日雑用を引き受けるかわりに結界石を作ってもらったのだと表彰式の最中、涙ながらに語っていた。しっかりこき使われたらしい。だが、その甲斐あって逃げ切った勝者は大喜びだったので、大鬼ごっこを企画した生徒たちも嬉しそうだった。
ちなみに、大鬼から逃げ切ったグレゴリー以外の猛者は五人。同じクラスのコタロー、元冒険者である麓の町のパン屋の店主と、現役冒険者の女性、あまりにもいたいけで捕まえるのを後回しにされていた幼女、それに見覚えのある眼鏡のダンディだ。小さな女の子だけは、きれいな首飾りを貰ったと喜んで両親に駆け寄っていたが、それはそれで微笑ましい光景であった。
そして、見事逃げ切った勝者に結界石とお菓子の詰め合わせが贈呈された後、現在講堂内は物凄い盛り上がりを見せていた。大鬼たちが優秀すぎて、逃げ切り勝者の為に用意されていた結界石が余ったのだ。そこで脱落した参加者たちへのがんばったで賞として急遽ジャンケン大会が開催されたのである。
制限時間ぎりぎりまで粘ったものの、最後の最後で逃げ切りそこねたマリエルは、遙か昔、ジャンセンとケヴィンという二人が考案したという、由緒正しい『ジャンケン』に張り切って参加したが、あえなく一度目のジャンケンで敗退してすごすごと戻ってきた。それでも参加賞としてちょっとした駄菓子の入った袋を貰い、なんだかんだ楽しんだので、よしとする。
壁際で待っていたグレゴリーの隣に並んだマリエルは、楽しく遊んだ高揚を残したまま、少し不安げに狼族を見上げた。
「オーリ、見つかりましたか?」
「ワウ……イナイ」
ずっと探していたのだが、見つけられなかった。どうしたことか、一緒に大鬼ごっこに参加したはずのオーリアスが、大鬼ごっこが終わっても出てこない。
勝手に帰ってしまうような性格ではないし、段々不安になってきた。ましてや、今日のオーリアスは色々露出している。外部からたくさんお客さんも来ているし、あんなに色々剥き出しの美少女を見て、よからぬことを考える輩がいないともいえない。
「……何かあったんでしょうか」
「デモ、オーリ強イ」
「そうなんですよね……杖も持ってましたし、大丈夫だとは思うんですけど……」
「ワウ……」
腕力であのオーリアスをねじ伏せられる相手は、そうそういないと思うものの、今まで撲殺魔女が勝手にどこかにいなくなってしまうようなことは無かっただけに、不安が募る。
遊んでいる最中は真剣に逃げ回っていたので、ただすれ違うことがなかっただけだと思っていたが、こんな時間になっても出てこないのは明らかにおかしい。
「迷子放送、してもらいますか?」
「ワウ。呼ンデモラウ」
頷きあい講堂から出た二人が放送担当の教員が控えている場所へと人波に揉まれながら歩いているところに、何かが聞えてきた。
音の発生源は、校舎の一階から三階まで吹き抜けになっている中央広場で、今日は食べ物関連の屋台が並んでいてことのほか人が多い。おかげで周囲のざわめきに混じってよく聞えなかったが、悲鳴のようなものが段々近づいてくる。
「な、なんですか!?」
「ワウ!」
ぴんと耳を立てたグレゴリーが、目を光らせて上を見上げる。
悲鳴はどんどん大きくなり、周囲の人々も何事かと辺りをきょろきょろし始めた。
「……オーリ?」
「オーリ!」
じっと上を見ているグレゴリーに倣って上を見上げたマリエルだが、聞き覚えのある声にびくりと肩を震わせた。まさか、まさかそんな。
マリエルの予感を裏付けるように、あー、とも、やー、ともつかない悲鳴とともに、突如天井から大きな物体が落ちてきた。
抱き合うようにして落下してくるのは、あれは。
ひらり翻るレース、真っ白なパニエ、露になった下半身。
「お、オーリ!?」
頭上から落下してくる存在に気づいた人々は、思わず逃げ出そうとしてはっとした。
今日は学園祭、しかもここは迷宮学園。もしやこれは事故などではなく、余興なのではないか?
そういえば去年の学園祭の時も、突然地下から打ち上げられた生徒がいたはずだ。毎年遊びにくるたびにぎょっとさせられるのは、さすが迷宮学園。スリルなら売るほどあると言われるだけあって、すごい。今年は下からではなく、上からなのか。それにしても三階からどうやって無事に着地するのだろう。驚き半分、好奇心半分の人々は、過去の学園祭のあれやこれを思い出し、恐慌にかられて一斉に逃げ出すようなことはなかった。不幸中の幸いである。
しかし、一部の生徒と教師にはわかっていた。いくら迷宮学園でも、あれはない。
一瞬の間に思考はめぐり、血相を変えた教師が印を組むのと、グレゴリーが爛々と目を光らせて矢のように落下地点に飛び込んだのは同時だった。
絶叫が響き渡り、広場中央の人工池からたかだかと水しぶきが上がる。
固唾を呑んで見守る人々の視界から、水のカーテンが消えた時。
そこには、落ちてきた少年と少女をしっかりと抱えた狼族がすっくと池の中に立っていた。
しん、と先ほどまでの騒々しさが嘘のように静まり返った広場に、小さな音が響く。
それは父親に抱かれた少女が興奮に顔を真っ赤にして手を打ち鳴らす音で、それはすぐに満場の拍手へと変わり、喝采が豪雨のように池の中の三人に降り注いだ。
さすが、凄いわ、これだから迷宮学園の学園祭はやめられないんだよな、などの興奮の声で埋め尽くされた広場で、六人が本気で腰を抜かしていた。
一人は、大事な友達が悲鳴を上げて三階から落下してくるのを見るはめになったマリエル、二人と三人目は、同じようにフォルティスを探しに広場へ来ていたカリンとアイトラ、四人目はなんとかして無事に着地させる為に魔力で編んだ網を発動させようと印を組んだものの、発動が間に合わず、目の前で生徒があわや死ぬ寸前の光景を見るはめになって真っ青になった運の悪い教師、残りの二人はいわずと知れた落下してきた本人、オーリアスとフォルティスだ。
びしょびしょのグレゴリーに抱えられた二人は、歯の根も合わないほどぶるぶる震えて目を見開いていた。
「オーリ! オーリッ」
がくがくしながら何とかグレゴリーのところまでたどり着いたマリエルは、狂気のようになって腰ほどの深さの池に飛び込み、これまたびしょぬれのオーリアスに飛びついた。
「し、信じられないっ、何、何してるんですか?! 何であんなところからっ、何考えてるんですか、し、信じられないっ……あ、あんな、あんなっ、お、オーリの、オーリのバカあぁ……!」
ぽろぽろと涙をこぼすマリエルを見て、オーリアスの目の焦点が合う。
「……ま、マリエル……」
「無事で、無事でよかったぁ……!」
「フォルティスッ」
悲鳴を上げて同じように飛び込んできたのはカリンとアイトラで、こちらも真っ青で震えているフォルティスにしがみつく。
「……い、生きてて、よかった……!」
カリンが普段のきつい眼差しを涙で一杯にして呟けば、アイトラはあまりの衝撃に、自分も震えながらぎゅうぎゅうとしがみつくことしかできない有様だった。
「ふ、二人とも、ぬ、濡れるよ」
「バカっ! そんなのどうだっていいわよっ!」
アイトラが、震える指でフォルティスの頬をつねり上げる。
「い、いだだ」
それでやっとフォルティスも普段の調子を取り戻したようにぎこちなく笑った。
「心配かけて、ごめん……オーリアス、君も大丈夫だったかい?」
「……ああ、なんとか……おまえは?」
「ボクも大丈夫」
「グレゴリー」
「ワウ?」
すらりとした魔女の腕が、ぎゅうっとグレゴリーの首を抱く。
「……おまえがいなかったら、おれたち死んでたかもしれない」
未だに歓声が止まない広場の中は、まるで劇場のカーテンコールの後のようだった。傍から見ていれば、驚きに満ちた寸劇のように見えたかもしれない。まして役者は大きな狼族と見目のいい少年少女ばかりだ。
だが本人達は知っている。オーリアスとフォルティスは、本気でどこかわからない場所から『落下』したのだ。
大丈夫だと『彼』は言った。でも、全然大丈夫じゃなかった。恐怖がなかなか去っていかない。
冷えた指先でグレゴリーにすがるオーリアスの脳裏を、ついさっきまで話していた相手の顔がぐるぐる回る。
「ありがとう」
「ぼくからも言わせてほしい。本当にありがとう」
「わたしからも言わせて」
「フォルティスを助けてくださって、本当にありがとうございます」
「グレゴリーくん、ありがとう」
狼族の少年は自慢の毛皮を水で濡らして、なんだかちょっとひょろりとして見えたが、この場にいる皆には、誰よりも格好よく見えた。照れたように鼻を鳴らしたグレゴリーの尻尾がべしょべしょと水を撒き散らしながら揺れる。
「とりあえず、池から出て救護室に行きましょう。オーリ」
ことのほかやさしい声で名前を呼ばれたオーリアスはグレゴリーの首筋に伏せていた顔を上げて、マリエルを見下ろし、そして硬直した。
「……なんでこんなことになったのか、きっちり説明してもらいますからね……」
大鬼に追いかけられた時よりも、死ぬかもしれない落下の恐怖よりも、あの時のマリエルの目は怖かったと後に撲殺魔女は語る。
そんな少女達の様子を、周囲と同じように拍手しながらにこやかに見つめている眼鏡をかけた男の目には、心からの感嘆に染まっている周囲の人々とは違う、面白がるような色が光っていた。