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学園迷宮で会いましょう  作者: 夜行
第3章
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番外、とある生命体の話





 『ソレ』が生まれたのは、何もかもが偶然による。

 あの時、器具が欠けていて『彼』が指を傷つけなかったら。

 傷つけても血が出るほどではなかったら。

 あるいは加えられた魔力。あるいは素材。あるいは誰にも気づかれず混入していた一本の毛。

 何一つ欠けてもできなかった奇跡が、その時、世界には舞い降りていた。しかし、その奇跡に気づいているものはまだ誰もいない。

 今のところ『ソレ』の飼い主という立場にある人間ただ一人が、その事実に気づきかけているだけだ。


 飼い主はさらさらと手元の帳面に何事か書きつけると瓶の中の『ソレ』を見下ろした。

 『ソレ』は死んだようにでろんと瓶の中で伸びていたが、自分に向けられた刺さるどころか抉ってくるような視線に耐えかねたらしい。ぴくりと震えると、何かを主張するようにうにうにと動き出した。


 以前、飼い主は『ソレ』をしばらく放置していたことがある。

 具体的にはこの珍妙な物体が恐るべき因果によって生み出され、己の講義を台無しにされ、おまけに『ソレ』を押し付けられた日から七日ほどのことだ。といって別段悪意があったわけではない。研究心なら人一倍あったし、観察もかかさなかった。しかし、飼い主は『ソレ』について思い違いをしていたのだ。


 『ソレ』は確かに動いている。だが、この世を謳歌する生物と同じく、食事を必要とするとは全く思っていなかった。『ソレ』が生まれたのは恐らく彼の生徒の血の成せる技であろうと思い、事実それは正しいのだが、とにかくこの珍妙なモノは姿形からして一種の魔物、もしくは使い魔のなりそこないのようなものであろうと判断していたのだ。生まれたての粘魔の如くぬるりつるりぷにぷにした形状、そして元の素材である薬草の色をした『ソレ』。

 ゆえに食事、餌、補給など必要ないものと当たり前に思い、七日ほど観察だけして放置していた。


 始めは何事もなかった。『ソレ』は相変わらずぬるぬるつるつるぷにぷにしており、放り込んだ大きな瓶の中で元気に動き回っていた。だが、一日、二日と日が過ぎるごとに『ソレ』の動きは鈍くなっていった。環境がよくないのかもしれないと思い、新しい瓶に変えてやっても、様子は変わらなかった。

 偶然で生まれた産物ゆえ、長くは持たないのかもしれぬ、と残念に思い始め、気づけば観察し始めて七日目。

 時折ぴくぴくと痙攣するような動きをする以外動かなくなっていた『ソレ』に、七日見守ってきて多少は情が移りでもしたものか、飼い主はほろ苦い気持ちで『ソレ』の末期を見届けようとじっと目を凝らしていた。

 そして、神の、いや魔人の気まぐれか。飼い主の脳裏にふと天啓がひらめいたのだ。


 もしや……コレは飢え死にしかけているのではなかろうか。


 おお、それはまさしく天啓であった。

 動物など飼ったこともない、昆虫さえ飼ったことがない、狩猟的な意味ですら狩ったといえば全身毒針まみれの巨大芋虫が関の山の引きこもり呪術師に、なにゆえその時『コレは餌を必要とするのかもしれない』という考えが浮かんだのかは、全く持ってわからない。

 確かな事は運命神は『ソレ』を見捨てはしなかった、ということだけだ。

 餌を与えてみる、という可能性に思い至った飼い主は、しかし困惑した。

 一体何を与えればいい。

 こんな珍妙なシロモノの飼育法など知るわけもなく、この手の使い魔を使役する専門家に答えを求めようとも職場にその稀少なジョブについている人物はいなかった。そして、冷静沈着に表向きは見えていたが、飼い主はその時慌てていた。


 まさかの餌必要疑惑。思い至ればあまりにも簡単な答えである。しかし、もしそれが正解なら、飼い主はこのスライムもどきを餓死させようと目論見ながら観察する、とんだ残酷性癖の持ち主になるところであったのだ。確かに、強者を踏みにじり嘲笑うことに愉悦を覚える性質ではあるが、それは強者を踏みにじるからいいのであって、弱者には至って優しくすべきと思っている。このような踏み潰せばそれで終わってしまうであろう、かよわいナニかを虐待の上死なせたとあっては男が廃る。今すぐ早急に問題解決を図らねばならぬ。しかし、一体何を与えればいいのかさっぱりわからない。


 そこで必死に思案した飼い主に妙案が浮かんだ。これは恐らく、ポーションの素材と彼の生徒の血で構成されたナニかである。であるなら、自分の血を与えてみてはどうだろうか。血液には水分もあるし、それに魔力も含まれている。

 よしやってみよう、と焦った彼は思い切りよく自分の親指を噛み切ると、急いで瓶の蓋を開け、中の『ソレ』に垂らしてみた。普通なら針か小さな刃物で傷をつければすむところを、がぶりとやったあたりに焦りが透けて見える。


 そして今まさに生まれて七日目にしてこの世から去ろうとしていた『ソレ』は、天から滴る慈雨の如く、降って来たその血を吸収した。


 じゅわっ。


 一瞬であった。

 珍しくも呆気に取られる飼い主の前で、なんとか動けるようになった『ソレ』は必死に哀願した。


 まだ足りん。もっとくれ。


 言葉にすればそのようなものであろうか、飼い主はその時正しくその動作の意味を汲み取った。

 そしてそれから彼らの交感は始まったのである。


「やはり、素材の純度が高いほうが……」


 今日も今日とて、飼い主は『ソレ』に餌を与えようと考え込んでいた。あれ以来、色々な素材を餌として与えてきたことで、多少は傾向が見えてきた。この珍妙な生物は魔力を含んだ餌を好む。それも純度が高ければ高いほどいいようだ。そして、驚くことに『ソレ』には知能らしきものがあるようなのだ。


 しばし無言で『ソレ』を見下ろしていた飼い主は、研究室に設えられた壁一面の箪笥を振り返った。そして迷う様子もなく上から7番目、右から23番目の引き出しと、下から11番目、左から9番目の引き出しを開け、中から小さな紙包みを取り出した。

 中身は1シムよりまだ小さく、ほんの5リムほどに刻まれた貴重な香木の欠片が幾つか。もうひとつは、ある地域でしか採掘できない魔力を帯びた金属、アルマ鉄の破片である。どちらも、特に香木は叩きつけたくなるほど高価な一品だ。焚けばこの世のものとも思えぬ香気が漂い、それを嗅いだ生き物はもれなく発情するといわれている珍品中の珍品。鉄の方は量が量なのでさほどのことはないが、冒険者なら一度は憧れる『アルマ鉄シリーズ』の原料である。つまりどちらも稀少。まかり間違っても『原料:ポーション素材各種、真獣に連なる獣人族の血』で出来上がった不思議生物の餌にするようなものではない。


 だが、飼い主はこうと決めたら躊躇わない男だった。瓶の蓋を開け、そっと机の上に横向きにおく。

 中からうにうにと出てきた『ソレ』は、行儀よく飼い主を見上げて今日のご飯を求めて揺れた。

 いまや『ソレ』愛好家となりつつある飼い主は、腹減った、はよくれ、でもちゃんとまつよ、というニュアンスを感じ取ることが出来ていた。

 なるほど、愛玩動物になど全く興味がなかったが、これはなかなかよいものである。ふっとニヒルな笑みを浮かべた飼い主は、大人しく餌を待つ『ソレ』の姿に満足感とえもいわれぬ恍惚、もしくは無償の愛とでもいうべきものを覚えながら『ソレ』の右前方に香木の破片を。左前方に鉄の破片を置いた。


 さて、どちらを選ぶのか。


 びっしりと帳面に記入された様々な素材の取捨選択の結果に、今日も新たな1ページが加わる。

 それを楽しみに見下ろす飼い主の視線を受けた『ソレ』は、機敏に求められていることを理解すると、それじゃ選ぶからよく見てろ、と言わんばかりに飼い主にむかって二、三度揺れると『本日のご飯どっちがお好きでしょう』に参加すべく、うねうねと机の上を這って進んだ。

 そして期待に満ちた目をして見守っている飼い主に向けて、そっと慎ましく右の餌に擦り寄ってみせた。


「ほう……香木の勝利、と」


 帳面にさらさらと記入した飼い主は満足気に頷くと、お行儀よく待っている『ソレ』に満足しながら、重々しく「よし」と発声した。途端、ぐにゃりと広がった『ソレ』が香木の破片を包み込み、こちらも満足気にぶるりと揺れた。香木の味はお気に召したらしい。


 こうして、飼い主と『ソレ』は実験データをきっちり取りつつ、なかなか楽しい日々を過ごしているのである。


 偶然によって生まれた『ソレ』が今後どうなるのかは、神も魔人も飼い主も『ソレ』自身も知らない。


 だが、それなりに楽しい結末が待ち受けているであろう、と『ソレ』はふるりと揺れて、また瓶の中に戻っていくのだった。




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