50、幽霊騒動 天
「……やった……!」
はぁはぁ息をつきながら、マリエルは目を輝かせて勝利を喜んだ。けっこうボロボロにされたが、宿敵バンシーを倒したのだ。
「や、やればできるもんですね!」
いそいそとカティスの側へと回ろうとしたマリエルは、その光景に泣きたくなって目を疑った。
血赤の鏡面からずるずるとナニかが出ててきている。それも複数。
「……嘘でしょう」
ずるん、と出てきたのは、もはや見慣れた感のあるバンシーと白く長い二本の腕、それに古びた兜を被った生首だった。
もうやだ。
叫びを押し殺し、攻撃してくる魔物をを避けながらなんとか鏡の裏に回りこんだマリエルは硬直した。
さっまで手首だったのに、今はもう肩まで鏡に呑まれているカティスが、どこか諦めたような顔で小柄な僧侶を見下ろす。
「なんか、抵抗してもムダっぽいし……早く逃げた方がいいんじゃない?」
そういう合間にも、バンシーがマリエルに攻撃を仕掛けてきている。鬼火が肩を霞め、生首が食らいつこうと宙を飛び回る。必死にそれを避けながら、マリエルの心は折れかけていた。剣を持つ手が、疲労で重い。
バンシー一体倒すのにぼろぼろになっている自分がここにいて、一体なんの役に立つというのか。急いで上まで戻って、先生やオーリアスと合流して助けを呼んだ方がいいのではないか。
それはそれで、間違っていない。たかが学園一年生に、できることなんてたかがしれているのだ。
だが、それで自分は後悔しないだろうか。
たぶん、自分がやろうとしていることは間違いで、後からきっと怒られる。オーリアスは心配して怒るだろうし、グレゴリーは泣くかもしれない。そして、やっぱり怒るかもしれない。勇気と無謀は別物らしいし、それは十分わかっているつもりなのだが。
「だからって、今放置していったら、絶対後悔するじゃないですか……!」
飛びかかってきた生首に斬撃を飛ばして牽制して、歯を食いしばる。
だらりと抵抗する様子もなく垂れ下がっていたカティスの手に飛びつくと、問答無用で握りしめ、全力で引いた。ひやりと冷たい手を取った瞬間、何かおぞましいものが流れ込んできたような感覚を覚えて、全身が総毛立つ。カティスに触れているだけでこれほど気持ちが悪いというのに、その体の一部を鏡の中に突っ込んでいる状態のカティスはどれだけのおぞましさを感じていることか。
「くっ……!」
「何してんだよ、おれに構うな」
力任せにぐいぐい引っ張っても、微塵もこちら側に出てくる気配がない。すぐに引っ張り出せたなら、そのまま二人で逃げ出そうと思っていたのだが、さすがにそうそう都合よくはいかないらしい。
無防備な背中を攻撃されることを覚悟していたのだが、不思議なことにカティスの手を取って以来、死霊たちは攻撃してこなくなった。というより、目の前のマリエルを認識していないように思える。辺りをうろついていた死霊たちは、ふいと顔を山の上へ向けると、鏡に呑みこまれかけているカティス、その手を必死に引っ張るマリエルを残して移動していった。
「……まさか……」
鏡に呑みこまれかけているカティス、そのカティスと手を繋いだ状態のマリエル。
もしかしたら、そのせいで鏡の一部であると認識されているのだろうか。だとしたら今が好機だ。
今をおいてカティスを引っ張り出せる機会はない。恐らく、助けを呼びに戻れば、その間に全部呑み込まれてしまう。そうなってしまってからでも、助けられるのかもしれない。だが、こんな禍々しいものがそう簡単にそれを許すだろうか。とてもそうは思えない。やはり、今のうちに引っ張りださなければ。
流れ込んでくる嫌なモノを我慢して、ぐいぐい引っ張る。気持ち悪い。正直、吐きそうだ。血の気が引いていくのが自分でわかる。
カティスは、何かを耐えるような顔をしてこちらを睨んでいた。かなり辛そうで、手も握り返す素振りがない。握り返す力がないのかもしれない。
「放せよ! 無駄だってわかっただろ!」
何度叫んでも、僧侶の少女は手を離そうとしなかった。左手にしがみつく少女の手は、氷のように冷たくなっている。触れた瞬間は熱を持って熱いほどだったのに。顔色は、いまや土気色に近い。
このまま、この子は死ぬんじゃないだろうか。
麻痺したように恐怖も怯えも感じない穏やかな心持ちだったカティスの意識に、小さな泡のようにその考えが浮かんだ。
ふっと浮かんできたその泡は、じりじりと水面を目指して浮かび上がり、小さくぱちんと弾けた。
死ぬ。
自分のせいで。
じわじわとその考えが浸透していくにつれ、カティスの意識を穏やかで平坦なものから、恐怖と拒絶へと塗り替えていく。自分が死ぬ、鏡に呑み込まれるということには動かなかった心が、ざわめいて動き出す。
「放せっ! おれがどうなったっておまえに関係ないだろ! 放せ、放せよ!」
引っ張られ続けている肩の付け根が痛い。骨が折れるんじゃないかというくらい握り締められている手のひらも。引っ張っている方だって痛いはずだ。顔色だってとても見られたものじゃないし、呼吸だって今にも途切れそうだ。
「……いまさら、もどる、気力がありません……!」
どう考えても、目の前の白ローブが死にそうになっているのは、カティスの手を握っているせいだ。
だから、手を放せばいい。カティスなんか勝手に鏡に呑み込ませておけばいい。そうしてその間に逃げればいいのだ。
それなのに、どうしてこの子はこんなに必死になってカティスを助け出そうとしているのか、全く意味がわからなかった。
「放せって、なぁ……!」
鏡から魔物が出て、生徒を襲ったことは聞いた。先生たちがそれを退治しているのも。
でも、結局カティスにとってそれは他人事だったのだ。
コルキスを殴るのも蹴るのも、それと同じだった。所詮他人事で、だけど、カティスだってコルキスと同じなのだ。もし、オルデンがカティスを殴りたいというのなら黙って殴らせただろうし、蹴らせただろう。コルキスの親よりもカティスの親の身分が上だからって、オルデンに疎まれたらそれで終わり。殴られるのがコルキスからカティスに変わる、それだけのことだ。
爪には爪を、牙には牙を返すことができるのは、選ばれた人間だけだ。
殴られたら殴り返せばいい。蹴られたら蹴り返せばいい。だが、コルキスはそうしない。カティスも。
サキアだってそうだろう。三人が育ってきたのはそういう『場所』で、もし逆らったらどうなるか、よくわかっている。笑えることに、絶対者のように振舞うオルデンだって同類なのだから、もうどうしようもない。イロモノパーティなんて呼ばれても平然と前に進んでいく連中には、どうやったってわからないだろう。
だから、突然『父親』がやってきて、突然迷宮学園に入学しろと命じられた時も、オルデンの機嫌をとってこいと言われたことにも頷いた。拒否なんてできるはずもない。
そのくせ、何もかもがどうでもよかった。オルデンだってコルキスだってサキアだってどうでもいい。
自分が怪我することも、死ぬかもしれないことも。
オーガにだって恐怖は感じた、でもそれは、生物の感じる生理的な恐怖だ。あの時、もしも逃げ場無く追い詰められていたら、カティスは誰より早く諦めていたはずだ。
どうでもよかった。どうせ誰も自分のことなんて心配なんてしていない。うっかり死んだところで、あの父親とも思えない父親が、目的を果たせなかったことを悔しがるだけだろう。
死にたくないのではなくて、生きていたいと思える理由がなかった。
だから、どんなことが起こったって他人事だった。探し物の鏡だってポケットに入れるし、それがどんな事態を引き起こすかもどうでもいい。それで誰か死んだと言われても、だからどうしたと思ったはずだ。
それなのに。
「なぁ、放していいよ、もういいって、君がんばったよ、もういいだろ?! なぁ、放せよ!」
目の前で誰かが自分の為に死ぬかもしれない可能性を見せつけられたら、信じられないほど心がざわついた。死んでもいいやと思っている自分を助ける為に、誰かがこんなに必死になるだなんて、考えたこともなかった。
「なぁ……!」
だめだ。どんなに言ったところで、この子は手を離さないだろう。
だったら。
初めてぎゅっと少女の手を握り、渾身の力をこめて、カティスは左腕を振った。氷のように冷たい指が、ずるりと滑る。
意識を失いかけていた小柄な僧侶は、勢いのまま鏡の横辺りに飛ばされ、それでようやく、カティスは突き出されたままの左手が震えていることに気づいた。息が荒い。まるで全力で走った後みたいに苦しかった。
けれど、苦しいのは少女を振りほどくためにもがいたせいなのか、それとも別の何かのせいなのかはわからなかった。