48、幽霊騒動 暗
目の前の女の子が、息を呑んだ音が聞えた。
自分だってびっくりだ。
鏡を掴んでいた右手が無い。
正確に言うと、鏡の中に手首までが突っ込まれた状態とでも言えばいいのだろうか。
「なんだ、これ……」
あまりにも非現実的で実感が湧かない。鏡から突き抜けることもなく、銀色の鏡面に飲み込まれた手首。
「カ、カティスくん……」
怯えた声で名前を呼ばれた。そりゃそうだ。こんなの明らかにおかしい。
それなのに驚きも恐怖も湧いてこないのが不思議だった。頭が働かない。これは、どうすればいいんだ。
空はすっかり暗くなり、かすかに西の空だけが名残の赤を残している。
無意識に左手で鏡の縁を掴んで引っ張ってみるが、全く動かなかった。途方にくれていると、引き攣った顔で近づいてきた僧侶の女の子が震える声で、ひっぱります、と囁いた。
「そりゃ、どーも」
無造作に右腕を僧侶に向けるとこちらを向いている鏡面がきらりと光る。向こう側が透き通っていたりはしない。一体どうなっているのだろう。ぴったりと鏡に嵌まっている状態の右手首だが、痛みはなかった。ただ、手首から先がひんやりとしたものに包まれている感触がしている。動かそうと思えば、指は動かすこともできる。中がどうなっているのかはさっぱり見えない。
そろそろと伸びてきた細い指が、鳥を象った縁に触れるか触れないかという時だった。
手首を飲み込んでいた鏡が、突然体よりも大きくなったのは。
「え」
「ひっ……!?」
カティスの手首を飲み込んでいる鏡をひっぱる為に近づいていたマリエルは、全身を絶え間なく襲う悪寒と嫌悪感に手が震えるのを抑えられなかった。何かが鏡から放射され、それがどうしようもなく嫌な気配になって体に纏わりついてくるようだ。
突然巨大化した鏡はカティスの姿を完全に覆い隠している。なにこれ、と声がしたので、全身飲み込まれてしまったわけではないようだが、異常な事態であることは間違いない。
マリエルの方、つまり山の上の方を向いて差し出されていた鏡の裏面が、鈍く光って目を射った。さきほどまでは、裏に鏡面なんてなかった。裏は飾り模様で覆われていたはずなのに、『こちら側』にも、鏡面が出来ている。鏡と鏡を背中で張り合わせたような、それ。
マリエルよりも大きな、まるで血のように赤い色をした鏡面。これを鏡面といっていいのかどうかはわからない。その不透明な赤い面には、マリエルの姿は映っていないからだ。
その赤黒い面から漂う禍々しさに、ごくりと喉を鳴らして身じろぐ。無意識に腰の剣に手をかけたまま、じりじりと距離を取った。全身にたった鳥肌が消えない。
「……カティスくん……!」
「なんだよこれ、どうなって……!?」
もがく様な音と同時にカティスの声が上がる。怖気を堪えて坂道の下、カティスの側へ回り込もうとしたマリエルは動きを止めて、信じられないものを見るように血赤の鏡を見つめた。
ぬるりとしたその面から、何かが出てきている。
やけに青白い、細い棒のようなそれ。
鏡面から突き出たものがずるずると鏡の中から外へと出てきたことで、それが何かわかった。
骨だ。指先、手の甲、手首、腕。そして体。
斬りかかることも忘れて、ただ見ていることしかできないマリエルの前に、ずるりと全容を現したソレがゆらりと近づく。
差し出された両腕に肉はなく、上半身にはかろうじて女を主張する膨らみがあるが、それは半ば腐れ落ちている。地面に引きずりそうなもつれた黒髪、眼球があるべき場所には空ろな穴があり、大きく裂けた口から、ぞっとするような死臭が吹き付けられた。
剣を握り締めたマリエルの歯が、かちかち鳴った。あの夜は逃げ回るだけだったから、こんな近くでちゃんと見たわけではなかった。見たくなんて、なかった。
まるで笑うように弧を描いた大きな口から、絶叫が迸る。
泣き女だ。
「うわっ……!?」
小さな悲鳴と地面を掻くような音がして、生理的な嫌悪と恐怖に硬直していたマリエルは我にかえった。ぎりぎりと剣の柄を握り締める。
首を狙って伸びてきた骨の腕を気合と同時に斬り払う。乾いた音を立てて砕け散った骨に全身がざわついたが、今は恐怖に負けている場合ではない。腕を砕かれ、ひいひいと泣き叫ぶバンシーが周囲に鬼火を浮かばせた。砕けた両腕を振り回すたび、青白い鬼火が音を立てて飛んでくる。
こちらを焼こうと飛んでくる鬼火を剣で斬るが、刃は手ごたえのないまますり抜けた。物理が効かないのなら、分は悪いが離れて風の刃で対処するしかない。カティスの元へ行く為には、これを倒さなければならないようだ。
これは魔物。しかも初見ではない。初めてだったら無理だったかもしれないが、あの夜、ガランドがこれを倒すところを見た今なら、恐怖心は何とか押さえ込める。ならばやることは決まっていた。倒す。もしくはオーリアスが来てくれるまで、耐える。
そしてその為のとっておきの呪文を、叫んだ。
「……シミーよりは、マシ……!」
集まっていた教師達は、グレゴリーから話を聞いて確信した。
鏡は校外に持ち出された。そして、その所有者は間違いなく鏡と相性がいい。だとすれば、取り込まれるのも、もう時間の問題だ。
結界の中から外に出たことで、鏡の呪力は跳ね上がる。ラウム国内よりはマシだろうが、今より事態が悪化するのは間違いない。
「耐性が特に高い者だけで外に出よう。でなければ危ないかもしれん」
「ここまでなら大丈夫っていう明確な数値が欲しいですね」
「先生!」
噛みつくようにオーリアスが声を上げる。
「マリエルが外にいるんです! すぐに行かないと!」
「わかっている。とりあえず、アルゴス、フレイア、グレイ、一緒に来い。師匠、他の教員たちにも連絡を」
「もうやっとるよ」
クヌートルが小さな箱を懐をから取り出して、魔力を込める。箱の表面一杯に魔力で描かれた陣が浮かび上がるとおもむろに蓋を取り、箱に向かって話し出した。
「緊急、緊急。こちらクヌートル、教員室に告ぐ、緊急事態発生につき、今すぐ一階……」
「オーリアス、おまえも」
その時、外からつんざくような悲鳴が聞えてきた。一人ではない。複数の人間が発する叫び声。
転がるように駆け出したオーリアスに眉を寄せ、自分も行きたそうにそわそわしているグレゴリーに首を振る。
「おまえは駄目だ。ここで待っていろ。ガランドが来たら、詳しく説明するのがおまえの役目だ」
「……ワウ」
自分が行っても足手まといになるだけだということがわかっているのだろう。グレゴリーは小さく頷いた。
「マリエル、助ケテ」
「当たり前だ」
慌しく外に出た教師達は、周囲の様子に目を瞠った。
玄関付近に固まっている大勢の怯えて震えている生徒たちと、ばりばりと激しい音と光を発する結界。
「……なんだ、これは……」
ぽつりと呟いたのは誰だったのか。
生徒達が悲鳴を上げるのも当たり前だ。校門の前に、魔物が群がっている。それも悪質な死霊系の魔物がうじゃうじゃと蠢き、結界に向けて体当たりを続けているのだ。その度に結界が瞬き、光と音が弾ける。
間違いない。マリエルが追いかけたという生徒が鏡を持っている。校門から外に出たことで、結界の効力は及ばなくなり、そして、日が落ちた。魔物が生み出される速度はこれまでの比ではないはずだ。
怯えてさざめく生徒の山を掻き分け、飛び込もうとしたオーリアスの襟首をフレイアが慌てて掴んだ。
「今出ていっても、ムダよ」
「じゃあ、放っておけっていうのか!」
止められた怒りと焦燥に目をぎらぎらさせている魔女に、クロロスがため息をついた。
「今出て行ってどうする気だ……少し待て」
「クロロスの言うことを聞くんだ。いいか、生徒を一人で出て行かせるわけにはいかない。それに」
「今、道を開けるから、ちょっとお待ちなさい」
オーリアスから手を離し、ぐい、とグレイを押しのけ、妖艶に微笑んだフレイアと、強張った顔をしたアルゴスが前に進み出た。