45、幽霊騒動 流
さわやかな朝の空気、眩しい太陽の光。
これほど夜が明けるのが待ちどおしかったことはない、とオーリアスは寝不足に赤い目をこすりながら、迷宮前受付広間に向かっていた。
ああ、朝って、太陽って素晴らしい。
途中、小柄な体をさらに小さくして、のろのろ歩いているマリエルを発見して横に並ぶ。こちらも負けず劣らずの赤い目をしていた。
昨日はてんやわんやの内に集合がかかり、魔物が出現するようになったので生徒による夜間の見回りは中止、他の生徒と同じように夜間の外出は禁止だと告げられたのだ。
恐怖体験に震える生徒たちは、とにかくもう帰ってもいいし見回りもしなくていいのだということに喜んで全力で寮に戻ったので、詳しい話もできていなかった。
どうも対応について上の方で揉めているらしく、今すぐギルドに要請して捜索に入りたい学園側と、それをなんとか阻止したい側とでごたごたしているようだった。
結局魔道具は見つからないままだし、ぴりぴりしていた教師陣は、昨日、あれからどうしたのだろうか。
「マリエルは、昨日どうだったんだ?」
「追いかけられましたね」
無表情に言い切ったマリエルに、うっと息を詰めたオーリアスは、恐々と小さな肩を見下ろした。
「幽霊じゃなくて、魔物だって言われましたけど、だからなんだっていうんです? わたしとセリーナが追いかけられた事実は消えないんですよ……ええ、追いかけ回されましたよ……集合がかかるまで、ずっと、ね……」
闇の中から突如出現した悲鳴のような声で泣き叫ぶ髪の長い女が、絶叫しながら追いかけてくるあの恐怖と言ったら!
泣き女にひたすら追われ、相方ともども絶叫しながらどれくらい逃げ回っただろう。その上、途中で転んだ相方を置いていくわけにもいかず立ち止まったマリエルの首に、ぞっとするほど冷たい指が絡みつき、後ろからぐっと締め上げた。
「首、絞められたのか……!?」
大丈夫なのかと慌てて細い首周りを確かめるオーリアスに、頷く。
「先生が来てくれたので」
魔物が出現して危険だから見回りを中止するということを伝えにガランドが現れなかったら、二人揃ってどうなっていたことか。
目の下に隈を作ったマリエルが、奇妙なほど穏やかな微笑を浮かべてオーリアスを見上げる。
「オーリはどうでしたか」
「……胸を」
「むね?」
「う、後ろから掴まれて……」
「ち、痴漢?! 幽霊に痴漢されたんですか!? それとも人間!?」
「違う! 痴漢の幽霊じゃなくて魔物だったんだ!」
心臓喰らいという魔物で、危うく心臓を抉られるところだったのだ、と主張すると、マリエルの視線がボタンのきつそうな胸元に注がれる。
「……オーリ、よかったですね、胸おっきくて……わたしだったら抉られてましたよ、きっと」
ぺたんこだったら、即抉られていた可能性もゼロではない。じっとその部分を見つめられたオーリアスは、そっと腕で胸を隠した。だが、腕で隠しきれていない部分をマリエルが横からつつく。
「ひっ!? な、何するんだよ!」
「いーじゃないですか、ちょっとくらい。減るもんじゃあるまいし」
マリエルが微妙にやさぐれているのは、たぶん、寝ていないからだ。きっとそうに違いない。
もそもそと力なく、迷宮前受付広間にやってきた撲殺魔女と惨殺僧侶は、人の多い広間に入って、ほっと息をついた。ここは人が多くて騒がしい気配に満ちていて、安心する。
「オハヨウ。二人トモ無事、ヨカッタ」
人の声と装備品の触れ合う音で騒がしい中、聞きなれた声に二人はぴくりと反応した。
「グレゴリー、くん……!」
「……グレゴリー……!」
「ワウ」
そこにいたのはどっしりと佇む、もふもふ。
差し込む光を浴びて、灰色の毛並みがきらきらと輝く。ふさりふさりと揺れる尻尾。ぴこぴこ動く耳。薄い黄色の目がじっとこちらを見つめている。
オーリアスとマリエルは感極まっていた。
昨夜の見回りは、あまりにも過酷だった。かたや幽霊のような魔物に胸を鷲掴まれ、かたや幽霊のような魔物に追いかけまわされ、心はぼろぼろ、磨り減った靴の踵のような有様だったのだ。
そこへ、恋焦がれたもふもふが朝日を浴びて目の前に。
二人は他の生徒の隙間を縫って駆け出し、慈愛のこもった眼差しを二人に注ぐ狼族に飛びついた。
日向ぼっこしていた犬のような、あたたかくて乾いた、どこか懐かしいような生き物の匂いを胸一杯に吸い込む。これほど安心を感じさせる匂いはなかなかない。
そして何より、もふもふ。ふかふかふわふわもふもふ。あったかいもふもふを全身で堪能しながら、潤んだ目で縋りつく。
「あああ、もうだめ、もうだめ! グレゴリーくんがいないなんて耐えられません!」
「もふもふ、もふもふだ……!」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられたグレゴリーは、黙って二人のなすがままになっていた。二人とも隈はつくっているし、顔色は悪いしで、昨日の見回りがよほど辛かったらしい。自慢の毛皮をもふもふすることで癒されるなら、存分にもふもふさせてやろうと思う。
「最悪、最悪だったんだよ! 魔物に痴漢されたんだぞ!? む、胸掴まれて、挙句心臓抉られるところだったとか言われるし、怖いし、気持ち悪いし、それにちょっと痛かったんだからな……!」
「すっごい怖かったんです! 泣き喚く女の人に追いかけまわされて、逃げても逃げても追ってきてぇ! 転んで追いつかれたら、後ろから首絞められたんですっ……!」
わーわー叫びながらすりすりしてくる二人を左右に抱え、グレゴリーが、広間でもっとも注目された生徒歴代第一位を記録していた頃。
一人の少年が、旧校舎の裏手をこっそりと歩いていた。
「……見つけた」
辺りを見回して人がいないことを確認してから、木に手をかける。木に登るなんて生まれて初めてのことだ。妙に高鳴る胸を押さえ、ざらついた木肌に時折肌を擦りながらも、なんとか目的の枝までたどりつく。
「あった……これ、だ」
それは小さな手鏡のように見えた。
こうして太陽の下で見ると、ただの鏡だ。あんなに大騒ぎするような、どぎついシロモノにはとても見えない。縁飾りは精緻だが、魔道具というよりは手のひらくらいの大きさの鏡でしかない。
本当にこれがどこかから預かったという魔道具なのだろうか。
曇りなく磨かれた鏡面がきらりと朝の光を映している。
少しの間それに見入っていたカティスは鏡をポケットに突っ込むと、誰かにみられやしなかったかと慌てて下を確認して、木を降りはじめた。登る時よりも降りるほうが大変だ。そろそろと少しずつ降りていき、最後の枝まで来ると、覚悟を決めて飛び降りる。
「……っ!」
じん、と足の裏が痺れたが、無事に地上にたどりついたことにほっとした。
これからまた、誰にも見つからないように寮に帰らなければ。
本当なら今日も迷宮に潜りにいくはずだったのだが、しおらしい顔で昨日の見回り以来、体調が悪いと伝えれば、案外あっさりと休むことを許可された。今まで一度も休んだことがないから、本当のことだと思われたのだろう。
昨夜見つけた、紛失してしまった魔道具と思しき鏡は、今カティスのポケットの中に入っている。
体調不良で休んでいるという建前上、派手に出歩くわけにはいかないので、人目を気にしながら昨日の見回り中に記憶した場所まで行き、生まれて初めて木登りまでして回収した鏡は、今この手の中にあるのだ。
高揚した気分で古ぼけた小さな手鏡の入ったポケットを押さえた。
どうしようかな、と歩きながら考える。
どうするべきだろう。このまま先生のところへ持っていこうか。たまたま見つけましたと言って。それでもいい。ひどく感謝されるのは間違いない。成績にもちょっとした上乗せくらいしてもらえるかもしれない。生徒まで駆りだして探すようなシロモノなのだ。
そっとポケットの中を探る。すべすべして冷たい鏡に指が触れ、それがとても気持ちよかった。
「……やめた」
先生に渡す前に、もう少しこの鏡を見てみたい。
高揚した気分で上手く寮の部屋まで戻ってきたカティスは、ばたんと寝台の上に倒れこんだ。
初めてこの寝台で寝た時は違和感がひどくて寝られたものじゃなかったのに、今ではもう気にならない。
なんでも慣れて、磨耗して、鈍くなっていくんだろうか。
それならいいのに、と思う。
オルデン王子に気に入られて、その腹心になるまで帰ってくるなと言った父親のことを思い出す。父親なんて名前だけで、片手の指くらいしか会ったことはなかったが、アレでも一応は父親という肩書きを背負っているらしい。
くだらない、成人前のカティスでさえわかるようなことがわかっていない、いや、わかりたくないのかもしれない。尻尾を振る相手を間違ったことを認めたくないだけなのだろう、多分。
取り入った分、報いてくれる相手かどうかなんて、カティスでさえわかる。
あの王太后様はそんな義理人情なんて持ち合わせた相手じゃない。
ポケットの中の鏡を引っ張り出し、光る鏡面を覗き込む。
そこに映る自分の顔は、つまらなさそうな、いかにもやる気のなさそうな顔をしていた。さっき木に登っていた時のようないい気分は、もうどこにも残っていない。
鏡。そう、鏡だ。
縁飾りは尻尾が異様に長い、不思議な鳥が何羽も羽ばたいている紋様だった。
こうして近くでよく見ると、それが不思議なほど生き生きとして見える。今にも飛び立ちそうなその鳥の一羽の目が、きろりと一瞬動いたような気がして驚いたが、そんな自分がおかしかった。そんなことあるわけがないのに。
もうそろそろ、先生のところへ持っていこうか。
そう思いながらも、なんとなく鏡を手放せない。
そういえば昨日、見つけたことをすぐ報告しなかったのは、どうしてなんだろう。発見の手柄を独り占めしたかったから? それとも、魔道具のことなんてどうでもよかったから?
わざわざ仮病まで使ってこっそり鏡を回収して、自分は一体何をするつもりだったんだろう。
胸の奥から湧き出した小さな違和感。
針の先のようにちくりと意識をつついたそれはすぐに消え、カティスはじっと小さな鏡に見入っていた。