40、シミー退治 後編
目の前で箱に巻かれた紐が解かれていくほどに、ぞくぞくと肌が粟立っていく。
息を呑んで見守るオーリアスたちの前で、スピカの手によってほどかれた紐がしゅるしゅると床に滑り落ち、そして蓋がゆっくりともち上げられる。
そこから、ぶわりと何かがあふれ出したのがわかった。目には見えない。だが、確かに箱の中から出てきている。 それはあっという間に部屋中に広がっていき、その圧倒的な気配に完全に気圧されて固まっている3人を包み込んだ。
「 ほぉらシミーども、とっておきの極上品だ」
ざわ、と空気が揺れる。周囲を囲む本の壁が一斉に震えたようだった。
「大抵の魔本はシミーに憑かれりゃ、なすがままに喰われるだけだが、こいつみたいに」
『おいおいおい! 早いとこ蓋しめろや! 虫が寄ってくんだろがァ!』
「……自我を持って喋りだすくらいになると、シミーの一匹や二匹くらい返り討ちにするようになるんだよ」
『けけけっ! そこらの物いわぬ一山いくらの魔本と一緒にするんじゃねェや! おれの名は』
ぱこっ。
開けていた蓋を閉めたスピカは、零れ落ちそうなくらい目を開いて箱を凝視している一年生たちの顔を見て吹き出した。
「あっはっは! ほら、しっかりおし! 餌は撒いた。もう出てくるよ」
壁から半透明の何かが染み出てきている。それは液体、いやスライムのようにまったりとしていて、どろりと本の背表紙に溜まっていた。そのせいで壁全体がぬるぬるした粘液に分厚く覆われているように見える。
「す、スライム!?」
濁った生卵の白身のようなソレが次第に色濃く、はっきりとした形をとり始める。
「いいや、よく見てな……アルタイル、まず手本を見せてやんな」
「了解した! よく見てるんだぞ!」
「は、はい」
「ワウ!」
垂れるがままの生卵の白身のようだったソレが、ぐぐ、と宙に伸び始めた。
オーリアスたちの食い入るような視線の先で、ソレは壁から突き出した50シムほどの白い棒状の何かになり、ふつり、と壁から離れると、何かを探すように部屋の中を飛び回りはじめる。
音もなく数歩進んだアルタイルが部屋の中央で静止する。
宙を飛び回る白いソレは緑色の光石に照らされて、ぼんやりと発光しているようだ。
ふ、とアルタイルの顔から表情が消えた。
周囲を飛び回っているシミーの一匹が、ひゅっと素手の格闘家の顔の横を通った瞬間。
だらりと両脇に垂らされたままの腕が僅かに揺れたように見えたと思ったら、その手にはナニかが捕らえられ、びちびちと動いていた。
「とまあ、こんな感じだ! やってみろ!」
何がどうなったのかわからず唖然とする3人の前に、戻ってきたアルタイルの、ナニかを掴んだ拳がにゅっと突き出される。
ソレを見たマリエルが、ひっと息を呑んだ。首らしきところを掴まれ、びちびちくねくねと蠢いているソレは、どう見ても50シムはある、つるりぬるりとした芋虫で、最高に褒め称えて極太の白いミミズといったところか。今は半透明の白身だが、これからコレがこの空間一杯を泳ぐのだとしたら、想像を絶する気色悪さだ。
「こ、これを捕まえる……」
わかった。手間賃が出る理由が。つまり、アレだ。世の中の真理『上手い話には気をつけろ』という奴だったわけだ。そして、コレを平然と素手で掴んでいるこの先輩の評価が『変な人』でこれから動くことはないだろうことも確信した。
「……マリエル?」
「大丈夫カ?」
間近で芋虫の赤い硝子玉のような目らしきものと視線を合わせてしまったマリエルの血の気が一気に引く。尋常ではない様子に、オーリアスとグレゴリーは顔を見合わせ、そっと白いローブを引っ張った。誰にでも苦手なものはある。無理はしない方がいい。
「マリエル、休ンデテイイゾ」
「おれたちでやるから、上に戻ってていいぞ?」
「……いっ、いっ、いいえっ! わた、わたしもやります! こ、これからこういう魔物も出てくるかもしれないし、き、危険がないもので慣れておかないと、い、い、いざという時、こ、困りますからっ」
やさしく棄権を薦めてくれる二人に首を振り、ソレを素手で掴んで平然としているアルタイルから距離を取りながら、震える拳を握り締める。そうだ、慣れれば、慣れればいいのだ。
この先、この系統の魔物が出てくるたびに逃げ出して二人にまかせるわけにはいかない。絶好の機会ではないか。コレが平気になれば、大抵のものは平気になるはず。
「だ、大丈夫です! がんばりますからっ」
そう、思ったのだ、その時は。
気遣わしげにこちらを見ている二人に強張った笑顔を返し、冷たい汗で濡れた手のひらを拭い、鞘を握りなおす。
そして、そこからマリエルの悪夢が始まった。
どろりどろりとひっきりなしに溢れてくる白身状のシミー。そしてそれはあっという間に空飛ぶ無数の芋虫となって部屋中に溢れかえったのだ。
嬉々として手当たり次第手掴みするアルタイル、最初の内は苦戦していたが、その内コツを掴んだのか上手く杖を中てて床に叩き落すオーリアス。獣人族ならではの俊敏さを生かし、こちらも手のひらで叩き落すグレゴリー。巨体に似合わず、案外機敏に床に落ちたシミーを籠から取り出した火箸で拾っていくスピカ。
動き回る四人を前に、マリエルは硬直していた。さぁ、行ってこの鞘でアレを打ち落とすのだ。そう思っているのに、足が動かない。
いまや空飛ぶ芋虫の魔窟と化した図書室地下で、悪夢の只中に身をおく惨殺僧侶の脳裏に、走馬灯のように子どものころの記憶が流れていく。
「ワウッ!?」
「あっ、マリエル! そっちに行っ……!」
おしとやかでおっとりしたやさしい長姉。活発で明るく、向日葵のような二番目の姉。大好きな姉たち。どちらも同じだけ大好きで尊敬しているが、彼女たちにはそれぞれたったひとつだけ、どうしようもない悪癖があるのだ。だからといって嫌いになったりなんかしない。変わらず大好きだけれど、でも、どうしても、ああ、それだけはやめて姉上。
そう、あれはマリエルがまだ5、いや6歳だっただろうか。
「わたしの可愛いマリエル! 今日は素敵なものを持ってきたわよ!」
きらきらと宝石のような目を輝かせてそう言った二番目の姉に、マリエルは素直に喜んだ。
なぁに、と尋ね、早くみせてとせがんだ。あの日に帰れるなら今すぐ逃げ出せと忠告してやりたいが、それは叶わぬ願いというもの。
大好きな姉の、たったひとつの悪癖は。
「ほら、見てマリエル! ニジイロマダライモムシよ。ロウレンで見つかるなんて、なんて素晴らしいのかしら! これが羽化するとあの例えようもなく美しい蝶になるんだわ、ああ、早く成虫にならないかしらね!」
差し出した手のひらに乗せられた、10シムはあろうかという丸々とした芋虫。
「可愛いでしょう、この目、このおちょぼぐち! この繊細な足!意外と動くのも早いのよ? 口から糸を吐いて獲物を捕食するんだけれど、それがとっても面白いの! 今度見せてあげるわね! ……マリエル? あら、どうしたの? マリエル?」
そう、彼女は虫愛づる姫君。
恐怖と嫌悪に手を動かすこともできず、硬直している妹を覗き込んだ姉の動きに驚いたのか、手のひらに転がっていた芋虫は突然動き出して、そして。
「……い、いや……来ないで……」
「はーっはっはっは! がんばるがいい三人とも! こうして! こうすればいいんだぞ!」
「そ、そんなことできるのアンタだけだと思います、先輩っ」
「そらそらそらぁ!」
「いやああぁ!!」
「マリエルっ!?」
ふっと途切れていた意識が戻り、目を開けたマリエルが見たのは、心配そうに自分を覗き込んでいる凛々しい美少女と、もふもふした灰色の毛皮が素敵な狼。
「……オーリ……グレゴリー、くん?」
「よかった、気がついた」
「ワフ!」
のろのろと起き上がり、そこが司書室だと気づく。スピカとアルタイルはいない。図書室に通じている扉は開いていて、そこから二人のものらしい声が聞えていた。
「ちょっと前に片付け終わって、戻ってきたところなんだ」
「そう、ですか」
「マリエル、無理ヨクナイ」
「気を失うほど苦手なのに、なんで無理に我慢したんだ?」
怒るでもなく、困ったような顔でそう言ったオーリアスの顔を見上げていたら、ふいに恐怖と嫌悪感と、とにかく色々な感情がこみ上げてきて、視界が涙で見えなくなった。
「……な、慣れなきゃ、慣れなきゃダメだと思って、あのっ……」
「いきなりあんな上級レベルからがんばることないだろ?おれだって気持ち悪かったのに」
緑の目いっぱいに涙を浮かべているマリエルの顔色はまだ冴えない。
どうやって慰めたものかと思案するオーリアスの前で、ぽろりと涙が落ちて、わあっとマリエルが泣き出した。
「き、気持ち悪かったんですっ……す、すごくきもちわるかったぁ……!」
飛びつくように抱きつかれて一瞬うろたえたが、オーリアスは黙ってその背中を撫でた。
この間、自分もそうしてもらったことを思い出したからだ。
オーリアスの胸に顔を埋め、わんわん泣いているマリエルの背中をぽんぽんと撫でてやり、ふと気づく。
どきどきしない。前だったら、確実にしていた。ちょっと赤面したかもしれない。
女の子とこれだけ密着して、ぎゅっとされて、どうして何も感じないんだろう。泣いているマリエルを慰めてやりたい、いたわってやりたいという気持ちはちゃんとあって、それは胸の真ん中辺りにほっこりと満ちている。あれは気持ち悪いよな、わかるよという共感も。
それなのに『女の子と密着している』ことに対する緊張とかちょっとしたときめきとか、そういうものがまるでない。これは、相手がマリエルだからなのか。いつも一緒にいて慣れてしまったから、何も感じないんだろうか。
それとも。
思いつく理由なんてたったひとつで、それでも生理になった時に比べれば、そこまでの衝撃は受けていなかった。違和感はあってもそれほど動揺せずに済んでいるのは、さっきまでアルタイルと話していたおかげだろう。おかしな先輩ではあるが、その点については感謝しておく。
とりあえず、今は泣いているマリエルを泣き止ませることから始めなければ。
視界の端で、グレゴリーの尻尾がゆらゆら揺れている。