39、シミー退治 前編
マリエルは今、後悔していた。
人生でこんなに後悔したことはないというくらい、後悔していた。
なんであの時、意地をはってしまったんだろう。素直にごめんなさいと謝って、二人を待てばよかった。折角二人が気をつかってくれたのに、それを無駄にしてしまった。
剣を持つ手が震えている。体が上手く動かない。全身に鳥肌が立って、悪寒が止まらない。
「ワウッ!?」
「あっ、マリエル! そっちに行っ……!」
「……い、いや……来ないで……」
「はーっはっはっは! がんばるがいい三人とも! こうして! こうすればいいんだぞ!」
「そ、そんなことできるのアンタだけだと思います、先輩っ」
「そらそらそらぁ!」
「いやああぁ!?」
「マリエルっ!?」
今にも触れそうなほど近くに『ソイツ』がやってきた。宙を飛び、まるでマリエルに口付けしようとでもするかのように、眼前に迫る。
オーリアスの、グレゴリーの、おかしな先輩の声がぐわんぐわんと頭に響き。
つるりぬるりとした、『ソレ』の赤い目玉がぐりぐりと動くのを見たマリエルの意識が、ぷつんと途切れた。
引きずり込まれたオーリアスを追って飛び込んだ司書室の中は、狭かった。いや、本当なら狭くはないはずなのだが、スピカの巨体とさらに四人の人間が入るとぎゅうぎゅうなのだ。部屋の中には長椅子と机と、床一杯に描かれた転移の魔法陣。机の上には、厳重に梱包された箱がひとつ。
「さて、あんたたち、どうせシミーなんて知らないんだろ?」
さっぱりわかりませんという顔をしている3人に、スピカがため息をつく。そう言われても、突然こんなことになったので、何がなんだかさっぱりわからないのはしょうがない。
「魔喰紙魚ってのは魔虫の一種で、本、特に魔力を秘めた本に潜み、その魔力を喰らう虫だよ」
それはどこからともなく生まれ、いつの間にか本に巣食うのだという。幼生の内は喰らう魔力も微小だが、育つにつれて食欲は莫大になり、放っておくと貴重な魔本を全て喰いつくして白紙にしてしまう。
司書であるスピカはそうならないように、全ての魔本に魔喰紙魚用の結界術をかけ、その魔力を囮にして喰わせることで、魔本自体が喰われることを防いでいる。だが、成虫の食欲は尋常ではない。成虫になれば囮の結界術もあっというまに食いつくし、本の魔力を吸い上げてしまうだろう。その為に結界術が効いていて、かつ、成虫になる前のシミーを退治する。
普段は巣食った本と同化していて目に見えないが、好物の強力な魔本が目の前にあれば、出てきて本体を現す。幼生の内に退治できれば一番いいのだが、幼生の内はほぼ完全に本と同化していて餌にも釣られないので、ある程度育つのを待つしかない。シミーがどうやって生まれ、どうやって巣食うのかも解明されていない以上、防ぐことはできないのが現状だ。
「餌に釣られて姿を現すシミーを捕まえるのが、あんたたちの仕事だよ」
「なかなか面白いぞ! 動きが素早く、かつ魔法攻撃が効かないからな!」
アルタイルが拳を握り締め、いかにもわくわくしている様子を見ながら三人は納得した。
なるほど、そういう仕事だったのか。
「ちゃんと手間賃も出るから、精々がんばんな」
「全く、いいことずくめだな!」
「そりゃあ……」
スピカがちらりと3人を見下ろした。
「ま、何でも一度はやってみないとね……あんたたちは最初の内、アルタイルを見てな。同じことはできないだろうけど、ようは何しようと捕まえりゃいいんだ。木っ端微塵にした阿呆が何年か前にいたけど、原型を留めた形で捕まえとくれ」
捕まえたシミーはいい値段で売れるので、ちゃんと確保してもらわねば困ると言い聞かされて頷く。手間賃もそこから出るというならば、きっちり仕事を果たしてみせようではないか。
「アルタイル・ベガが言ったけど、シミーには魔力を使ったいっさいがっさい無効だよ。刃物も効きづらいから気をつけな。もっとも、シミーを手掴みする生徒なんて、このアルタイル以外に見たことないけどね」
魔法攻撃全無効。しかも刃物も効きづらいとはかなり手強そうだ。それは一年生にも倒せるような相手なのだろうかと若干不安を浮かばせた3人に、アルタイルがにかっと笑う。
「攻撃は全然してこないから安心していい! 捕まえるのが難しいだけなんだ」
新しい経験になって、手間賃も貰えて、しかも捕まえるだけ。
なんていいことずくめだとオーリアスたちは喜んだ。やはり、迷宮以外にも色々な出来事があり、新しい体験が待っているのだ。これからは校内もちゃんと見て回ろう。
ごそごそと机の下を探ったスピカが、大人がすっぽり入りそうな蓋つきの背負い籠を取り出し、アルタイルに渡す。
「それじゃ、一応ついていくけど、あたしゃ司書でかよわいんだから見てるだけだよ」
そう言って丸々とした腕を組むスピカに3人とも疑問を覚えたが、それを口に出すような愚挙は犯さなかった。あの腕からもし拳骨が繰り出されたらと思うと、無言にならざるを得ない。
「それじゃ下に行こう。用意はいいか?」
アルタイルの言葉と同時に、部屋の床一面に広がった転移陣が光りだす。
ぶうん、と転移陣が起動した時特有の音と浮遊感に包まれた五人は、光とともに『下』へと転移した。
図書室と司書室を合わせたより、少し広いくらいだろうか。
スピカは『下』だと言ったが、この広さの部屋が校舎の下にあるなんて初めて知った。この学園にはまだまだ不思議な場所があるらしい。
かなり暗く、天井の四隅に緑色に発光する光石が取り付けられているせいで、まるで別世界に入り込んでしまったような気分にさせられる。天井以外の全ての壁が本で埋められていて、ここまでくると本で出来た壁といった方がいいかもしれない。だが、本があるのは壁だけで、真ん中の空間はぽっかりと空いていた。この広さがあれば四人が暴れたところで問題ないだろう。
そして何より、この部屋を上と決定的に違うものにしているのは空気だった。『何か』が空気中に満ちていて、ねっとりと肌に纏わりついてくる。不快ではないが、背中がぞくぞくする。
「ここに収められているのは全部魔本だからね、ちょっと凄いだろう?」
スピカの言葉に頷き、オーリアスは腕をさすり、グレゴリーは尻尾の毛を膨らませ、マリエルは腕を抱いた。
この部屋の中にいると勝手に背筋がざわざわしてくるのだ。
「もふもふの君、盾は必要ないから隅に置いておくといい。捕まえるには身軽でいた方がいいからな」
「ワウ」
「膝小僧の君、剣ではなく、鞘で叩き落す方が捕まえやすいぞ」
「わかりました」
「絶対領域の君は、うむ、特に言うことはない! うってつけの武器だ!」
「はぁ……あの、始める前に名乗ってもいいですか、一応」
「お? そういえば聞いていなかったな!」
アルタイルはわけもわからない内に名乗ってくれたが、その勢いに流されてうやむやなままここに来てしまったので、三人とも名乗ることすらしていない。このまま訂正しないと、アルタイルはこの先ずっと膝小僧、絶対領域、もふもふとしか認識してくれなさそうだ。
「おれはオーリアス」
「わたしはマリエルです」
「オレ、グレゴリー」
「よしわかった! ではオーリアス、マリエル、グレゴリー! 用意はいいか!」
「はい!」
「言いそびれてたけど、本に傷をつけるような真似したら首を引っこ抜いてやるから覚悟おし。それじゃ、始めるよ……」
部屋の中央に立ったスピカが、手に持った箱の紐をしゅるしゅると解き始めると、ただでさえ周囲に重たく満ちていた何かが、途端にねっとりと濃密に、息苦しいほどに満ちてきた。
何が起こるのだろう。
激変した空気に身構えた三人は、これからマリエルにとっての悪夢が始まることを知らない。