38、うわさのシミー
「あの人、いつまでああしてるんでしょう……」
「……うーん……」
「ワフ……」
探索を切り上げ、早口言葉を求めて図書室までやってきたオーリアスたちは、現在声を潜め、こっそりと壁の影から図書室の前を窺っていた。
「アレ……何なんだろうな?」
「……何でしょうね?」
「変ナ人」
「そうとも言うな」
「言いますねぇ」
早口言葉についての本を探しにやってきたはいいものの、図書室に入ることさえできていない。
なぜなら、目的地である図書室の扉の前がとんでもないことになっていたからだ。
ソレを見た瞬間、三人はそれまで話していた魔女スキルの不思議さについてをきれいさっぱり頭から飛ばし、目の前の光景に釘付けになってしまった。
あれは一体なんだろう。
図書室には行きたい。だが、あの空間に突入する勇気がない。
「……どうしよう……」
三人は、見てしまったのだ。
先輩らしき男子が図書室の扉の前で元気よくスクワットに励んでいる姿を。
廊下を歩きながら、何か聞えているなとは思ってはいた。近づくにつれ、それが回数を数えているらしいということはわかったものの、まさかこんな光景に出くわすとは思ってもみないではないか。
どこでスクワットしようと勝手だと言われてしまえばそれまでだが、図書室に入るためにはどうやってもスクワット中の彼の目の前に行かなければならないわけで。
途方にくれる三人の耳に、ひゃくにじゅういち、ひゃくにじゅうに、と元気のいい掛け声が聞えている。
出て行くのも話しかけるのも躊躇われるその姿に、少し待てばいなくなるかも、と期待して待っていたが、一向に終わらない。おまけに、こんな時に限って誰も通りかからないのだ。
ここに来た時点で73回だった掛け声は、いまや128回目。
もういい加減待てない。気まずいことこの上ないが、これは覚悟を決めて出て行くしかないかと、そっと壁から顔を覗かせた三人が、あまりにもじっと見ていたせいなのか。
「お?」
ふいに振り返ったその人とばっちり目が合ってしまった。
こみ上げる気まずさに目を泳がせながら、三人はそろそろと壁の影から出て図書室に向かった。
なんという、いたたまれなさ。
昨日のお説教で受けたいたたまれなさとは、また違うやるせない気持ちに苛まれている3人に向かい、スクワットをしていた彼はにかっと笑って大きな声で言った。
「む、かわいい膝小僧だな、なかなかいいぞ!」
ひざこぞう。オーリアスとグレゴリーが、マリエルを見下ろす。
この中で膝を出しているのはマリエルだ。ローブの裾からのぞく丸い膝小僧は確かに可愛らしい。しかし、初対面の相手に開口一番言うことが膝小僧への褒め言葉とは、これいかに。
目をまん丸にしたマリエルが、呆然と呟く。
「ありがとう、ございます?」
「……マリエル、お礼はいらないと思う」
混乱しているらしいマリエルにぽつりと呟いたオーリアスの言葉に被せるように、大きな声が響き渡った。
「おお、こっちもいいな! その絶対領域や良し! オレは胸より足派だ! できれば後3シム裾を短くするとなおいい! 毛皮の君! そのもふもふ具合もまたいい!」
「……はぁ……」
「ワフ」
毛皮を褒められたグレゴリーが嬉しそうな顔をしたが、オーリアスとマリエルの心は一緒だった。
この人は、変な人だ。
たぶん、先輩だろう。こんな一目見たら忘れられない人は一年生にはいないはずだ。
注がれる三人の視線にも全く動じず、ぼろぼろの道着に素足、短く刈った焦げ茶の髪、同じ色の目 という格好の先輩は元気よく名乗りを上げた。
「オレは3年のアルタイル・ベガ。人よんで孤高の格闘家! 『初期装備の裸一貫』だ! よろしく!」
「……はだかいっかん、さん……」
マリエルの視線は、もはや男というより珍獣に向けるものになっている。
「ちょうどいい、今準備運動が終わったところだ。これも何かの縁、君達も来るか?」
「図書室に、ですか?」
「いや、その下だ。これから魔喰紙魚退治をするんだ」
「その下? 魔喰紙魚退治?」
声を揃えた三人に笑い、アルタイルが図書室の扉を無造作に開けた。よく見れば扉の真ん中に紙が貼られ、大きく『本日入室禁止』と書かれている。
「今年はオレ一人でやるつもりだったが、来年の為に、後輩に魔喰紙魚退治のコツを伝授しておくのも悪くない」
オーリアスたちは早口言葉のコツを探しにきたのであって、何だかよくわからないシミーとやらの退治のコツを知りにきたわけではないのだが、しかし。
三人はちらりと視線を交わす。これは、なんだかちょっと面白そうだ。
「さあ、装備はいいか? 準備運動はすませてあるか?」
装備はさっき迷宮に潜っていたから、大丈夫。準備運動も、さっき戦闘したから大丈夫。
こっくり頷いた3人を連れ、アルタイルは意気揚々と幽霊憑きの図書室に踏み込んだ。
ふわりと独特の匂いがする。教室も廊下とも迷宮とも違う空気の中、古びた本棚で埋められた空間をずかずか進むと、一番奥にある司書室の扉を拳で叩いた。
「司書! シミー退治の準備が出来た! ついでに来年用の一年生も確保したぞ!」
「アルタイル・ベガ! あんた何回言ったらわかんだい! 『さん』をつけなさい、『さん』を!」
ドスの聞いた声と同時に、どかんと勢いよく内側から開いた扉にがつんと顔を打たれたアルタイルが、呻きながらしゃがみこむ。三人は慌てておかしな先輩を囲んだ。今のは絶対に痛い。鼻血が出ているかもしれない。
「あの、キュアしましょうか」
「うぐぐ……いや、なんのこれしき! もう何度目かわからないくらいだから気にするな!」
「全く、何度言っても直りゃしない」
扉の内側から、ぬうっと現れた巨体の女性の迫力に、オーリアスたちは思わず後ずさった。大きい。縦にも横にも。
くるくる巻いた白っぽい金色の髪が滝のようにその大きな背中と肩に流れ、全身をピンク色の布に包まれている。 現れた巨大でとても強そうな中年女性は、子犬のように自分を見上げている3人をじろりと見下ろし、ふんと鼻を鳴らした。
「派手なとこ連れてきたもんだねぇ。まあいい、入んな」
「よし、君達、この司書は怖いかもしれないが噛みついたりはしない! 安心して入るといい!」
「そりゃあ、あたしの台詞だってんだよ、この鳥頭!」
「し、司書?」
「そうさ。あたしが司書のスピカだよ」
オーリアスは自分の記憶との齟齬に目を見開く。前に魔女について調べに来た時、司書の机に座っていたのは、こんなに衝撃的な人ではなかった。普通のすらりとした金茶色の髪の、もっと若い女性で。
「おや、そこの黒いのは何だか言いたいことがありそうだねぇ」
にやにやとスピカが笑い、扉の上にかかっている絵を示す。
「コイツにひっかけられたね?」
分厚い手のひらが、オーリアスの肩を慰めるように叩いた。この幽霊に化かされる生徒が毎年いるのだ。幽霊のくせに好き嫌いがうるさく、気に入った生徒にしかちょっかいをかけない。
「そんな怯えた顔しなくても、たいしたことなんか出来やしないから安心しな! ほれ、行くよ」
固まっているオーリアスの襟首を引っつかみ、ずるずると部屋の中に引き込んでいく司書に、マリエルとグレゴリーも慌てて後追って部屋の中に飛び込んだ。
一体これから何が行われようとしているのだろう。何だか面白そうだと思って着いてきてしまったが、もしかして早まったかもしれない。