34、抜け毛と青空
その日、オーリアスはいつもより、少し遅く起きた。
早朝しか鳴かない小蝶鳥の声は全く聞えず、日除けの布越しに部屋を照らす光は十分明るい。目覚めはいい方なのでさっくり起き上がると、据え付けの洗面台で顔を洗って、歯を磨き、長い髪をまとめる。髪は元々長かったので手馴れたものだが、そろそろ切ろうかと思っていた。ただ、そう言ったらなぜか大反対されたので、現在保留中だ。
髪をまとめながら壁の鏡を覗き込む。もう見慣れたような、まだ見慣れないような『自分』の顔。
仕方ない、とは今でも思っている。
突然男から女になるなんて事故みたいなものだ。
歩いていたら急に竜が空から落ちてきて巻き込まれた、と同じようなもので自分ではどうすることもできない。それがどんなに嫌でも拒否したくても、どうにもならない。
だから、諦めているわけではないが、仕方ないことなんだと自分に言い聞かせているのは変わらない。開き直ることもできないし、大暴れして八つ当たりというのも性格的にできないのだ。
でも、マリエルの前で大泣きした日以来、憑き物が落ちたように楽にはなった。
ずっと言えなかったことを吐き出したせいなのか、馬鹿みたいに泣いたせいなのかはわからない。
ただ、誰かに聞いてもらうと楽になることもあるんだと実感したので、今度何かあったら、誰もいない山の中で叫んでみようと思っている。マリエルにばかり頼るわけにはいかないし。
あの日、あれだけ泣き喚いてぐだぐだした次の日。
休めと言われたが、意地を張っていつも待ち合わせている迷宮前に行くと、いつものように二人が立っていてなんとなく安心した。それはいいが、マリエルと顔を会わせた時の気まずさといったら、もう、恥ずかしいの頂点を越えていたような気がする。あんなに泣いて叫ぶだなんて、叔母にだってしたことはない。それを、同い年の女の子に、叫んで泣いて八つ当たりして、その上、アレ用の下着まで用意してもらったなんて思い出すだけで顔から火がでそうだ。
そして情けないわ恥ずかしいわみっともないわで、ぎくしゃくしている所へのダメ押しがグレゴリーだった。
唐突に差し出される棒つき飴の束。ぽかんとするオーリアス。そしてぶんぶん尻尾を振っているグレゴリー。挙句、何を言うかと思えば、面と向かって「オメデトウ」。
あの時のオーリはオーガよりも怖かったです、とマリエルに言わしめた形相で、オーリアスは腹が痛いのも忘れてグレゴリーを追いかけた。もちろん、愛用の杖を振りかぶって。
おかげで校舎の周りに幾つか凹みを作るはめになったが、オーリアスは悪くない。全部グレゴリーのせいだ。こっちは全然ちっともこれっぽっちもおめでたくなんかないというのに、むしろどん底まで落ち込んでいたというのに、何の悪気もなく、おめでとう。しかも本気でおめでたいと思っているのが始末に負えない。
きゃんきゃん鳴いて逃げる狼族をさんざん追い回した後、他人からみたらそんなもんなんだ、と思ったら、馬鹿馬鹿しくて気が抜けた。
それよりも、言ってもいないし言うつもりもなかったのにどうしてわかったのか聞いてみたら、匂いがするのでわかると言われて泣きたくなった。昨日の時点で気づいていたという。
だが考えてみれば、この学園の生徒の半数近くは女子。獣人族にとってはそんなこと当たり前で、気にしないのが普通だそうだ。その上母親から、女は労わるものだと叩き込まれているらしいグレゴリーのこの年の男としてどうかと思う素直さにため息をつきつつ、それでも祝ってもらえるだけいいような気もして、何ともいえない気分だった。
結局、それがダメ押しになって、かなりふっ切れたような気がする。
別に現状を受け入れたわけではないが、とにかくなんとかやっていこう、という気持ちにはなれた。
アレも、終わってしまえばそこまで後を引かずにすんだ。来月、いやこれから毎月くるのかと思うとぞっとするし、気が滅入るのだが、仕方ない。
寝巻きを脱ぎすてて、いつものように下着をつけようとして、ふと手を止める。
見下ろした自分の胸をなんとなく下から両手で持ち上げてみる。温かくてやわらかい。それにけっこう重い。自分の胸ながら、これは釘付けになるよなとしみじみしてから、はっと我に返った。
「……な、何してるんだ、おれは……!」
恥ずかしい。ものすごく恥ずかしい。
ごろごろ転げまわりたい衝動を抑えて、もそもそと下着を着け、浄化ずみの装備品を手に取る。
以前の『単なる黒衣(上・下)』から『黒炎のシャツ』『黒鱗のショートパンツ』『絶対領域守護布』に変わった今、装備品はかなり充実している。
特に『絶対領域守護布』は見た目はアレだが、適当に足を突っ込んでぐいぐい引っ張っても問題ない丈夫な素材なのが嬉しい。
ブーツを履いて立ち上がると、日除けの薄布を寄せ窓を開ける。流れ込んできた新鮮な空気は、乾いた秋の匂いがした。
迷宮に潜るわけではないが、いつものように杖を持ち、部屋を出る。
前にも相談に使った校舎裏手の広場に行くと、すでに来ていたマリエルとグレゴリーが手を振ってくれた。
「悪い、遅れた」
「いいえ、わたしも今来たところです」
「オレモ今来タ」
この広場に来たのには理由がある。
別にどこでもよかったのだが、広くて風通しのよいところがいいということでここになったのだ。
広場の中央では上級生のパーティが模擬戦を行っていたが、ベンチの辺りでなら邪魔にならないだろう。さっそくグレゴリーを座らせると、道具袋から櫛を取り出す。普段使っているのとは違う目の細かい特別な櫛だ。
「準備はいいですか、オーリ」
「いいぞ。グレゴリーは楽にしてていいからな」
「ワウ」
マリエルとオーリアスは気合を入れて腕まくりする。
いよいよ本日のお楽しみ。
顔を見合わせると、目の前のふかふかした背中に二人揃って、えいやと櫛を振り下ろした。
今日は『グレゴリーを思う存分梳かす日』なのだ。からりと天気もいいし、ブラッシングには最適の日和だろう。
というのも、ここ最近、迷宮にいても外にいても、なにやらふわふわと顔のあたりを飛んでいるもののせいである。白っぽくてふわふわしたソレは植物の綿毛ではない。グレゴリーの抜け毛だ。
ここ数日でめっきり気温が下がり、秋の気配が強くなってきたせいで、グレゴリーの夏毛が生え変わっているのだ。あっちにふわふわ、こっちにふわふわ、装備品にはつくし、顔にはつくし、鬱陶しいったらない。毛皮自慢のグレゴリーはちゃんと梳かしているとムキになっていたが、体の前面はともかく背中はどうやって梳かすんだとマリエルと二人で言い負かしたら、がっくりしょげていた。
それがかわいそうだったので、だったら二人で梳かしてやろうということになったのだ。
それにグレゴリーに限った話ではなく、獣人族は皆生え変わりの時期のようで、迷宮学園はどこもかしこも抜け毛が飛んでいる有様だった。いつもは遠慮して、撫でたりつついたりもふったり出来ないが、この状況なら思う存分堪能できる。存分にもふり倒すと心に決めてやってきたマリエルとオーリアスは、燃えていた。
「うわぁ……」
「ほら見ろ! こんなに抜けたぞ」
「ワウ……デモ、チャント、梳カシテル……」
「前は自分で出来ますけど、後ろは無理ですよ」
「やっぱり後ろは……う、口に入った……」
「喋ってるとダメで……わたしも入りました……」
「ワウン……」
ぺっぺっと口に入った毛を取って、大きなふかふかの背中に櫛を入れる。
首の辺りから腰の辺りまで上から下に梳かすと、櫛にごっそり抜け毛がついてきた。
上から下へ、毛並みにそって何度も梳かす。
抜けた毛の塊は足元へまとめておく。後でファイアで燃やせばいいだろう。
しばらくの間、二人は夢中で梳かし続けた。
「……ふう、大分とれましたね」
「こんなもん、か?」
首、腕、それに頭とぴこぴこ動く耳。ついでに尻尾。
くまなく梳かし抜け毛を処分してみると、後姿がなんだか見違えたようにすっきりして見える。
きゅうん、と目を細めて気持ち良さそうに鼻を鳴らしているグレゴリーがうっとりしているのがわかって、オーリアスは手を震わせた。
ああ、どうしてそんな顔をするんだ。犬じゃないのに。グレゴリーは犬じゃないのに。
横を見るとマリエルも悶えていた。今のグレゴリーからは、もふもふ好きを狂わせる魔力が溢れているに違いない。
二人揃って悶えながら、抜け毛がきれいに取れてふわふわさらさらになった毛並みに、今度は例の店で買ってきた『美しい毛皮のためのつやクリーム(銀鋼花エキス20%配合)』を塗る。直径30シムくらいはある、大型の蓋つき桶のようなものに詰められた銀色のクリームは、手に掬った時はぺとぺとしているが、毛に馴染むとさらさらになる。
装備品を買いに行った時、グレゴリーにちょうどいい装備品は見つからなかったが、その代わりにこれを見つけたのだ。その名も『美しい毛皮のためのつやクリーム(銀鋼花エキス20%配合)』。
これは獣人族専用のアイテムで、体毛に塗布することでクリームに含まれている銀鋼花成分が体毛をしなやかで丈夫にし、かつ魔法耐性が上がるというシロモノだ。その上、つやつやの美毛になるらしい。
効果は一ヶ月程度だということなので、また塗り直さなくてはならないが、それは二人がこうして手伝うことになった。後ろは一人では塗れないし、なにより手入れの間思う存分もふもふできるので、二人に否やはなかった。むしろこちらからお願いしたい。
まだ前回塗ってから一ヶ月立ってはいないが、今日は抜け毛も落としてちょうどいいので塗ってしまう。
しばし、ぺたぺたとクリームを馴染ませる作業を続け、二人が背面、グレゴリーが自分で前面をさらさらにし終わったところで、最後にもう一度、全身を軽く梳かして終了。
つやつやぴかぴかになったグレゴリーの尻尾がふぁっさふぁっさと揺れるのに目を細めながら、二人は満足のため息をついた。こんなに満ち足りた気分になれるなんて、やはりもふもふとは偉大だ。
「はぁ……グレゴリーくん、すごく、きれいです……!」
「ああ、こんなに毛並みが光って、触り心地も最高だ……!」
「ワウ。オレモ、気持チイイ。アリガトウ」
無邪気に喜んでいるグレゴリーをいいことに、二人は色々触りまくったが、これはセクハラではない。事務的な作業である。
つやつやグレゴリーを真ん中に三人でベンチに座って、ぼんやり上級生の模擬戦を眺めた。
上級生だけあって魔法も剣技もなかなかのもので、見ごたえがある。だが、そうしているうちに、ぽかぽかしているせいもあって、なんだか眠くなってきた。
「なんか、眠くなってきた」
「実はわたしも」
「オレモ、眠イ」
「なぁ」
「なんですか?」
「ワウ?」
横に座っている狼族の、日向で寝ている犬のような温かい匂いを吸い込みながら、笑う。
「二人とも、これからもよろしくな」
見上げた青空に、グレゴリーの抜け毛が綿毛のように飛んでいった。