33、手を繋いでよ、ガール 2
「……わかってるよ……仕方ないんだ、どうにもならないんだ。だってこんなのどうすればいいんだよ、元に戻る方法なんてわからないし、我慢するしかないじゃないか。我慢して、やり過ごすしかないじゃないか! 他にどうしろっていうんだよ! 文句言ったって男に戻れるわけじゃないし、だったらこの体でどうにかやってくしかないだろ!」
嗚咽交じりの叫びが、マリエルの胸を打った。
「だけど……だけど、やっぱりイヤだ……こんなの嫌だ……! こんなのおれじゃない! 気持ち悪いし怖いんだよ、なんで、なんで……」
泣きながら叫んだオーリアスが両手を寝台に叩きつけた。寝台が揺れ、鈍く軋んだ音を立てる。オーリアスが本気で殴ったなら、恐らくこんな寝台、真っ二つに割れているだろう。我を忘れてそうしてもおかしくない状況なのに、こんな時でさえオーリアスは手加減しているのだ。
その心の在りようが『オーリアス』なのだと思う。男でも女でも、変わらない部分。
しゃがんで床に膝をつき、布団に顔を押し付けて泣いているオーリアスの背中にそっと手を当てる。
嗚咽に震える背中がかわいそうで、自分も泣いてしまいそうだった。
マリエルには、ある日突然男から女になってしまった気持ちなんてわからない。自分が男になってしまったらと考えることはできるけれど、それはぼんやりとして曖昧な感覚でしかない。
だから、オーリアスの気持ちを本当には理解なんかできないのだ。簡単に慰めることも、深刻に考えすぎることも、曖昧に受け流すこともできない。
今、目の前で泣いている存在は、いまや大事なパーティメンバーで、友達で、少しだけ憧れている存在だから。
だから、適当なことなんて絶対に言えない。どんなに慰めてあげたくても大丈夫なんていえない。それが歯がゆいけれど、ひとつだけわかってあげられることがある、とマリエルは思う。
オーリアスは、今、とても心細くて、辛くて、惨めで、不安な気持ちでいる。
マリエルにはそれがよくわかった。なぜなら、自分自身がそうだったからだ。
初めて『それ』が訪れたのは10才の時だった。
その時のことを思い出すと、胸の奥が軋むように痛くなる。
「随分早いのね。ませた子だこと」
そう言った母の目には、女の証を迎えた娘に対する祝福なんて欠片もなかった。
あの時、マリエルのやわらかい部分にはざっくりと傷が出来た。思い出すたびに苦しくなるような、そんな傷が。
部屋に閉じこもって泣いていたマリエルの元に、姉達がやってきたのは半日ほど後のことだ。
マリエルよりもずっと年上の彼女たちは、優秀だったこともあって、色々な講義だのダンスの練習だので本宮にいることが多くなっていたにも関わらず、小さな妹を気にかけては、よく離宮にやってきて相手をしてくれた。
母親に受け入れてもらえなかったことが恥ずかしくて怖くて、泣きながら口を噤んだままのマリエルを辛抱強くあやして、宥めてくれて、やっとのことで何があったのか吐き出した時、二人の姉はぎゅっと抱きしめてくれた。抱きしめて、何度も『それ』はおめでたいことなんだと言ってくれた。知識として教えられてはいても、実際自分の身に起こったことが怖くて、本当に本当に大丈夫なのかと何度も何度も確認するマリエルに、同じ数だけ、大丈夫と言ってくれた。大人になったのねと優しく笑って、大丈夫大丈夫と繰り返してくれた。
自分達もそうなるんだと教えてくれて、温かくしたら痛みが治まるからとお腹に手をあててくれた姉達にすがりついて、わんわん泣いたあの日のマリエル。
今になってしまえば、何がそんなに怖かったんだろうと思うけれど、あの時マリエルはとても怖くて不安だった。女だからって、『それ』を当たり前に受け入れているわけではないのだ。
あの時、姉達がいなかったら、どうなっていただろうと考える。
考えると、怖くなる。
女だって怖いのに、ましてや、オーリアスはこの間まで男だったのだ。
突然足の間から血が出てきたら、それは気持ち悪いにきまっている。そんなの、怖くないはずがない。
だから、せめて、少しでも楽にしてあげたかった。姉達があの日のマリエルにしてくれたように。
「ああ、わたし急いでいて、持ってくるの忘れちゃいました。後で持ってきますね」
「……なにを」
「スライムの皮です」
手の下で、小さくしゃくりあげていた背中が震えて、くぐもった声が聞えた。興味を持ってくれたらしい。
「知りません? スライムの皮って便利なんですよ」
布団に顔を埋めたままだが、それでも反応があったことにほっとする。
「中にね、温かいお湯を入れるんです。こう、注ぎ口がついてて」
もそりと少しだけ頭が持ち上がって、ようやく泣き濡れた顔がこちらを向いてくれた。
べしょべしょに濡れた頬を乱暴に拭いながら、潤んだ蜂蜜色の瞳が先を促すようにマリエルを見る。
お湯を入れてお腹にあてたり、腰にあてたりして暖めると楽になるんだと説明すると、オーリアスはぐすぐすしながら、それでも感心したような顔をした。
「……そんなのあるのか」
「あるんです」
それきり無言で二人は黙っていたが、漂う空気はさっきまでとは違う、どこかやわらいだものだった。
窓からさしていた西日はいつのまにか色を無くし、部屋の中はこれから夜になる間際の、ぼんやりとした薄明りに照らされている。
目を真っ赤にしているオーリアスが、ぐすぐすと鼻を啜りながら呟いた。
「……今、鈴が鳴った」
「えっ、今ですか?」
鈴が鳴った、というのはスキルを覚えた、という意味で使われる。レベルが上がった時や、新しいスキルを覚えた時、本人にしか聞えない鈴のような音がするせいだ。
もしかしたら、スキルを覚えない時期が続いていたのは、『それ』のせいだったのだろうか。
体が本当の意味で女性のものへと完全に変化する期間だったせいで、何か齟齬が起きていたのかもしれない。バインドを覚えた時点では外見だけの変化で、まだそこまで馴染む前。
そこからゆっくりと体が女性へと本当の意味で作り変えられ、今日、『それ』が訪れたことで、完成したと考えれば。
枯れた声でステータス、と呟いたオーリアスが、手の中に現れた銀のカードを見て柳眉を逆立てた。途端に弱弱しく潤んでいたその瞳に、普段どおりの強気な光が戻る。
「バカにしてんのか! ……もういやだ!」
ぼすっ、と布団に顔を埋めたオーリアスがカードを放り投げる。
「え、ちょ、ちょっとオーリ、どうしたんですか? ……カード、見ちゃいますよ?」
黙ったまま顔を布団に押し付けているオーリアスに、許可されたものと判断して銀色のカードを取り上げる。
「えっと……保有スキル『火よ凝れ』『巧みな縄』『無限倉庫』『惑わす呪言』『紡げ恋物語』……一気に増えましたねぇ」
それも全部補助系の、という言葉を飲み込んだ。見事に補助系。あえていうなら『惑わす呪言』は戦闘用だが、これは敵にというよりも自分に対する嫌がらせのような気がする。バインドよりも大変だ。こんなに使用が難しいスキルがあるなんて、と妙な感心をしながら、他のスキルも詳しく見ていく。
「攻撃スキルを寄越せー!」
くぐもった声で叫ばれて、好戦的だなぁと吹き出した。外見は落ち着いているように見えるのだが、わりと肉体言語でお話するタイプなのだ、オーリアスは。
「いいじゃないですか。いまのところ、どんな魔物でも撲殺できてますし」
黙ったままのオーリアスの背中は、ほかほかと温かくて気持ちがいい。やさしく何度も撫でていると、またしゃくりあげる声が聞えてきた。
「……おれ、情けないよな、こんなの、すげーかっこ悪い……バカみたいだ……」
涙声で嗚咽交じりに呟かれた言葉に、首を振る。
「そんなことありません」
投げ出されたオーリアスの右手をそっと握った。マリエルの手のひらよりも、ずっと硬い。剣を握って、杖を握って、たくさん肉刺を作って、作っては潰して。
男だろうと女だろうと、オーリアスがやってきたことがそのまま現れた手だ。
「オーリは我慢しすぎたんですよ。仕方ないなんて思わずに、八つ当たりすればよかったんです」
嫌だって叫んで力いっぱい暴れればよかったんです、と断言すると、そんなことしたってしょうがないだろ、と呟かれたのでそれが悪いんだと言い聞かせた。
「人を全力で殴ったりとか、それはやめておいたほうがいいと思いますけど」
破裂死しかねないので、それはやめたほうがいいとは思うが、迷宮の中で破壊の限りをつくすくらいならしてもよかったはずだ。どうせ迷宮週間に入ったら跡形もなくきれいになってしまうのだから、思う存分八つ当たりすればよかったのだ。今からだって遅くない。
何が祝福だ、ばかやろーと叫んで大暴れすればいい。
「それにね、オーリは格好いいです。世界一格好いいと思うのは姉上たちですけど、オーリはその次くらいには格好いいです」
「……二番目なのか」
「ふふ、そうです。二番目に格好いいですよ」
にばんめ、と繰り返したオーリアスは、少しだけ笑ったようだった。
「マリエル」
「はい」
「……ありがとう」
その声になんだか胸が詰まって、マリエルは黙って頷いた。
部屋の中には、魔女がすすり泣く声だけが響いている。