32、手を繋いでよ、ガール 1
「……はあっ、はっ……!」
マリエルは寮の自分の部屋へと全力で走っていた。
走りながら、後悔を噛み締めていた。
こんな日が来るんじゃないかと思っていたのだ。だったら、嫌な顔をさせることになっても前もって言っておいたほうがよかったのではないか。
この間、というよりもずっと前から、自分は予感していたのに。きっとこんな日がくるのではないかと。それを妙な遠慮をして言わなかったせいで、泣かせることになってしまった。
あのオーリアスが。
オーガにさえ立ち向かい、一歩も引かないオーリアスが。
寮母に驚かれながら自分の部屋に駆け込んだマリエルは、箪笥の引き出しから小さな紙袋を取り出すと、踵を返してオーリアスのいる女子教員寮まで、また走り出した。オーガに追いかけられた時とはまた違う必死さで、歯を食いしばって。
グレゴリーが珍生物を生み出してから、何事もなく数日が過ぎた。
呼び出されたグレゴリーだが、意図してやったわけではないということを考慮され、水薬作りの心得をこんこんと説教されただけですんだらしい。それよりもカロニアのグレゴリーに対する態度が激悪なものになってしまい、そっちの方が問題だった。オーリアスとマリエルには好意をもってくれたらしく、いままでのつんつんした感じから、気軽に接してくれるようになったのだが、グレゴリーを前にすると山猫の如く全身で拒絶する。その度に必死に周囲総出で宥めるので、クラス内には妙な結束ができていて、一部のパーティを除けばクラスの雰囲気は悪くなかった。怪我の功名という奴だろうか。
グレゴリーはひどく落ち込んでいるが、これはもう自業自得として諦めるしかない。
本日、三人は順調に迷宮に潜り、22階に来ていた。
ぼぼっと吹き出された直線的な炎を身軽く避けたオーリアスが、ひゅんと杖を横に薙ぐ。
その一撃で壁際まで吹き飛ばされた殺し屋蝋燭は、小さな爆発を起こして息絶えた。煤交じりの煙があがる中、光の粒子が弾ける。
一本線で描かれたような顔のついた50シムくらいの巨大蝋燭は、一定量損傷すると攻撃した相手を巻き込んで自爆するべく、胴体からにょっきり飛び出た細い手足で駆け寄ってくるので、下手に攻撃できない。風の斬撃を飛ばすと激しく燃えて危ないので、マリエルは後方待機で側に来たら軽く斬りかかるくらいで抑えている。
グレゴリーが飛びかかってくるキラーキャンドルを巨大な盾でぽんぽん弾き飛ばし、その度に弾けるキラーキャンドルが花火のように宙を飛んでいった。
その後にぽろぽろ落ちているアイテムを拾い、一息つく。
「ま、今日はこんなもんか」
「ちょうど22階攻略できりがいいですしね」
「ワウ」
グレゴリーが最後に落ちていたアイテム『殺し屋蝋燭の右腕』を拾い、帰還の陣に入る。
オーリアスは、いつもと変わらないように見えた。元気に撲殺してなんだかんだと面倒見が良くて、時々子どもっぽい。
広間に帰還した三人は明日の予定を話しながら歩き出す。
同じように帰還してきた生徒達でいっぱいの広間から出たところで、ふとオーリアスが足を止めた。
「オーリ?」
見上げた先で、オーリアスの顔からすっと血の気が引く。
信じられないように見開かれたままの目、浅い呼吸。
グレゴリーは黙ったまま、尻尾だけを軽く動かしている。
マリエルは、無意識に笑顔を作っていた。何気ない動作でオーリアスに近寄り、その手を取る。
「グレゴリーくん、それじゃ一足先に帰りますね。明日また同じ時間に集合しましょう。何かあったら連絡しますね」
「ワウ」
真っ青になっているオーリアスが、強張った顔でマリエルを見下ろす。
「大丈夫です。オーリ、今どこに住んでるんですか」
周囲の目を引かないように笑顔のまま、小声で話しかける。歩き出すことを恐れるように硬直していたオーリアスが、そろそろと手を引かれるまま歩き出すが、心ここにあらずといった様子で歩き方がぎこちない。
「……女子、教員寮」
「一緒にいきます。大丈夫ですから、ゆっくり息をしてください」
教員寮に近づくにつれ、周囲に人がいなくなり、二人は黙ったままそろそろと歩いていた。
なんて声をかければいいのかわからないまま、教員寮までたどりついてしまい、マリエルは黙ったままのオーリアスを見上げる。
「オーリの部屋は、どこですか?」
「一番奥の角」
平坦な声で告げられ、思わず見上げたオーリアスの顔に息を呑んだ。
「待っててください。すぐに戻ってきますから」
そうしてマリエルは走り出した。必要なものを取りに自分の部屋へ。
息を荒げながら戻ってきたマリエルは女子教員寮の一番奥の角部屋の前まで来ると、息を整える間もなく部屋の扉を叩いた。
「オーリ、あの、わたしです、これ、使ってください」
閉じこもってしまったらどうしよう、と不安になっていると、僅かに扉が開いた。俯いているオーリアスの手を取って、持ってきた紙袋を渡す。
「着替えたら、呼んでください。浄化しますから」
渡した紙袋の中身は、いつぞや一緒にいった下着屋で買っておいた『女の子の日』用のものだ。
もしかしたらと思って買っておいたのだが、その時の自分を褒めてやりたい。
ぱたん、と扉が閉まる。
このまま締め出されるかもしれないと思いながら、マリエルは部屋の前に立っていた。
それならそれでいいのだ。一人になりたいなら、そうしておいたほうがいい。
でも、もし一人でいるのが心細いと思っているのなら、側にいてやりたかった。
部屋の前でぼんやりしながら、オーリアスのことを考える。
女の子になったオーリアスは不思議と女子生徒から人気があった。男子だった時もソロの剣士で硬派な感じがいいと好意的に見ていた女子が多かったが、今はもっと多い。
男子からすれば、思わず見てしまうような体つきの女子に見えるだろう。元が男だとかそういうことを抜きにすれば、十分魅力的に見えるはずだ。フォルティスなんてあからさまにオーリアスの胸に釘付けになっているし。
マリエル自身、あの胸にはちょっとした憧れを感じないでもない。
それなのに、見た目はどう見てもきれいな少女なのに、どこか違う匂いがする。
女そのものでもないし、かといって男でもない。
その不思議な匂いを、女子は『素敵』だと思うのかもしれない。
強くて格好良くて、自分が困っていたら助けてくれて、でも男じゃないから安心して触れ合える。見た目は女でも、態度や物言いには少年の匂いがして、男そのものよりもずっと身近で、親しみやすくて。
男子はどう思っているのだろう。グレゴリーは男子だけれど、びっくりするくらい素直で裏表がないから、普通の男子の思考とはちょっと違うはずだ。フォルティスはまだオーリアス自身をどうこうというわけではなさそうだから、よくわからない。それでも最初から忌避するような感じはなかったので、そこは好印象だった。
実習前のダニールたちのように思っている人たちもきっといるのだろう。オーリアスのことなんかよく知りもしないくせに、口さがないことを裏でこっそり言っている人たちが。
マリエル自身は元が男だとわかっていても、普段のオーリアスがあまりにも堂々としているので、もしかしたらあんまり気にしていないんじゃないかと思っていた。
下着だって一緒に買い行ったし、なんだかんだ黙ってなすがままになってくれたから、『女の子』に馴染んでいるんじゃないかと思っていた。でも、この間装備品を買いに行った時はっきりわかったのだ。
オーリアスは自分が女の体だということには馴染んだけれど、それを受け入れたわけではない。
自分の意識と周囲の扱いが違うこと、それを仕方ないと理解はしても、納得はしていない。
ある意味、物分りが良すぎるのだ。だから我慢して、しかたないと押さえ込んで、平気な顔をして過ごしている。時間が立てば気持ちも和らぐだろう。これからもっと女の体で過ごせばそれなりに意識も変わるかもしれない。
でも今はまだ、駄目なのだ。
それなのに、そんな精神状態の時に、よりによって女の証が訪れるなんて。
「あの……入っても、いいですか」
呼ばれないことに不安になって声をかけてみる。返事がないなら、そっとしておくつもりだった。
だが、中で何か声がしたので、そっと扉を開けてみる。鍵はかかっていなかったので簡単に開いた。
「……お邪魔します」
おそるおそる入った部屋の中は、ひどく殺風景だった。寝台に箪笥、壁に小さな鏡がかかっていて、あるものといえばそれだけだ。
寝台に寄りかかるようにして床に足を投げ出し、布団に顔を埋めているオーリアスに近寄る。
一体なんて言えばいいのだろう。
「あ、あの、さっき渡したのなんですけどね、あれ自動浄化がかかっていて、汚れてもすぐきれいにしてくれるんです。その上真珠綿が即吸収! それに素材が、オーリの装備してる『絶対領域守護布』と同じ上臈蜘蛛の糸で出来てて、通気性もいい上に守備力も上がるんです! 防水性もあるから横モレ後ろモレも無し! 安心安全の一品なんですよ!」
だから安心してごろごろできますよ、と力いっぱい叫んだマリエルは、沈黙だけが広がる部屋に俯いた。
慰めてあげたい。でも、何を言っていいのかわからない。
静かな部屋の中、窓から差し込む西日にオーリアスの長い髪が橙色に染まっている。
場違いな事にマリエルはそれをきれいだと思った。結わせてもらったことのある、羨ましいくらい手触りのいい長い髪。
「……で」
「オーリ?」
オーリアスの肩が震えている。
「……っで! なんでおれだけこんな目に会うんだよ! 誰が女にしてくれなんて頼んだんだよ! おれは剣士になりたかったんだ、魔女なんか知らない!」