25、図書室と魔女
紙の擦れる音が、しんとした空間に響く。
誰もいない図書室で真剣に文字を追っていたオーリアスは、きりのいいところで一旦読むのを止め、栞を挟むと息をついた。広々とした図書室には、一年生はおろか上級生達も一人もいない。皆迷宮に潜っているのだろう。
それにしても、本を読むのに胸が邪魔になるなんて想像したこともなかった。こうしてずっと本を読んでいると、胸の重みのせいでやけに肩がこるし、なんとなくだるい感じもする。風邪でも引きかけているのかもしれない。これを読んだら部屋に帰って早めに寝よう、と思う。
大きな机の上には今読んでいる本の他にもう3冊が積んである。読んでいたのは薄い、冊子のようなもので、残りの3冊は立派な本だ。相当の年数貸し出しがなかったようで、どちらもひどく古びて埃を被っていた。
詰まれた本の背表紙にはこう書かれている。
『ずっと魔女になりたくて』
『魔女という名のロマン』
『これであなたも立派な魔女に~今日からできる魔女術~』
大いに物申したい書名だった。魔女になってどうする。剣士になりたくてこの学園に入学したのだ。断じて魔女になるためではない。ロマンも感じていない。
しかし、今のところ魔女をやるしかないわけで、やる以上は、ちゃんとレベルを上げてスキルを身につけ、迷宮を踏破したいわけで。
相反する感情に苛まれながらも、やはり、現状では魔女をやるしかないとわかっているので、前向きに行きたいのだが、最近困ったことが起きていた。
この間、学園長室に呼ばれた。何事かと思ったら、実習で出現したオーガに対する謝罪とそれについての対応に感謝を示して何か褒美を与えたいという話で、学園長に、生徒達の命を救ってくれてありがとう、と頭を下げられた三人はあたふたしながらもそれを嬉しく受けた。別に褒美の為にがんばったわけではないが、がんばったね、ありがとうと言われると嬉しい。
そこで受け取った褒美は、足元に転がしてある。見た目は変わらない。マリエルと町に降りた時に新調した、握りこぶしよりも大きな鮮やかで不透明な赤い石のついた杖だ。褒美を貰ったことによって、危なくて立てかけられなくなってしまったのが、問題といえば問題だろうか。
マリエルとグレゴリーも、それぞれ新しい効果を発揮するようになった武器を持って喜んでいた。オーリアスも、撲殺の喜びにうっかり目覚めそうになるくらい、新しい杖を気に入った。
実習以降解禁された10階より下の階層も、新しい武器効果のおかげで今までの火力不足を補うことができ、順調に進めた。探索も捗り、順調にレベルの上がる日々。
ところが、ふと気づいたのだ。
バインド以来、新しいスキルを一つも覚えないということに。
マリエルもグレゴリーも新しいスキルを覚えた。マリエルは僧侶らしく、効果は低いがパーティ全体を回復する『等しく降る愛』 を覚えたし、グレゴリーは『挑発』を覚えた。
グレゴリーがこのスキルを使ったところ、場にいた子鬼蜂が全て、グレゴリーに向かってまっしぐらになってしまい、大慌てしたのは記憶に新しい。『見よ我を』を使った時には、既に戦闘中の魔物までグレゴリーに引きつけられるようなことはなかったのだが、プロボは劇薬のように魔物を引きつけた。なので、現在封印中スキルである。とはいえ、スキルを覚えたのは間違いない。
そんな中、なぜかスキルを一向に覚えない自分自身に、さすがに不安を覚えたオーリアスは、本日の探索を休ませてもらって図書室で調べ物をしているわけだ。
調べてわかったが、魔女というジョブ自体がなろうと思ってなれるものでもないらしい。一番多いのは女性の魔法職が、ある日突然ジョブ変更できるようになっていたというもので、残りは最初からジョブ選択できたパターン。オーリアスは強制変更されたのだから、どちらにも含まれない。
実践的な術や、スキルの使用法の書かれていた『これであなたも立派な魔女に~今日からできる魔女術~』によれば、レベルが上がれば上がるほど、一般の魔法職とは覚えるスキルが違ってくると書かれていたから、これ以上覚えないというわけではないらしい。
ただ、魔女というジョブは覚えるスキルが個人でそれぞれ大きく違ってくるらしく、自分にどんなスキルが備わるかはその時になってみないとわからないと記されていた。唯一、『火よ凝れ』はだけはどんな魔女も最初に覚えるらしい。
巻末にずらずらと記された、現在までに判明している古今東西の魔女スキルのイロモノぶりに目を疑うはめになったが、それは置いておく。
だが、『ずっと魔女になりたくて』、『魔女という名のロマン』、『これであなたも立派な魔女に~今日からできる魔女術~』のどれにも、スキルを覚えない時期があるとは書かれていなかった。これはオーリアスだけの症状なのだろうか。後から一気に覚えるのかもしれないが、周囲が皆覚えていく中、一人だけ何も覚えないというのも、つまらない。
「残りはこれだけか……」
思わず独り言がこぼれたが、他に誰も利用者がいないのでいいだろう。司書は奥の小部屋に引っ込んだまま出てこない。無用心だなと思いながら、薄い冊子の続きに取りかかる。
魔女関連で見つけることができた本はこの3冊と、薄い冊子だけだ。
読んでみてわかったが、これは本ではなく、三十年ほど前の卒業生の日記だった。どうして図書室に紛れているのかわからないが、巡り巡って、学園の蔵書になってしまったのだろうか。
他人の日記を読む後ろめたさと、ちょっとした覗き見的などきどきを感じつつ、読み進めていく。
この日記を書いた魔女は後天的に魔女になったようだ。僧侶から魔女になったという女子生徒は、日々の出来事を、毎日几帳面に綴っていた。
気になる男子の名前なども出てきて、オーリアスは若干の気恥ずかしさを覚えながらも、先輩魔女の日記を読む。
< やっとファイア以外の攻撃スキルを覚えたわ。それはよかったんだけど、『蹴ってあげる』って何なのよ。あたしそんな野蛮じゃないもん。恥ずかしくてケビンの前じゃ使えないわ。でも使わないわけにはいかないし、やっぱり体術も覚えなきゃダメなのかなぁ。明日武道場にいってみよう >
< 新しくスキルを覚えて1週間経ったけど、どうしよう、あたしってもしかしてそういう趣味なのかも。最近、スキルを使うのが楽しくてしょうがない。今日ゴブリンを蹴った時なんてたまらなくぞくぞくしちゃった。心なしか、蹴られたゴブリンも恍惚としてたような気もするし。ケビンは怯えてたけど、怯えた顔が可愛かった。ああ、蹴ったらどんな顔するのかな……なんてね >
その件を読んだオーリアスは、かわいそうなケビンに黙祷を捧げた。
先輩魔女はケビンという男子生徒が好きらしく、日記は殆どがケビンについてで埋められ、肝心のスキルのことは殆ど書かれていない。
どうやらケビンはかなりひ弱で、大人しい性格のようで、守って上げたい、抱きしめたい、抓ってみたい、蹴ってみたい、泣かせてみたい、今日はゴブリンから庇ってあげた等々、先輩魔女の告白がしばらく続く。
< そういえば、図書室に幽霊が出るって皆が噂してる。わたしはそういうの苦手なんだけど、でもケビンはわたしよりも怖がっていたわ。こっそり見てたら、何回もちらちら絵の方を見てたもの。それに、話が出た時、ぎょっとしてたし。大丈夫、幽霊が出たらわたしが蹴ってあげるからね、ケビン >
反射的に顔を上げて辺りを見渡した。
見渡す限りの本に囲まれた図書室は、しんと静まり返っている。おかしな気配はないが、司書はまだ出てこない。古びた紙の独特の匂いが薄く漂う部屋の中に、かすかな衣擦れの音だけが響く。
「……貸し出し、してもらおう」
特に幽霊が苦手なわけではないが、別に得意なわけでもないのだ。
誰もいない図書室で、図書室に幽霊が出るなんて書かれた本を読むのは、なんだかちょっと怖い。
残りは自室で読むことにして、そっと冊子を閉じる。後少しだが、貸し出ししてもらって持ち帰ろう。
そう思って立ち上がろうとした時だった。
がちゃり、と背後で大きく響いた音にぎょっとして振り返る。
何のことはなく、単に扉を開けた音だったのだが、振り返った先にいたのがオルデンだったので、ぎょっとした反動で安心すると同時に、少々鬱陶しい気持ちになった。
オルデンも過剰反応したオーリアスを、ぎょっとした顔で見ていた。珍しく取巻きを連れていない。
「なんだ……おまえか」
びっくりさせるなよ、と呟くと、オルデンの顔が険悪に歪む。
「調子にのるなよ」
つかつかと近づいてきたオルデンが吐き捨てるように言い放つ。
「オーガを足止めしたくらいで、いい気になるな」
押し殺した声でそう告げられたオーリアスは、呆気にとられてオルデンを見上げた。
いい気になるもなにも、一体自分が何をしたというのか。
呆れた気持ちが顔に出たのだろう。オルデンが顔を赤く染める。神経質そうな顔がこれ以上ないほど険悪になり、拳がぶるぶる震えている。
「平民風情がっ……!」
やるつもりか、と椅子に座ったままのオーリアスは軽く腰を浮かせて応戦できるようにしたが、さすがに図書室で乱闘を始めない分別はあったらしい。
代わりに、オルデンは無防備に床においてあった杖に向かって足を振り上げた。
「おいっ、それは」
慌ててとめに入ったオーリアスに嘲笑を浮かべ、がつん、と床に置かれていた杖を蹴りつけたオルデンが、呻き声をあげてしゃがみこむ。
「あのな……それ『重すぎる手』がかかってるから」
褒美として武器に付与魔法をかけてもらったのだ。常々、杖が軽すぎると思っていたオーリアスには実に手ごろな重さになって、使い心地が格段に上がった。
『重すぎる手』をかけてくれた付与術師は、グラビのかかった杖をぶんぶん振り回すオーリアスに唖然としていたが。
その杖を思い切り蹴ったのだから、自業自得とはいえ、確実に足の指を痛めているはずだ。
「おい、大丈夫か? ……歩けないなら、背負ってやるけど」
反応はなかった。
それもそうだろうな、と思う。どんな理由であれ、殴られた方は殴った奴のことをいつまでも忘れないものだ。そんな相手に背負われるなんて、特にオルデンのような性格では受け入れられないに違いない。
「今、オルテンシア先生呼んでくる」
救護の教師を呼んでこようと背中を向けたオーリアスは、後ろから肩の辺りを思い切り殴られて、思わず体勢を崩してよろけた。
「ってぇな! このやろうっ……」
さすがにかっとして勢いよく振り返ったオーリアスの横を、俯いたオルデンが左足を引きずりながら入り口めがけて足早に通り過ぎる。
「おいっ」
そのまま出て行ったオルデンの消えた背中に、怒りが萎んでいった。ずきずきと殴られた場所が痛み、怒りよりも空しさの方が強くなる。
本当なら、オーリアスとしてはオルデンたちに関わりたくない。関われば関わるだけ不愉快な思いをすることは目に見えている。それに、今は一人ではない。マリエルとグレゴリーという大事なパーティメンバーもいる。二人に何かあったら絶対に許さない。しかし、一番最初に手を出したのはオーリアスだという引け目もあるのだ。
「あいつ、何しにきたんだ」
入ってきたかとかと思えば出て行ったオルデンに首を傾げつつ、とにかく貸し出し手続きをしてもらおうと机の上に目をやって。
「……え」
なかった。
今の今まで読んでいた冊子が、机の上にない。他の3冊はある。でも、目の前にあったはずの冊子だけが、どこにも見当たらなかった。
今の騒ぎにどこかに飛ばしてしまったかと机の下を覗きこむが、見当たらない。
困惑して辺りを見回すオーリアスの耳に、ふいにひんやりとした吐息が吹き込まれた。ぞわりと全身が総毛立ち、冷たいものが背筋を走り抜ける。
同時に、誰もいない図書室に小さな笑い声が響く。
くすくす、くすくす。
うふふ、あはは。
司書の篭っている小部屋の扉。
ちょうどその上。
夜の森を描いた絵が掛けられている。
青褪めた顔で固まっているオーリアスの知らないところで、冊子は音もなく絵の中に吸い込まれて消えた。
怯える新米魔女の耳元に、もう一度笑い声を残して。