18、レース、花柄、あるいは縞々、そしてポーションへ
鏡に映る自分の顔は、どこかまだ見慣れない。
頑固そうな眉、切れ長の目、引き結ばれた口元。
真っ直ぐな鼻梁、左の目元にある小さな黒子。
顔の形や、頬の辺りの曲線は男だった時にはもっと硬かったはずだ。肌の質感も男の時とは違う。
ただ、どれも部分としては見覚えがあるので、ひどい違和感は感じなかった。つまり、この身体はとんでもないことになってはいるが、元々のオーリアスを下敷きにしているのだ。
女として生まれていたらこうだったということなのかもしれない。だが、たとえどうであれ、オーリアスは16までずっと男だったし、これから先もその予定だった。
それなのに。
身長よりも大きな鏡が据えつけられた試着室の中で、なぜ今、自分は妙齢の女性の手によって胸囲を測られているのか?
「はい、背筋を伸ばして……はい、そんな感じです……じゃあ、最後にトップを測りますねぇ」
今にも顔が触れそうに、個室できれいなお姉さんと密着しているのに、全く、これっぽっちも、微塵もときめかない。ふんわりいい香りがしても全然嬉しくない。
鏡に映る、薄いひらひらしたチュニックを着せられて店員のお姉さんに胸囲を測られている自分の顔は、まるで浜に打ち上げられた魚のようだった。海に行ったことはないが、子どもの頃図鑑で見た、あの空ろで悲しげな魚の目。あの目にそっくりだ。
「はい、お疲れ様です。着替えていただいて結構ですよ」
「……ありがとうございました」
どんなに空ろな気持ちでも、お姉さんは悪くない。信念に従ってお礼を言うと、お姉さんは感じのいい、きっと以前に出会っていたら確実にときめいただろう笑顔を見せてくれた。しかし、今のオーリアスにはときめく心の余裕などない。
もそもそと上着を羽織り、試着室から出るとマリエルが冒険者風の女性と盛り上がっていた。
「あ、オーリ! サイズわかりました?」
「……たぶん」
「顔色悪いよー、君、大丈夫?」
「……たぶん」
マリエルと話していた女性はマルグリットといい、ギルドに所属しているというちゃんとした冒険者だった。
栗色の髪を編みこんだ活発そうなマルグリットは、その大きさなら下着はちゃんと選ばないとねーと笑い、店員のお姉さんと一緒に、これがお薦めだとオーリアスの前にずらりと色とりどりの下着を並べてくれた。
ぼうっと突っ立っているオーリアスの周囲は一面、レースとか花柄とか縞々とか、こう、男からするとにやにやしたり、眩しかったり、しみじみ見たりしたくなるもので溢れかえっているが、実のところ、下着自体を忌避する気持ちはそんなに無い。こういうものに囲まれてはしゃいでいる女の子を可愛いと思う気持ちもあるし、それなりに見慣れている。
何せ一緒に暮らしていた叔母は、服や下着を買ってくると、着替えて「どお?」と見せにくる人だったし。
問題なのは、これらを着用するのが自分だという葛藤なわけで。
「ね、これどうですか? 今、冒険者の女性の間で流行ってるそうですよ」
「……へー」
「後、これもあんまり派手じゃないし、可愛いです」
「あ、それ今人気なんですよ。サイズ展開も豊富ですし、この、ちょっとだけついたレースが可愛いでしょう?」
「レースも可愛いし、色も可愛いね、このピンクとか」
「こちらの方は雰囲気が大人っぽいから、こちらの淡い緑なんかもお似合いだと思いますよ」
「似合いそう! オーリ、これ試着してみてください!」
「こちらのシリーズは若い方に人気です。小花柄で肩紐のところが、こんなふうに」
「ふぅん、見せても大丈夫なんだ」
「はい。むしろ、見せていただいて、お洋服のアクセントにしていただければ」
「いいなぁこれ……でも、これだとちょっと頼りないかな……」
ちらりとマリエルの視線がオーリアスの胸に向けられる。
「そうですねぇ、こちらの方くらいのサイズですと、あ、これなんかどうでしょう?」
「縞々!」
「ええ。上下お揃いで、シンプルだけど可愛いですよ。紺と白の細縞が人気です」
「オーリ、これも」
店員のお姉さんとマリエルとなぜか冒険者のマルグリットさんまで加わって、ああでもないこうでもないと熱く盛り上がっているが、それを着けなければいけないオーリアスは一切、会話に参加していない。
人形よろしく服の上から下着を当てられ、これがいいあれがいいときゃっきゃと楽しそうな三人を、死んだ魚の目で見下ろしていただけだ。
そして問答無用で試着させられた挙句、試着室の薄布を無断でご開帳され、なぜか三人におおはしゃぎされただけだ。
それでも、動きやすさ重視で選んでくれているあたり、マリエルの良心を感じないでもなかった。
最終的に、冒険者のマルグリットさんお薦めの『動いても揺れない』を売りにしているものを黒と灰色の2枚ずつ、よく似合うからどうしてもと懇願されて、淡い緑のレース系と売れ筋だという紺の細縞の上下セットを購入して会計を済ませた時には、もはや干物のようになっていた。
折角だから今着けて下さいとせっつかれ、悟りを開く手前の修行僧のような穏やかな気持ちで試着室に入り、鏡を見ないようにして着用する。先ほど教え込まれた、正しい着け方とやらを実践しながら。
マリエルも何か買っていたようだが、視線を逸らしていたので何かは知らない。ただ、完全に男だと思われていないということは実感した。
「どうですか? 着け心地は」
店を出て、武器屋に向かっててくてく歩いている最中、きらきらした緑色の目に見上げられ、悲しみをそっと青い空に流して頷く。
恥ずかしさといたたまれなさに目を瞑れば、その着用感は正直、サラシとは比べ物にならない。
黒と灰色の方は、いかにもな下着ではなくて、上からすぽんと被るタイプだったので男心にもやさしいし。
「大きいと大変だよねー。私もパーティメンバーに君と同じくらいのサイズの子がいてさー、いつもいい下着ないかって探してんの。ね、二人とも学園生なんだよね?」
マリエルと意気投合したらしいマルグリットは、この通りの近くにあるギルドに行くということで、一緒にてくてく歩いている。
「マルグリットさんは卒業生なんですか?」
「そうそう。今は火蜥蜴の舌っていうギルドに所属してるから、用事があれば指名してよ。お安くしとくから」
朗らかなマルグリットはにこにこしながら話していたが、そういえば、と前置きすると、少々もったいぶって、思わせぶりに二人を見た。
「ねえ、二人とも……美味しいポーションて知ってる?」
「美味しいポーション?」
そんなものあるのか、と思わずオーリアスは聞き返していた。
ポーションといえば不味い、不味いといえばポーション、というのが常識だ。マリエルも知らなかったらしく、目をまん丸にしている。
美味しいポーションなんて、伝説だ。眉唾だ。露天で売られているぼったくりの偽物だ。
かの高名な冒険者、難攻不落と謳われた地底迷宮から数多の宝物を持って生還したタルジュ・タルシュさえ『美味いポーションさえあれば、わたしの冒険はどんなにか楽になったことだろう』と書き残しているくらいなのだから。
罰ゲームでポーション三本一気飲みなんてさせられた日にはその日一日立ち直れない。
いままで何人の学生たちがポーションに挑み、あえなく撃沈していったことか。
あまりにも不味いと言われると逆に気になってくる心理のおかげで、オーリアスもマリエルも例に漏れず、迷宮内で飛び上がったことがある。
本当は戦闘前に飲んで使用すると戦闘中負った傷を効果分自動で回復してくれるので、そっちの方がいい。
しかし、不味すぎてよほどのことがなければその方法は使えない。
結果として、傷口にぶっかける方式が一般的である。
それなのに、美味しいポーションだなんて。
「やだなぁ、マルグリットさん。そんなのあるわけないじゃないですかぁ」
「あるなら飲んでみたいけど」
冗談言っちゃってこのお姉さんは、というノリで笑った二人に、マルグリットは意味深に微笑んだ。
「いいんだよー? 信じなくたって。あそこのポーションを飲んだらもう普通のポーションに戻れないしねー」
実を言うと、昨日纏め買いしたんだと笑うマルグリットに、まさかそんな、と手に持ったかわいらしい紙袋のもち手を握り締める。
そんなもの、そんなものあるわけない。
「ほんとは教えたくないんだけどぉ、後輩だし、二人ともなんか気に入っちゃったし、特別」
懐から小さな紙片を取り出すと、はい、とマリエルに手渡す。
あの店のアレはもうポーションじゃない、普通の飲み物だと力説したマルグリットは、秘密だからね、と片目を瞑って、ギルドへと颯爽と歩いて行った。
残された二人は顔を見合わせ、どちらからともなく歩き出した。
「オーリったら信じてるんですか?」
「マリエルこそ、あんな話信じてるのか」
「ですよね、美味しいポーションなんて」
「ないない、あるわけないだろ」
無言で数歩歩いた二人が石畳の上、立ち止まる。
「あら、どうしたんですかオーリ。武器屋、通り過ぎちゃいましたよ」
「マリエルこそどうしたんだ、そんなところに立ち止まって」
晴れた空の下、通行人の皆様の視線を浴びながら、撲殺魔女は惨殺僧侶を見下ろした。惨殺僧侶は撲殺魔女を見上げる。
そして互いの目の中にゆらりと揺れる情熱の炎を確認した二人は、重々しく頷くと、いっせいに裏通りを駆け出した。
あんな話を聞いて、行かないという選択肢があろうか。
いや、無い。
行こう! 美味しいポーションを探しに!