94、早朝、そして昨日の断片
オルテンシアはそっと少女の手首に触れ、弱いながらも乱れなく脈打つ感触を確かめた。
目を覚まさないままの生徒の横について、とうとう夜が明けたらしい。まだ部屋の中は明るいとは言えないが、どことなく室内には薄ぼんやりとした朝の気配が感じられる。
寝台の上に横たわる少女の手を毛布の中に戻してやり、眠気を振り払いながら、少女を様子を観察する。昨夜と変わったところは見られない。確かに脈は弱いが、乱れなくきちんと打っているし、どこか痛めている様子もない。だが、少女は目を覚まさないままだ。
「オルテンシア」
扉を叩く軽い音と名前を呼ぶ声に、救護教諭は立ち上がって扉を開けた。
「おはよう、リュシー」
「おはよう。交代よ」
まだ夜が明けて間もない時間だというのに、同僚の符術士はきちんと髪をまとめ、動作もきびきびしていて早朝だということを感じさせない。
「どう? 何か変化はあった?」
「変わらないわ。ずっとこのまま……あの二人の方はどう? 少しは眠れたみたい?」
「ついさっき、やっとうとうとし始めたところ。あちらはフレイアがついているから、心配しなくていいと思う」
「折角の聖誕祭だったのに、こんなことになるなんてね……」
「何事もなければ、この子たちの楽しい出し物で、昨日の夕食はもっと素敵なものになったことでしょうに」
目を覚まさない少女のパーティメンバーから聞きだした昨日の出来事。
ただ寝ているだけのようで、何かが違う少女を見つめた二人の教師は、どちらからともなく憂いを帯びた吐息を吐き出した。
魔法使い少女三人組パーティ、人呼んで『滅殺魔法少女』は、昨日の昼、来るべき夜に向けて、練習に励んでいた。夕食時に、食堂でちょっとした出し物をする予定なのだ。
聖誕祭の夜を楽しんでもらおうと三人は気合充分で練習に励んでいた。
こっそり練習するには、誰にも見られない練習場が必要だったが、それは普段の行いがものをいった。三人とも魔法職だけあって充分魔力の扱いに長けていたし、素行も悪くない。おかげで、誰にも見られないように練習したいから、と第一講堂の使用許可を貰うことができたのだ。
食堂の職員にも話を通して、三人が出し物をする時には、灯りを落としてもらえる手はずもつけている。後は本番で失敗しないように練習するだけ。
今年の学園祭でも魔法を使ったちょっとしたショーをやったのだが、それがなかなか好評だった。今回はそれに聖誕祭用のひねりを加えたものになっている。
火と氷と光。それぞれ得意な魔法を組み合わせて、きれいな光の花を宙に咲かせるのだ。そこに創世神話のエピソードにちなんだ小技を絡めて、きっと皆に楽しんでもらえるはずだ。
何度も繰り返して、互いの呼吸を合わせる。タイミングがずれると、美しい花にはならないので、くり返し練習する。
そうして、一休みしている時に、氷系統が得意な少女が見たことのないポーションを取り出した。
「ミアちゃん、それなぁに?」
「んー?」
「なんかそれちょっと気持ち悪い色してない?」
「そうかな? ちょうど魔力も減ったし、使ってみようと思うんだけど」
暖かい日差しが差し込む第一講堂の舞台の上に座り、足を伸ばしてくつろぐ。三人以外誰もいない、広々とした空間が気持ちいい。
長い髪を二つに分けて結んでいるミアは、指で摘んだ小瓶を揺らし、二人に笑った。
「これ、試供品なんだー。こないだ町に降りたらさ、なんかすっごい格好いいお兄さんが露天出しててね、これ新商品の回復ポーションなんだけど、よければ使って使用感を教えてほしいって」
「えー、大丈夫なの? すっごいまずそうだけど……」
「ミアちゃん、お腹壊したりしない?」
ざっくりと耳元で黒髪を切りそろえたリルが胡散臭そうな顔をし、ふわふわのやわらかい茶色の髪を肩の辺りまで伸ばしているレオーネが心配そうにミアを覗き込む。液状の薬剤を総じてポーションというが、ポーションとはどんなものであれ、すべからく不味いものだ。それも物凄く。だから、大抵の場合、使用者はポーションを自分にぶっかけることでその効果を得ている。にも関わらずリルとレオーネが、ミアがそれを飲むと疑っていないのには理由があった。
「美味しそうだと思うんだけどなー」
「そんなこと思うのあんただけ」
「……わたし、外傷は治せるけど……お腹壊したのは治せないよ……?」
「大丈夫だよぉ、おいしそうでしょ? ね? ね?」
「ごめんね、ミアちゃん……」
「レネ、素直に言っていいよ、まずそうだって」
ミアは、大抵の人が撃沈してのたうつことになる初級ポーションを、ぐびぐび美味しく飲み干すことのできる、稀に見る舌の持ち主なのだ。
「あの、ほんとに飲んでも大丈夫かな、お腹……」
「大丈夫だってー。あたしお腹強いもん」
「……アタシもレネもやられたのに、あんただけ平気だったよね、あのお菓子……」
夏場うっかり部屋に置いたままだった焼き菓子を、食欲に負けて、つい三人で貪った挙句、その内二人が救護室に直行するはめになった出来事を思い出し、リルがうんざりと髪をかきあげる。
「変な匂いしなかったし、大丈夫だと思ったんだけど……恥ずかしいな」
「お姫様なのに、食い意地はってるからねー、レネは」
へにゃりと眉を下げて、恥ずかしそうに笑ったレオーネに和んだ二人は、えいえいとそのふっくらしたほっぺたをつついた。
「ま、一人だけ無事なミアがおかしいんだよ。間違いない」
「えー」
「ポーション美味しいって時点で普通じゃないし」
「えへ、凄い? あたし凄い?」
「褒めてないし!」
きゃいきゃいしているミアとリルをにこにこ見ていた光魔法が得意なレオーネだが、やはり心配になってもう一度声をかけた。
「ミアちゃん、ほんとに大丈夫? なんか……すごい色だし……」
「いきなりぐびぐび飲まないで、最初は一口だけ味見しなさいよ」
「リルやっさしー! レネはいつも天使だけど!」
「うっさい、飲むなら早く飲め!」
「はいはーい、いただきまーす」
何ともいえない不吉な色をした小瓶の中身に、リルとレオーネは不安を感じたが、それはあくまでポーションが不味すぎてお腹を壊すんじゃないだろうかという心配で、それ以上のものではなかった。
「……ん、美味しい! これ美味しいよ!」
「あんたが美味しいってことは不味いってことか……わかってたけど」
見守る二人の前で、景気よく小瓶の中身が飲み干されていく。
「魔力はどう?」
「……これ、すっごい。全快した。今使っちゃったの、もったいなかったかも」
効果の高いポーション類は、総じてお高い。だが、効果の程度がわからないものをいきなり実践では使えないので、お試しは必須だ。
「今度の休みに買いにいこーっと」
「効果高くて安いなら、まあ、買いだよね」
「じゃ、元気よく練習の続きいきますか!」
リルとレオーネの二人もそれぞれ、魔力回復ポーションを使い、減った魔力を回復したところで、先程までと同じように練習が始まった。
「じゃあ、行くよー!」
心なしか赤い顔をしたミアが元気よく叫び、スキルを発動したところで異変は起きた。
「ミア?」
「どうしたの?」
「……あ、れ?」
「ミア!?」
「あれ? あれ?」
周囲の空気が震えていた。ミアの手元に集まってくる魔力の大きさに、リルとレオーネはぎょっとする。
「な、何してんの!? そんな大技いらないよ!」
「あ、あたし、いつもと同じ技を使おうとしたのに、だめ、止まらない、の」
「ミアちゃん落ち着いて、スキル解除して!」
ミアの手元に集まっている魔力は、恐ろしいほどのものになっていた。元々魔力量は多い方だが、どう考えてもミア一人だけの量ではない。
「……えっ!?」
気がついた時には遅かった。
「魔力が、吸い取られてる……!?」
ずるずると見えない何かに吸われでもしているかのように、二人の魔力が外に溢れ、巨大な魔力球の一部になっていく。
「ミア! ミア止めて!」
「ミアちゃん!」
穏やかな昼下がりの午後、やわらかい光が射す講堂の中に大量の魔力が渦を巻き、一点に収束していく。
「どうしよ、これ、と、止まんないよぉ……!」
魔力の色は、人それぞれ違う。氷魔法が得意なミアらしい水色の魔力に、リルの朱色、レネの淡い黄色の魔力が混ざりあい、どろりと濁っていくのに少女たちは悲鳴を上げたが、魔力の異常な動きは依然続いていた。
回復させたばかりの魔力を全て吸い上げられ、がくりと膝をついたリルとレネが呆然と見上げた先、立ち尽くしたままのミアは、血の気の引いた顔を引き攣らせ、視線だけを二人に向けた。
「あ、あた、あたしっ……」
か細いその声に被せるように、ぞぞ、と講堂の壁が震え、ふつふつとその表面が粟立ち始める。
「み、ミアっ」
「ひっ……!?」
「あ、あ……」
万物には魔力が宿っている。人にも、獣にも、道端の花にも、石ころにも。
三人の目の前で、それが証明されていた。
壁が『吸い取られて』いた。正確には、講堂を構成する素材自体に含まれている魔力が。
「い、いや、いやぁ……」
泣きながらいやいやと首を振ったミアは、なすすべもなく、みるみる巨大になっていく魔力球に震えていた。
「たす、けて」
呆然としていた二人の目が、ミアの助けを求める声を聞いて焦点を定める。
「ミア! 解除できないなら、そのまま発射して!」
「落ち着いて、ゆっくり息して、ね?」
こんなもの、ただの学生魔法使いがどうにかできるものではない。下手に押さえ込んで、このまま周囲の魔力を吸収し続けたらどうなるか。限界まで押さえ込んだ後は、弾けるだけだ。
ぞっとする未来は、もうすぐそこだ。確実に、辺り一体を巻き込んで大爆発を起こすだろう。それなら、スキルを使ってそのまま魔力を消費するしかない。正しい選択をするために、教師を呼びにいく暇もなかった。
その時、学園が壊れるとか、巻き込まれて誰か怪我を、もしかしたら死ぬかもしれないということは、その方法を指示した二人には全く思い浮かばなかった。このままこの状態が続けば、目の前で助けを求めている友人が死んでしまうのではないかと恐怖が二人に無謀な選択を選ばせたが、恐慌状態に陥っていたミアにとって、どうするべきかを示されたことは僥倖だった。
「上、上向ける?!」
「……だ、め、うごけな」
身じろぎするだけで、びりびりと今にも破裂しそうな魔力の塊が震える。
「ミア!」
「ミアちゃん!」
友人達の悲鳴に支えられるように、少女の口から消え入りそうな言葉が紡がれる。
「氷の飛礫」
そして、轟音をたてて氷の塊があふれ出した。
「……ねぇ」
そろそろ本格的に外が明るくなってきた。窓に引いた布越しの光が、少女の頬にやわらかな陰影を浮かばせている。
「なに? そういえば、あなたも大丈夫なの? 昨日の夜なんだか変だって言ってたし」
「大丈夫よ、なんだかちょっと記憶が飛んでるような気がしただけ。疲れてたせいね。わたしはいいんだけど、ちょっと気になってることがあって」
「気になってること?」
「まだちゃんとした事情聴取はできてないのよね?」
「そうね、罠士パーティの二人とは話せたけど、泡に巻き込まれた人たちからは、ざっとした聞き取りをしたくらい。何せ、中々ちゃんと起きてくれなくって、なんとか大まかなことを聞くのがやっとだったし。あの泡、ちょっと凄いわね」
「そう、それ。もこもこくん……あの泡なんだけど」
リュシーがふふっと笑った。
「あの子達は本当に色んなことを引き起こすんだから。去年もあったわよね、大騒ぎ」
「ああ、もちもちくん事件ね……って、そうじゃなくて!」
オルテンシアは、きっと隈ができているだろう目元を押さえ、小さな不安の塊を舌の上に乗せた。
「……じゃあ、ポーションについて詳しいことはわからないのよね」
ポーションといってもピンきりあるが、中には独自に作られた怪しいものも存在する。
「まぁ、もこもこくんの方は、複合的な要因の結果かもしれないわ。罠の作成を失敗したとも言っていたし……でも、気になるのよ。どっちにもポーションが関わってるなんて」
「……意図的なものじゃないかと思ってるの?」
「そこまでは、言わないわ」
そこまでは、断言できない。ポーションを使うタイミングなんて人それぞれだし、ミアのように飲んでしまうものもいるのだから、誰がどういうタイミングでどういう使い方をするかなんてわかりっこない。だから、昨日の出来事は、恐らく偶々重なってしまったのだろうとは思う。
「オルテンシア、少し寝てきたほうがいいわ。どうせ詳しい話は朝の会議でやるんだし。泡と氷もまだ片付いてない。やることはたくさんあるんだから、頭をすっきりさせておかないと。入れ替わり現象のことだってあるんだし」
「……ええ」
全てはちゃんとした聞き取りが終わってからだ。
一晩でやけに凝った肩を押さえ、横たわったままの少女を見下ろす。
少女はまだ、目覚めない。




