番外、 掴んだ糸の先にあるもの
「聞きたいことがあるの」
しんと静かな部屋の中に、硬い女の声が響いた。
後ろ手に閉めた扉が、音もなくあるべき場所へ収まる。
今頃、食堂では生徒達が聖誕祭用の料理に舌鼓を打ち、楽しんでいることだろう。色々あったので普段よりも随分遅い時間の夕食になってしまったが、そういうことが案外楽しかったりするものだ。
小皿の上に乗せられた小さな光石だけが、闇の中に沈んでいこうとしているこの部屋に、うるんだ光を浮かばせていた。
ぼやけた書架の輪郭、古く乾いた紙の匂い。生徒が使う為の机、椅子。
幾つも重なり合う書架の奥。
そこにはこの部屋の主が、凝った闇のように司書用の机に腰掛けている。
疲れきった上に凍えてお腹も空いて、氷の山と格闘していた生徒と教師たちは、なんとか二、三日中には片付け終われるという目途をつけたところで解散した。気づけば辺りは真っ暗、辺りには氷の山、いくら暖房用の装置があっても辛い。
解散を決め、いそいそと食事を取りに食堂へ向かう人波から逸れ、オルテンシアはひとり、救護室へ戻った。廊下に溢れていた泡と氷は半分ほど片付けられ、何とか通路としての役割を取り戻していた。
救護室自体がひどく破壊されていたらどうしようと思っていたが、案外大丈夫そうだ。あのもっちりとした泡が氷の衝撃を受け止めてくれたおかげだろうか。
それでも皹の入ってしまった救護室の扉を、気をつけながら押し開ける。壁に設置された光石が、普段と変わりない部屋の様子を照らしていて、ほっとした。本当なら、部屋を出る時には施錠しなければならないのだが、そんな暇がなかったし、その後も倒れた生徒の手当てに付ききりで、戻ってくる暇がなかった。出来る限りの手当てはしたが何があるかわからないので、教員寮へと運ばれた生徒には、今夜は交代で教師がつくことになっている。
「よかった……」
出て行った時のまま、机の上に重ねられている本を確認して、椅子を引くと安心して腰を下ろす。本当なら持ち出し禁止の、存在自体無いものとして扱われている、いわゆる『禁書』の類も借りてきたので、紛失するわけにはいかなかったのだ。それ自体に保護の魔法がかかっているし、司書には印をつけた本がどこにあるかを確認するスキルもあるらしいから、大丈夫だとは思っていたが、借りたものはきちんと自分で返したい。
それに、今夜中になるべく目を通しておきたかった。泡だの氷だので大騒ぎだったので、精神が入れ替わるという不可思議な現象はまだ解決できていないのだ。解決、というか、どうなるかという目途はついているのだが、確信は持てなかった。
それでも、入れ替わっているのが顔見知り同士ということもあって、混乱が最小限に抑えられているのがありがたい。
眉間を指先で揉み、オルテンシアは入れ替わり現象と氷の山、それに不可解な症状で倒れた生徒を前にして、ずっと考えないようにしてきたことを考えることを自分に許した。
お気に入りの筆記具を取り、紙に書く。
「……スキルには三種類ある……魔力の総量は決まっている……スキルは肉体に刻まれている……?」
押さえつけていた不安が、どっと沸きあがってくるのを感じた。
オルテンシアはラビュリントスの出身ではない。生まれも育ちも、魔法国家ソフィアンだ。頭脳労働者と魔法使いが殆どを占めるあの場所で育ち、それなりにあの激しい競争と個人主義が蔓延る風潮に染まりながらも、心底馴染むことができなかったオルテンシアは、誰かを蹴落とし叩き潰して上に昇っていくことに疲れて、あっさりとあの国から弾き出された。失敗した人間に、あの国はことのほか厳しい。落伍者の烙印はどこまでもついて回り、よほどのことがなければ元の地位には戻れない。途方にくれていた彼女に声がかかったのは二年前。
持つものが少なく、稀少な『解呪』のスキルを持ち、治癒系統の魔法にも習熟していたオルテンシアに、救護教諭としての道が開かれたのだ。声をかけてくれたのは、ラビュリントス迷宮学園で、はるばるソフィアンからやってきたオルテンシアは、驚いたり呆れたりうんざりしたりしながらも、今の生活が気に入っていた。いつだって追い立てられるように研究に没頭していた生活とは、まるで違う毎日。だが、悪くない。生徒達との会話も楽しめるようになり、これでよかったのだと思い始めていた矢先に、不意に爆裂魔法が落ちてきたような気分だった。
あの場にいたクロロスも、驚いていたような気がする。スライムだからその表情は窺えなかったが、なんとなく、そんな雰囲気があった。
「……どうして……」
昼間、オリガンが後輩達に説明していたことは、当たり前のことだ。上手に噛み砕いて、他者に伝わるように話すことができるところに、自分が担任だったら評価を上げていただろう。
紙の上に連ねられた、当たり前のこと。
忙しい毎日に追われていれば、殆どの生徒は気がつかない。そういうものなのだと思って通り過ぎていく。だが、その中の何人かは、オリガンのように気づくはずなのだ。『そういうもの』だと思っていたことが、実際には複雑な何かによって成り立っていること。
「つまり、それはどういうことなのか?」という疑問を、誰一人持たないなんてことはあり得ないのだ。
それなのに。
「……そんなこと、あるの……?」
オルテンシアは、オリガンの口からそれを聞くまで、そんなこと一度も考えたことがなかった。
あの、ひたすらスキルと魔法に溺れるように生きている人々の中で、寝ても冷めても効率的なスキルの使い方だとか、あたらしい魔法の組み合わせだとか、新種のポーションの成分だとか、細かいことを書き出せばどれだけ紙が必要になるかわからないほど、素晴らしくてくだらない研究のことばかりのあの国で育って生きてきて。
一度も考えたことがない? そんな馬鹿な。
血が引くような思いをして、思い出そうとすればするほど、ぞっとするような結論にたどり着く。
オルテンシアは、あの国でそこそこの立場にあった。新しい学説、新しい研究があれば自然と耳に入ってくるし、周囲の人々だって話すことはそんなことばかりなのだ。だから、今はともかく、あの頃、自分が知らなかった説も研究も殆どなかったはずだ。それなのに。
思い出すのは『枝』のことばかりだった。あの国で行われていたことの殆どは、枝葉だ。先に行けばいくほど細くなり、葉が生い茂り、枯れてもまた新しい葉が萌え出る様な。
それなのに肝心の『根』についての研究が何一つ行われていないどころか、それらが書かれた本さえ、オルテンシアは目にしたことがなかった。
そして、その事実に気づいてしまった。
そもそも、スキルとはなんなのか。
ジョブとはなんなのか。
この根本的な疑問に、なぜ誰も触れようとしないのだ?
それさえ解き明かせば、明らかに枝葉たる瑣末な研究は数え切れないほど結果を出すことが出来るはず。
根を理解せずに、枝葉を理解できるものか!
できたとしてもいずれ行き詰るのが目に見えている。わかりきったことなのに、どうしてこの根源的な疑問を、自分は覚えたことがなかったのだろう。あの国の人々は、自分は、一体どうして。
これは、明らかに尋常ではない。
ぞっとして、自分の腕を抱いて背後を振り返る。今まで当たり前だと思ってきたことが、当たり前ではなかったという現実の頼りなさ。
ラビュリントスではオリガンのような思考を持つことは当たり前なのだろうかとも思ったが、恐らくそれは違う。
教師として採用される時に、生徒達に教える基礎的な知識は教育されている。渡された資料もあるが、そこにはオリガンが言ったような根本的な理解はひとつも書かれていなかったし、教師達も誰もそれについて触れなかった。自分と同じように、疑問にも思ったことがないはずだという根拠のない、だが確信がある。
早くクロロスとこの話をしたい。
湧いてくる不安を押さえつけながら、重ねられている本の一冊を手に取る。
そしてこの本にも、オルテンシアを戸惑わせることが書かれていた。こちらはクロロスにも見せたが、どうしてもスライム体では細かい意志の疎通ができない。生徒達にはとても言えないし、もどかしさを誤魔化していたところにオリガンが爆弾を落とし、そして泡と氷が押し寄せてきたのだ。
いてもたってもいられなくなったオルテンシアは、件の本を掴むと救護室を出た。
自分よりもこの本に詳しい存在がいるなら、その存在に聞けばいい。
そしてオルテンシアは、華やかな聖誕祭の空気に背を向け、図書室に向かった。
「あたしゃもう帰るところなんだけどね」
闇と光の境目が限りなく曖昧な部屋の中に、普段と変わらない司書の声が響く。
司書用の机に腰掛けた縦にも横にも大きな女傑は、向き合っているというのに不思議と気配が希薄だった。
「……『王血の塔』。これは……どうしてこの学園にあるの? これは、ただの学園が所有していいようなものじゃないわ。まして、いくらおかしなことが起こっているからって、一教師に見せていいようなものじゃない。わたし、最初は気づかなくてクロロス先生にも見せてしまったわ」
「でも、あんたの知りたいことが書いてあったんだろう」
「……ええ。今日起こった入れ替わり、これは、初めてではないのね」
地下の魔本も含めて、図書室にある全ての本の内容を把握している司書は、こともなげに頷いた。
「そうさ。もう何度も起きてる。それも、ラビュリントスの王家に」
「……王家に揉め事が起こるたびに?」
「そのとおり」
「……どうしてなの?」
途方にくれた顔で、子どものように素直な質問を放った救護教諭に、司書は悪気なく笑った。
「それをあたしに聞くのかい? あたしはただの司書なんだよ」
「ただの司書が、ラビュリントス王家の、いいえ、ラビュリントス建国からの記録を勝手に貸し出してるとでも言うの? これは表に出ている建国記と違う! この国に来ることになって、できることはしようと思ったから、この国についてはたくさん調べたのよ。建国記も読んだ。だから、わかる。まだ全部読んだわけじゃなくても、わかる。これは……この本は」
とん、と司書の指が机を叩いた。
「それ以上はおよし。あたしゃ、あんたが真剣に入れ替わった連中を元に戻してやろうとしていたから、気を楽にしようとしてそれを渡したんだ。尤も」
「……尤も?」
「それをあんたに渡すように言われなけりゃ、地下から引っ張り出してはこなかったがね」
「……誰、が」
「さぁ、もうお戻りよ。あんたまだ夕飯も食べてないんだろう。これだけ暗くてもわかる。ひどい顔色さね」
「待って、まだ聞きたいことが」
慌てたオルテンシアの手のひらから、するりと本が抜き取られる。
「肝心のことはわかったんだろ」
「……放っておけば、その内治る……本当なの? こんなおかしなことが放っておけば治るなんて」
「そうそう。それだけわかれば、あんたも気が楽になったろう。いいかい、全部いっぺんに知ろうとするのはやめるんだ。……急げば全部消えちまうよ」
ぞくりと冷たいものが背中を走った。自分が相対しているのは、司書のスピカなのに。
スピカは司書らしく博識で、頭の回転も速い。楽しく知的な会話ができるから、オルテンシアは彼女が好きだった。それなのに、これは一体誰なのだ。今話しているのは、普段お茶を飲みながらけらけら笑っているスピカと同じ存在なのだろうか。
「これを見せられたってことは、見込まれたってことさ。だから、あんたが知りたいことに近づきたいなら、普段と同じように過ごせばいい。機会がくれば、ちゃんとわかる。その時、あんたは選べばいいんだ。だから、今はお帰り」
おぼろな光の中、司書の目が宝石のように瞬いた。
途端に、すうっとどこか暗い淵に意識が沈んでいくような感覚に包まれる。
オルテンシアは誰かに、もしくは何かにすがるように手を伸ばし、確かに誰かがその指先を掴んでくれたことを感じながら、闇の中に意識を溶かした。




