9・始まりの朝
「どうして宇野愛香がここでメシを食っているんだ?」
「探偵さんこそ、何で朝っぱらからここへ尋ねてくるのよ?」
「私が聞きたいわよ。アリアってば夜遅くにこの娘を連れ込んだんだから」
「柚子、その言い方止めてくれない? それじゃあ、私が誘ったみたいに聞こえる」
「えっ、違うの?」
柚子と東昇は、トーストをかじりながら声を揃えて言った。
翌朝の食卓は大賑わいだった。
柚子はまだ膨れて紅茶を飲んでいたし、その隣の席では宇野愛香もすっきりしない表情でトーストをかじっていた。
アリアはそんな二人を前にして、余計な口を挟むとまた柚子の機嫌を損ねそうで、黙々と朝食を摂っていたのだった。そこへ、いつものように昇がやって来て、アリアの隣の席に陣取って重苦しい雰囲気の食卓に混じったのだった。
「アリアさんって、女には不自由していなさそうよね」
「な、なに?」
宇野愛香に突拍子もないことを言われ、アリアは手に持っていたマグカップを落としそうになった。
「だって、探偵さんみたいにがっついてないもの」
「へえぇ。昇、がっついたんだ」
柚子が軽蔑の眼差しを昇に向けた。
「誤解だっ! こいつ、俺をはめようと……」
「でも、キスしようとしたのは事実だわ」
宇野愛香が追い討ちをかけた。
「ふううん、節操ないのはヒロの専売特許だと思っていたけれど」
「だから、違うって……。アリア、信じてくれるよな?」
昇が情けない顔をしてアリアの方を見た。
昇の言っていることに嘘はないのだろうが、アリアはちょっとからかいたくなった。
「ま、昇も男だからね。でも、未成年じゃない方がいいと思うよ。十無に手錠かけられたら、洒落にならない」
アリアは真顔で言った。
「信じてくれないのか?」
本気で困っている昇を見て、アリアは笑いを堪えるのが大変だった。
「ねえ、探偵さんはどうしてそうアリアさんに弁解するの?」
「それはねえ、昇はアリアのことが好きなのよ」
いつの間にか、ふてくされていた柚子が仲良さそうに愛香へ耳打ちした。
わざと皆に聞こえるように言ったので、昇は頭をかいて見る見る顔を赤くした。
「いや、それはだなあ……」
昇にとってアリアは一応男だ。人前で堂々と言われるにはやはり抵抗があるのだろう。
「柚子、昇をからかうな」
「アリアだって、昇のことからかっているじゃない」
「それより、急がないと学校に遅れるよ」
アリアは矛先が自分に向いてきたので登校を促した。
「大変、もうこんな時間。行ってきまーす!」
柚子がばたばたと出て行った。
「アリアさん、いなくならないでくださいね! ああ、本当は学校なんか行っている場合じゃないのに」
「行くという約束だよ」
アリアにそう言われて、宇野愛香も仕方なしに学生鞄を持って玄関へ行った。
「あ、探偵さん! 姉の調査はちょっと保留にしておいてください」
宇野愛香は玄関から大声でそう言い、昇が質問を投げかける前にドアの閉まる音がした。
「アリア、昨日何があったんだ?」
「何もないよ」
「じゃあ、今のはどういう意味だ。もう解決したとでもいうのか?」
「私に言われても。愛香さんから直接訊きいて」
「お前、何か掴んだのか。昨日の夜、ヒロに会ったんだろう?」
「……ヒロがもし知っていたとしても、教えてくれるはずないでしょ」
「いいや、何か聞いたはずだ」
アリアが顔を上げると、昇の視線に目が合ってしまった。
さっきまで黄色い声が飛び交って賑やかだったダイニングは、アリアと昇が二人きりになり、嫌に静かに感じられた。
俺、本気だから。
アリアは、昨日、昇に告白された時のことを思い出してしまった。
気まずくなったアリアは、昇と顔を合わせづらくなって俯いた。
昇の態度はいつもと変わらない。それなのに、自分だけが妙に意識しているのも変だ。アリアは平静を装うとしたが、どうしても顔を上げられず、マグカップに視線を落とした。
「何故、視線をそらす」
「そらしてなんか……」
「じゃあ、こっちを向けよ」
アリアは思い切って顔を上げ、隣に座る昇を見た。
こちらを真っ直ぐ見ている昇。曇りのない視線。こちらのほうが恥ずかしくなるような、純粋に愛情を持って見つめる視線。
「な、なに」
ただじっと見つめる昇にアリアは気後れしてしまい、視線をそらした。
「昨日とは別人だなと思って。今日も女の子になってくれたら嬉しいな、と」
「馬鹿! 昇の欲求不満には付き合っていられない。早く可愛い彼女を見つけろ」
率直に物を言う昇に戸惑い、わざと乱暴な言葉をぶつけて、アリアは椅子から立ち上がった。
「ちぇっ、冷たいな」
「さ、朝食が済んだんだから、さっさと仕事に行ったら?」
二人きりのままでいたくなかったアリアは、昇を冷たくあしらって居間へ逃げた。ソファに座ったアリアは新聞を広げた。
「やっぱり、何かあったな」
「……しつこい。だから何もないって」
アリアの背後に立った昇は、ソファの背もたれに肘をついてしつこく訊いてきた。
「何もないのに、宇野愛香がここにいるのか」
「あーもう、いい加減にして」
アリアは新聞を乱暴にたたんで立ち上がろうとしたのだが、背後から昇が両手でアリアの肩を押さえ込んだ。
「だーめ。教えてくれないなら、このままキスするぞ」
「へ?」
聞き間違いか。昇がまさかそんなことを。
アリアは思わず昇の方を振り向いた。
混乱して呆然としていたアリアは、頬に昇の手が伸びてきてもされるがままで、本当にキスをされてしまった。
何が起こった。これはどういうこと!
アリアは驚きのあまり、昇の手を振りほどくこともできなかった。
「あ、やばい。兄貴……」
昇は突然顔を上げて部屋の入り口の方を見たので、アリアも思わず振り返った。
昇の視線の先に、双子の兄、東十無が顔色を失った状態でドアに寄りかかっていたのだ。
「昇、お前なにやって……いや悪かった、邪魔した」
どこをどう納得してしまったのか、東十無は青い顔をしたまま二人に背を向けた。
「あっ、おい! 兄貴!」
昇が玄関まで追いかけていったが、十無は振り返りもせずに玄関を出て行った。
十無に誤解されたようだった。昇とキスしていても十無はなんとも思わないのだろうか。何故、悪かったと言って出て行ってしまったのか。
アリアはソファから動けないでいた。
「参ったな……タイミングが悪い奴だ、まったく」
昇は髪をかき上げ、ばつが悪そうにため息をつきながら居間へ戻ってきた。
「昇、悪ふざけも度が過ぎる……」
「俺は真面目だけれど。昨日も言っただろう?」
昇はアリアの髪をくしゃりと撫ぜ、悪戯小僧のように口の端だけでにやりと笑った。
昇はきっとからかっているに違いない。昨日だって……きっとそうに決まっている。
アリアは無理にそう思い込もうとした。まだ動悸がしていた。
十無のことが好きだったはずなのに、どうしてここまで動揺してしまうのだろう。
アリアは自分の反応に戸惑っていた。
「俺は兄貴とは違う。俺は刑事じゃない」
アリアはその言葉にドキッとした。
兄貴とは違う――。
昇は刑事という立場の十無とは違うと言ったのだろうが、双子でもそれぞれ違うということを言われたのかとアリアは思ったのだ。
性格は慎重な十無と行き当たりばったりのところがある昇とで、まったく違う。服装もいつも必ずネクタイを締めてスーツの十無と、ラフな服装を好む昇。相反しているし、見間違うことはまずない。だが、背格好や顔つき、声などは外見だけで言えば瓜二つだ。もし全く同じ髪型にして同じ服装をしていたら、自分には見分けることができるだろうか。もしかしたら昇を十無の代わりにしてしまっていたのだろうか。
自分のことが嫌になった。
アリアは俯いて顔を曇らせた。
「悪い悪い、ちょっと先を急ぎすぎた。とにかく、宇野愛香が帰ってくるのを待つとするか」
アリアが沈黙したままでいたので、昇は不安に思ったのか、慌ててそう付け足して誤魔化した。
何も話さないでいるのは気まずい。
アリアはどんな顔をして昇と顔を向き合わせたらよいのかわからなかったが、サングラス越しなのだからと自分に言い聞かせて顔を上げ、何事もなかったかのように振舞う努力をした。
「ずっとここにいるつもり?」
「だって、宇野愛香に直接訊けって、アリアが言ったじゃないか」
「仕事は?」
「これが仕事だ」
昇は大威張りで胸を張っている。
「だって、愛香さんは依頼を止めたって」
「中止じゃない、保留と言っていた」
「どっちにしろ、同じでしょ」
こんな状態で、昇と二人きりでいたくなかった。気まずいし、いつもと違って何を考えているのかわからない昇。アリアは昇が怖かった。
携帯電話の着信音が部屋に響いた。
「ちぇっ、音江槇か!」
昇が忌々しそうに携帯のディスプレイを睨んで呟いた。
「はい、俺。……ええっ、俺に行けって? 他の奴は……いない? 俺も忙しいんだけれど。一つ依頼を受けていて。いや、勝手なことはしてないぜ。ちょっと報告が遅くなっただけだろう? ……わかった。行けばいいんだろう。そう怒鳴るな……おい、まて!」
電話は相手側が一方的にぷっつりと切ったようだった。
「くそっ、音江槇め。ぼろくそに言いやがって!」
昇は切れた電話に向かって文句を言った。
「ほら、仕事しないと。さ、早く行きなよ」
アリアはほっとして笑顔が漏れた。
「仕方ない。また来る」
昇が渋々部屋を出て行ったのを見届け、アリアはやっと人心地ついた。
キッチンへ立ち、紅茶のティーバッグをマグカップに入れて、ポットからお湯を注ぎながら考えた。
宇野愛香から聞いたことをDに伝えなければ。後はどうするか。Dは会うのだろうか。会ったからといって解決しそうもないし……でも、このまま放っておけない。やっぱり事情を話すしかない。ヒロに知れたら、余計な心配をDにかけさせるなと言われそうだけれど……決めるのはD自身だ。
シンクに寄り掛かって立ち、熱い紅茶を飲み干す頃に、アリアはそう結論を出した。
さっきの昇に対してとったあいまいな態度を考えれば考えるほど、昇への罪悪感が増していきそうだった。一人でいるとつい考えてしまう。
行動していないと気が滅入ってくる。
アリアは寝室で素早く着替えて女性姿になり、Dのマンションへ向かった。