7・女怪盗誕生
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「前にも言ったが、俺はあんたの男でもなんでもない。俺は俺の好きなようにする。俺を頼るな」
「私は私の意志でこの道を選んだのよ。別にあなたのことを追っているわけじゃないわ」
男の冷たい言葉に、宇野水香も強気で言い返した。
ホテルのバーカウンターの窓から見える夜景に、しとしとと雨がにじんでいる。梅雨もそろそろ終わりを告げ、汗が滲むような季節になっていた。
男と始めて出会ってから半年が過ぎていた。
ウノ・ジュエリーに強盗が入った翌日、宇野水香はその泥棒の男と再び会って食事を共にしたのだが、男の気まぐれか、その後も何度か水香の前にふらりと姿を現したのだった。
二人は一緒に食事をし、街をぶらぶらとさまよい、当たり障りのない会話をしてなんとなく時間をつぶした。時折、水香は結婚間近のカップルを装わされ、高級宝飾店へ連れられていくこともあった。
男は水香に何も告げなかったが、多分、それは『仕事』の下見だったのだろう。
水香はなんともいえぬスリルを味わい、別人を演じることを楽しんだ。
男は名前も明かさず、どこに住んで普段何をしているのかも、相変わらず一切口にしなかった。
普段の生活から逃げるように水香のもとに来ているような男の素振りに、水香は素性を聞けなかった。聞けば男が来なくなる気がした。
男は連絡もせず、水香の前へ姿を現す。それは翌日だったり、一週間、十日後だったりした。一ヶ月近く現れないこともあった。そんな時は、諦めと絶望の感情で水香の心は押し潰されそうになった。
次にいつ会えるのか、そもそも、次があるのかさえもわからないまま去っていく男。
男に愛を告白されたわけでもなく、付き合おうと言われたわけでもない。
恋人と言うには、一方通行の水香の思い。水香は男の気まぐれに振り回されていた。
それでも水香はその関係を断ち切れなかった。綱渡りのような関係でも、少しでも男の傍にいたかった。しがみついていたかった。
そんな水香の気持ちを知ってか知らずか、男は会っている間はとても水香を大事にして優しかった。
水香は水香で、男の重荷になりたくない一身で、男に気持ちを悟られまいと、会っている間は強気で高飛車な態度を崩さなかった。
婚約者がいる水香は、父や妹にこの男との関係を悟られないよう、普段は今まで通りの服装にし、男と会うときだけ外出してから服装を変えて化粧をした。
父親がもし道端ですれ違ったとしても、気がつかないのではと思うほど別人だった。
こうして危うい関係は、細々と半年間も続いたのだった。
そして今夜、ホテルのバーで口論になってしまったのだった。
原因は水香が今の生活を捨て、親元から姿を消すと決意したのだと男に告げたことだった。
男はオリーブの刺さった金色のカクテルピンを、怒りに任せて折り曲げた。
「馬鹿な真似をするな」
「あなたには関係ないわ。これは、私が決めたこと」
カウンターに隣り合わせに座り、正面を向いて視線を合わせないまま、水香はたじろぎもせず言い返した。
「じゃあなぜ、俺にいちいち報告する?」
男の苛々した口調は変わらない。
「だって、私がいないってことを言っておかないと、あなたが普段の生活に疲れて私のもとへ来たとき、がっかりさせるんじゃないかと思ったら、後味が悪いじゃない。そのくらいはあなたのことを心配してもいいでしょう?」
「ふん、俺のことはどうでもいい」
「……もし、あなたがそうしてほしいのなら、居場所を教えましょうか。それに、『仕事』のパートナーも、気が向いたらやってあげてもいいわ」
あなたの傍にいさせて。あなたを支えたい、などと言っても、男は重荷に感じるだけで、自分から離れていくだろうということは水香に充分わかっていた。
だから、こんな虚勢を張った言い方でしか、水香は言い出せなかったのだ。
これで、「そうか、じゃあ今夜限りだ」などと男に言われたら、この関係はこれでおしまいだった。水香は今の綱渡りのような苦しい関係をなんとかしたくて、一か八かの賭けに出たのだ。
水香のことを少しでも必要な存在だと男が思ってくれているのではという、僅かの望みに賭けていた。
水香は不安で押しつぶされそうになりながら、男の態度をじっとうかがっていた。
「俺の仕事のやり口を、今まで盗んでいただろう?」
暫し考え込んでから、そう言った男の表情は、少し穏やかになっていた。
「ふふふ。私のことを利用してもいいわ。私もあなたのことを利用させてもらったから」
水香は男のためだけに家を出る決意をしたのではなかった。自分の道を見つけたのだ。
男について回るうちに、盗みの手口に興味を持ち、充分学習していた。
男も面白半分に水香の前でドアの鍵を開けて見せたり、実際に開けさせたりしていた。
元来、手先が器用な水香は、瞬く間にそれらをマスターしてしまったのだ。
水香は悪戯心から、こっそり男をつけ、男は最後まで気がつかず、最後に水香が声をかけて男をおどかすまでになっていた。何度かそんなことがあり、男はとうとう水香を実際に戦力として盗みに参加させざる終えなくなった。
スポーツジムで鍛えた水香の体は、基礎体力は充分であり、しなやかさや俊敏さも兼ね備えていた。
悪いことに水香自身、これが『天職』だと思ったのだ。
「俺が遊び半分に教えたのが悪かったか」
顔を曇らせた男の口から、水香を気遣って反省するような言葉が聞かれた。
「違うわ。遅かれ早かれ、きっと私はこの世界に足を踏み入れていた。そんな気がする。だって、楽しくてしょうがないんですもの」
水香はカウンターに肩肘をつき、男に向かって悪戯っぽくウインクして見せた。
「水香、変わったな」
男はしみじみと水香を眺めた。
ショートヘアこそ変えていなかったが、耳にはダイヤのピアスが光り、ルージュで潤った真紅の唇。長い睫毛にしっかりとマスカラが施され、一層ゴージャスな印象の目元。
襟首が大きく開いた派手な紫色のノースリーブに、タイトミニスカート。定番になったピンヒール。
服装の違いも大きかったが、何よりも、堂々とした、人を従わせるような自信に満ちた態度が、以前とは全く別人だった。それは水香自身も自覚していた。
「そうかしら、これが私よ。自分を取り戻した感じ。これと同じものを、もう一杯」
水香は空になったカクテルグラスをカウンターに上げ、バーテンダーに軽く手を挙げて合図し、ブラッディ・メアリーを注文した。
男は苦笑している。
「いい意味で言ったんだ。俺の好みの女になった。俺は気の強い女が好きだ」
バーテンダーが、水香の前に真っ赤なカクテルを置いた。
「ね、先輩。新参者のお仲間に乾杯してよ」
「俺はどうなっても責任は持たないぞ」
水香に促され、男は渋々グラスを目の高さに上げて乾杯した。
数日後、梅雨が明けそうなじりじりとした蒸し暑さの中、霧雨が降りだした夕方に、宇野水香は最小限の荷物、ボストンバッグ一つで、家族の前から忽然と姿を消したのだった。
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「これで、昔話は終わり。手に入れたかったのは、ヒロの心。でも、それだけのために家を出てこの『仕事』を選んだわけではなかったわ。ヒロはきっとそうは思わなかったかもしれないけれど」
聞き終えても、アリアはDが何のために過去の話をしたのか、皆目見当がつかなかった。
Dが家を出た後も、ヒロと続いていたということは、やっぱりヒロはDを必要としていたということだろうか。ヒロが普段の生活から逃げるようにDのところへ行っていたというのであれば、それは、私のせいなのか。ヒロにとって自分は重荷でしかなかったのか。
アリアは喉元まで出かかったそんな言葉を飲み込んだ。
Dに訊いたところで、ヒロの気持ちはわからない。だが、ヒロに会って直接訊く勇気はアリアにはなかった。
「アリアちゃん、私がこんな話をしたことに、何か理由を探している?」
黙りこんでいるアリアにDは微笑んだ。
「……正直言って、Dが何を考えているのかわからない」
「ふふふ。そうねえ、過去を清算したくなったってことかしらね」
「よくわからないよ」
「まだ過去になっていないことがあるの。婚約者のこと。彼、まだ律儀に私を待っているらしいのよね」
アリアはやはり話が飲み込めず、きょとんとした。
「宝石箱を妹――愛香の手に渡す時、こう伝えてほしいの。私にはもういい人がいるから、私に義理立てしないで」
「そんなことをしたら、宇野水香はDだと言っているようなものでしょう?」
「愛香は頭の回転が早い娘だわ。もう、この宝石箱を手放した時点で、私の正体をきっと見抜いている。愛香に知られたとしても、警察に駆け込まれることはないでしょう。そうする気があるのなら、もうとっくに駆け込んでいるはず」
「だったら、Dが直接会っても同じだと思うけれど」
「私は家を捨てた人間。のこのこと顔を出すことはできないわ」
「でも……」
「色々あるのよ。家庭の事情って言うものがね。アリアちゃんだってそうでしょう?」
Dにそう言われ、アリアはそれ以上何も言えなくなった。
アリアにはDが過去を話した理由が他にもあるような気がしてならなかった。
まだ過去になっていないこと。それはもう一つあるのではないか。
それは、ヒロのこと。
一目惚れだったとDは言った。
だったと、過去形で話したDの言葉に、アリアは引っかかっていた。
過去になっているとは思えない。ずるずると引きずり続けている関係。
ヒロがふいといなくなるのは、普段の生活に疲れて安らぎを求め、Dの元で羽を休めているからなのだろうか。
私が支えるには役不足なのだろうか。
もしかして、Dは今の関係に決着をつけたいと思っているのではないだろうか。
アリアはDの気持ちを推し量りかねていた。