6・泥棒の男
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男に撫ぜられた頬が熱い。サングラスの奥から、じっと見つめる男の瞳。恋をしたことがない宇野水香は、今までに経験のない胸の高鳴りを感じた。
「な、なによ。泥棒のくせに。ほっといてよ」
男の顔に釘付けになっていた視線を慌ててそらした。水香はスウェット姿の自分が、急に恥ずかしくなったのだ。
なんで、泥棒に気後れしなきゃいけないのよ。私、馬鹿みたい。
水香は普段から服装には無頓着で、ここ何年も、服装といったらジーンズだった。化粧もしていない。
男に言われるまでもなく、父親から、もう少しまともな格好をしろと常日頃、言われていた。
水香はきらびやかなショーウインドウを前に、表に立って客に向き合うのは苦手で、どちらかと言うと裏方に回り、デザインや企画を構想していた方が楽しかったのだ。
「もったいない。化粧栄えのするいい顔をしてるのに」
男にしげしげと見つめられた水香は赤面し、それを隠すように俯いた。
「おっと、仕事を忘れるところだった。お嬢さんが、まるであいつみたいに、あんまり自分を大事にしていないから、つい余計な口出しをしたくなったじゃないか」
「あいつって?」
「いや、関係ない話だ」
男は肩をすくめ苦笑した。
この男とどういう関係の娘なのだろう。あいつ呼ばわりするくらい親しいということは、恋人、それともただの友達か。
水香は男の一言に動揺していた。その会ったこともない『あいつ』に嫉妬を感じたのだ。
水香がそんなことを考えているうちに、ショーケースの中にあっためぼしい宝石は全て袋へ詰め込まれていた。ものの数分だった。
「さて、邪魔したな。悪いがまた椅子に縛らせてもらう。さっきの事務所へ戻れ」
「嫌」
水香は思わずそう口走っていた。さっきまで、早くここから出て行ってほしいと思っていたはずなのに。水香は自分でも信じられなかった。
「自分の立場がわかっていないのか?」
「嫌よ」
男が凄んでも、水香は引き下がらなかった。水香の目には、もはや男は強盗として写っていなかった。
野性的な匂いのする、自由奔放に生きている男。自分にないものを兼ね備えているその男に、水香は惹かれたのだ。
「選択肢はない。さあ、来るんだ」
男は強引に水香の片腕を掴み、階段へ引きずるように連れ歩いた。
「痛い! やめてよ」
「まったく、困ったお嬢さんだ」
暴れて抵抗する水香を、男は抱きかかえた。
小柄な方ではない自分を、軽々と持ち上げたたくましい男の腕が、水香は頼もしく感じた。
「初めから、そうやって大人しくしていれば手荒なことはしなかったんだぞ」
耳元で聞こえる男の声が、水香には優しく囁いたように聞こえてしまう。
もし男に怒鳴られたとしても、今の水香には、愛の囁きにしか思えなかっただろう。
それほどに水香は、この得体の知れない男にどうしようもなく急速に惹かれていた。
男の胸に頭をもたれかけ、うっとりしながら、水香は胸を高鳴らせたのだった。
事務所に着き、水香は椅子に座らされて再び後ろ手に縛られた。
男は一仕事を終え、このまま立ち去るだろう。これでもう会うことはない。
それでいいの? いやだ、そんなの。どうにかしてもう一度会いたい。
布の紐で口を塞がれる時、水香は決死の覚悟で、しかし、平静を装って男の顔を見上げた。
「ねえ、私本当に綺麗になる?」
「ああ、俺が保障する」
「じゃあ、あなたが私を変えてよ」
「馬鹿なことを。お嬢さんには良い相手がいるだろう?」
「親が勝手に決めた婚約者はいるけれど、私のことなんか見てやしない。彼はいつも私の妹の姿を目で追っているわ。私のことは義務って感じ」
「ふふん。そいつを見返したいのか」
「そうじゃない」
「……いいだろう、面白そうだ。それであんたの気が済むのか。明日……ってもう今日だな。今日の夜六時過ぎに会おう」
男はこともなげにそう言った。
「会って、くれるの?」
水香はまさか会おうだなどという返事が返ってくるとは思ってもいなかったので、目を丸くして驚いた。
泥棒に入った先の女と、会う約束をするとは。もしかしたら捕まえるための罠かもしれないのに。大胆というか、無謀というか。
益々男のことがわからなくなった。と同時に、男に対し、好奇心と憧れを抱いた。
自分にない大胆さ。後先考えない快楽主義的な行動。一体この男はどんな生活を送っているのだろうか。人生のレールを敷かれ、それに沿って父の言うとおりの道を進んでいる自分が、自由奔放に生きる男の前で、急に色褪せ、惨めにさえ感じたのだ。
男は水香が無意識に求めていたもの、束縛されない自由を見せつけたのだ。
「じゃあな」
男は水香の口を布の紐で塞ぎ終え、そう言って事務所を出て行った。
「んん!」
口を塞がれた水香は精一杯叫んでみたが、言葉になるはずもなく、男の背中を見送るしかなかった。
男は確かに夜六時に会おうと言った。だが、待ち合わせ場所も告げず、何処へ行けばいいというのだ。からかわれたんだ。きっとそうに違いない。世間知らずの、見た目もぱっとしない女に会うために、捕まる危険を冒してまで会いに来るはずがない。
はらはらする非日常の出来事から現実に引き戻され、水香はがっくりと肩を落としてうなだれた。
水香は事務所の窓から見える、白み始めた空をぼんやりと眺めながら、従業員が出勤してくるのをじっと待った。
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「で、ヒロとは会えたんでしょう?」
アリアはDをせかすように言った。
「ふふ、そうね。ヒロは約束通り、私の前に現れたわ」
「やっぱり」
「それがね、まだ警察がいる店に顔を出したのよ。あれには私も驚いたわ」
肩をすくめて、首をかしげたDは、とても楽し気で懐かしそうに少し遠い目をした。
アリアはDの話を聞くにつれ、胸の奥でじりじりと何かがくすぶっているように感じていたが、顔には微塵も出さずに、話の続きをDに促した。
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「宇野水香さんはいらっしゃいますか」
「娘に何か用かね? ごらんの通り、今立て込んでいる。出直してくれんか」
「水香さんと約束していたものですから」
ウノ・ジュエリー社長である、宇野水香の父は、店先で声をかけてきたサングラスに背広姿の見知らぬ若い男を、怪訝そうに一瞥し、苛々した口調で言った。
ウノ・ジュエリーは朝から鑑識や警官がひっきりなしに出入りしている状況だった。夕暮れになって一段落した今も、店の前はロープが張られたままで警官も立っている。
社長はこの騒ぎで、疲労困憊しているようだった。
「お父さん、刑事さんから電話が……」
店から出てきた宇野水香は、男の姿が視界に入ると息を飲んだ。そして、耳の先まで赤くした。
「ど、どうして」
「水香。迎えに来たよ」
男は動揺している水香の肩に馴れ馴れしく手を添えて、「じゃあ、お借りします」と水香の父親に軽く頭を下げ、さっさとその場から連れ出した。
「おい、きみ、待ちなさい。水香とはどういう付き合いなんだ! 水香には、婚約者がいるんだぞ」
父親の叫び声は無視し、水香は男の勧めるままに、路上駐車してあった車の助手席に乗り込んだ。
「あなた、何を考えているの? まだ警察もうろうろしているのに」
「これはこれは、泥棒に入った俺の身を案じてくれるとは」
男はニヤニヤしながら、ハンドルを握って車を発進させた。
「茶化さないで。無謀すぎて呆れただけよ」
危険を顧みず、男が会いに来てくれた。
水香は顔が緩みそうになったが、男に惹かれている自分の気持ちを感づかれまいと、平静を装ってわざと冷たい口調を通した。
「……私のことも、調べたのね」
「ああ。まさか、社長の娘だったとは驚いた。親父さん、心配していたようだが」
「いいの。父が心配しているのは、跡継ぎのことだけよ。私を心配しているわけじゃないわ。ねえ、泥棒するより、私を誘拐した方がお金になるんじゃない?」
「俺は、盗みしかしない」
「ふうん」
泥棒には泥棒なりの美学でもあるのだろうか。
男の横顔が、少し怒ったように見えた。
「それで、何処へ連れて行ってくれるの?」
「そうだな、まずは自分をよく知ってもらう」
「え?」
水香がきょとんとしている間に、車はブライダルサロンに併設された美容室の前へ停まった。
「俺は適当に時間を潰してくるから、しっかり綺麗にしてもらえ。じゃ、後は頼む」
美容室のスタッフが、にこやかに出迎え、男は水香を引き渡すと直ぐ、トレンチコートをはおってその場を立ち去った。
「あの人、よくここを利用するんですか」
「いいえ、初めてのご利用です。背が高くて素敵な方ですね。彼氏さん?」
「……いいえ」
水香は、男のことをなんといえばよいのか、困った。まさか、自分の店に押し入った泥棒ですとは言えない。
「ふふふ」
「どうかなさいました?」
「いいえ、ちょっと楽しくて」
水香は髪に鋏を入れられながら、無性に笑いがこみ上げてきた。
何の迷いもなく、水香は親の期待に沿う道を歩んできた。これが自分の天職だとも信じていた。
だが、男に出会い、良くも悪くも今までの自分が窮屈になったのだ。
味わったことのない非日常のスリルと緊張感。水香の中で新たな感覚が芽生えていた。男は開いてはいけない水香の心の鍵を開けたのかもしれなかった。
「すごくお似合いです」
美容師が大きく頷いて微笑みながら、水香を姿見の前に立たせてくれた。
「見違えた。まるで別人だ。俺好みだな」
戻ってきた男が、頭から足の先までコーディネートされた水香を眺めて満足そうに頷いた。
「別に、あなたのためじゃないわ」
「ああ、わかっている。だが、俺でも惚れそうないい女だ」
男の言葉がいちいち心に響いた。
水香は鏡に映っている、別人になった自分をのぞき見た。
これが、私。
明るいブラウンに染められたショートヘア。はきなれないタイトな膝上の黒のワンピースに黒いパンスト、ピンヒール。華やかな印象の女性。
見違える変化に水香は嬉しかったのだが、気恥ずかしくもあり、鏡を直視できずに俯いた。
「さて、お嬢さん。ディナーにお付き合いいただけますか?」
「ええ」
水香は男に真っ赤なコートを肩に掛けてもらい、店を出て並んで歩いた。
歩く度に棒状のプラチナイヤリングが揺れる。水香は落ちないかと耳元をつい何度も触ってしまった。
「イヤリング、気になるのか」
男が水香の仕草に気がつき、足を止めた。
「ええ、したことがないから」
「ウノ・ジュエリーの娘だろう? そんなんでいいのか。落とすのが心配だったら、ピアスにするといい。今、俺がやってやろうか。そういうの得意なんだ」
「いい。今度お店でするわ」
男が水香の耳に手を伸ばしたが、水香は慌てて後ずさった。
今、男に優しく触られたら、顔が真っ赤になるに違いなかった。そんなことになるのは恥ずかしい。
「そうか」
男はあっさり手を引っ込めて歩き始めた。
水香はほっとしたのだが、目はその男の手を無意識に追っていた。
すらりと長い指先だった。
いやだ。私、もしかして彼に触れてもらえなくて残念に思っている?
そんな風に思った途端、水香は顔が真っ赤になった。
「どうかしたのか?」
「なんでもないわ」
「そうか」
そう言いながら、男はニヤニヤ笑っている。
水香の気持ちを見透かしているに違いなかった。
女の扱いに手慣れている。きっと適当に女を摘んで、特定の彼女なんていないのだろう。こんな男に惹かれたら辛い思いをするだけだ。
頭では男を否定し、拒んでいたが、水香自身、惹かれる気持ちはどうすることもできなかった。
「水香って素直だな」
男は水香の肩を抱き寄せて歩いた。それは、ごく自然な仕草だったので、水香は拒むタイミングを逸し、されるがままになってしまった。
冷たい風が吹き付ける中、男の手が熱く感じられた。
その後も、熱があるように頭がぼうっとして、ディナーを味わうどころではなかった。
お洒落なホテルのバーに連れられて、飲んだこともないブルーのカクテルを飲み、今度はほろ酔いで頬が紅潮した。
「水香は普段、お酒を飲まないのか?」
「忙しくて、飲んでいる暇なんてないわ」
「その割には、飲み方が早い」
「そう? だって、これ美味しいんですもの」
「きっと、酒に強いのかもしれないな」
自分も知らなかった一面を男に指摘され、水香はにやついてしまった。
「ふふふ。ねえ、あなたの名前、教えてくれないの?」
「聞いてどうする。俺をサツに売るのか?」
「だって、何て呼んだらいいの?」
「なんとでも」
「もう会わないつもりね」
「水香だって、そのつもりだろう」
「私は……そうね、会社というしがらみがある」
口ではそう言ったが、そんなものはどうでもよくなっていた。
「俺みたいなアウトローといたら、人生だめにするぜ。水香は聡明で綺麗だ。この髪が伸びて風になびく頃には、きっと似合いの彼氏が隣で微笑んでいるだろう」
男は目を細めて、水香の髪を優しく撫ぜた。
「気障ね。で、あなたもその頃には、可愛い彼女が隣で微笑んでいる? それとももういるのかしら」
水香はどきどきしながら、鎌をかけてみた。これでもし、あっさりと「まあね」などという返事が返ってきたら……その時は諦めよう。諦める? 自分はこの男と付き合いたいと思っているのか。
男に投げかけた質問に、水香は自分で驚いていた。
「遊んでくれる女の子はいるが、彼女はいない」
水香はその答えに、ほっとした。
「だが、一生振り向いてくれそうもない好きな奴はいる」
眉を寄せて男は苦笑し、マティーニを一気に飲み干した。
水香の背筋が寒くなった。彼女がいるといってくれたほうが、まだましだった。
一生かかっても無理だとわかっている片思い。男の「一生」という言葉に、諦めきれない強い思いが滲んでいるようだった。
入り込める余地はないのか。私がいくら思っても、見込みはないのか。
出逢ってから二十四時間も経たなかったが、この人こそ自分の求めていた男だと運命を感じていた。
この男と時間を共有したい。少しでも傍にいたい。
水香は自分の気持ちをはっきりと自覚した。
「今夜は楽しめたか?」
「ええ、とっても」
男は何杯目かのマティーニを、口を潤すように一口含み、水香を一瞥した。
「……勘違いしないように、はっきり言っておく。今夜は俺のお遊びだ。水香はもっとふさわしい男を捕まえたらいい。お家騒動に巻き込まれるのはごめんだ」
水香の思いを感じ取ったのか、男は突き放すように言った。
「自惚れないで。誰があなたのことなんか好きだって言ったのよ」
咄嗟にそう言ったが、気持ちを見抜かれていたと思うと、恥ずかしくて男と目を合わせられなかった。
そんな気持ちを悟られまいと、男が頼んでくれた赤いカクテルをグラスの半分ほど、一気に飲んだ。
「それならいいんだ。水香の気持ちをかき回していたら、後味が悪いからな」
もう充分、心乱されてしまったと言ってしまいたい衝動に駆られたが、男の笑顔に釣られて、水香も思わず笑みを返したのだった。
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「馬鹿よね、強がって。でも、その時、私が素直になっていたとしても、ヒロはきっと私の気持ちを受け入れてはくれなかったわ。それがわかっていたから、私は強がるしかなかったの」
Dは肩をすくめた。
ワインボトルが一本空いた。Dの頬は桜色に染まっているが、まだほろ酔いといったところか。
アリアはDの話の中で、『一生振り向いてくれない相手』という言葉が気になっていた。
自分を指している言葉だと、アリアはすぐ自覚したのだが、今現在、Dがそのことをどう思っているのか、無性に気になった。
もしかして、中途半端にヒロに甘えている自分は、Dにとってすごく嫌な存在なのではないだろうか。
もし、Dにそんな風に見られているとしたら。もうDと顔を合わせられない。
「あの、一生振り向いてくれないって……」
「気にしないでね。別にアリアちゃんを責めいているのではないのよ。アリアちゃんがいくらヒロを拒否したとしても、彼の気持ちが変わるとは思えないもの」
察しの良いDは、アリアの心配を読み取って直ぐ否定した。
「ただの昔話。そう思って聞いて頂戴」
Dは優しく微笑んだ。
その優しい微笑みを、アリアは直視できなかった。
やるせない、痛々しい微笑みに感じたのだ。
Dは本当に過去の話として自分に聞かせたいだけなのだろうか。
アリアはDの長い告白に戸惑っていた。