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5・過去

「まさかこれが私の手元に来るなんて」

 テーブルに置いてある宝石箱を、Dは懐かしそうに眺めてほうとため息をつき、ワイングラスに注いだ白ワインを口に含んだ。

「私も色々あったのよねえ。自分が悪いのだけれど……」 

母の形見というその宝石箱を見て、何を思い出したのだろうか。Dはポツリポツリと話し始めた。

「これでも、優等生だったのよ、私」

 早くに母を亡くしたDは、家族の中で母親的役割を担っていた。と、同時にウノ・ジュエリーの次期社長という立場であり、父親の期待を一身に受け、重い責任を負っていたのだという。

 ウノ・ジュエリーはブライダルジュエリーを主に扱い、国内外の主要都市に十店舗と銀座に本店を構えている、そこそこの老舗だった。

 Dは父の期待に沿うべく、勉学にも励んで貴金属の知識も積み、大学進学頃には、商品のデザインを企画、提案するほどとなっていた。Dの言葉通り、優等生だった。

「とにかく必死だったわ。私がしっかりしなきゃ、ってね」

 Dは空になったワイングラスに自分でワインを注いだ後、アリアにも注いでくれた。

「気がつくと、私は大学と会社の往復で一日が終わり、寝るために家へ帰るといった生活になっていたの。でもそのときは苦ではなかった。自分が企画した物が売れると楽しかったし、充実していたの。でも……」

 Dは声が小さくなった。

「ある日をきっかけに、こんな生活をしている自分が嫌になってしまったの……二十歳のあの日、成人式にも行かずに、夜遅くまで会社で企画を練っていて、そのまま居眠りをしていた私は、泥棒と鉢合せしてしまった」

「泥棒……」

 アリアは、名前が直ぐ頭に浮かんだ。

「ふふ、察しの通り、それはヒロだったの」

 Dは肩をすくめた。


******

「誰!」

 二十歳の宇野水香は、怖さを振り払うように、大声を上げようとしたのだが、背後から「静かに」と、低い声で命令され、黒い皮手袋をはめた大きな手で口を塞がれたのだった。

 水香はデザインを考えているうちに、いつの間にか事務机にうつ伏せになり、うたた寝してしまったのだった。人の気配で顔を上げた水香は、眠気がいっぺんに吹っ飛んだ。

 椅子に座っていた水香は、足はがくがくと振るえ、次にどうしたらよいのか全く思いつかなかった。

 落ち着け、落ち着くのよ。

 事務所内の明かりは消しており、机の蛍光灯だけが煌々と眩しかった。こんなことなら、事務所の明かりを全部つけておけばよかったと、今更ながら後悔した。

ここは銀座のビル。一、二階は店舗、三階が事務所になっている。四階から上は他の事務所が入っていた。宇野水香は三階にいた。                      

午前二時。この時間では、どのフロアにも人はいないだろう。だが、ビルの警備員が時間でまわってくるはず。何とかして知らせなければ。でも、防犯カメラもあるはずなのに、どうして……。

 水香は無意識に壁掛け時計をじっと見つめていた。

「お嬢さん、警備員は来ないぜ。大人しくしていれば危害は加えない」

 その男は慌てる様子もなく、落ち着き払った態度だった。声から察し、三十歳代だろうかと水香は思った。

水香が仕方なく頷くと、男は口を塞いでいた手をあっさりと離した。

「警備員に、何かしたの?」

「さあね。想像にお任せする」

 冷たい男の言葉に、水香は殺人の二文字が頭によぎり、背筋が寒くなった。

 男は水香が座っている椅子の真後ろに立ち、椅子の背もたれに水香の両手首を紐で縛りつけた。水香は恐ろしくて振り向くことができなかった。

「賢明な選択だ。そのまま、前を真っ直ぐ向いていたほうがいい」

「何が、目的なの?」

 男は含み笑いをしながら、余裕を見せている。とにかく、男を刺激しないように、時間を稼いで誰かが来るのを待つしかない。

水香は自分の声が震えるのを必死で抑えた。

「目的! わかりきったことを。ここは八百屋か?」

「宝石を、盗むの?」

「ちょっと分けてもらうのさ。こちらさんは、景気が良さそうだからな」

「私が一生懸命デザインした宝石を、持っていってしまうの?」

「へえ、お嬢さんはデザイナーなのか。一瞬高校生かと思ったぜ。ま、高校生がこんな時間にいるわけがないか」

 水香はというと、化粧っ気がなく、短い髪も洗いざらしのまま寝癖がついていて、服装は上下スウェットといういでたちだった。お世辞にも、二十歳を迎える年頃の娘がする格好とは言い難かった。

 水香はこの見ず知らずの泥棒に、じろじろと品定めされているような気がして、何処かに消え入りたくなった。

「……大学生よ」

「アルバイトか」

 男は水香の背後にある、事務机に坐ったようだった。事務所内を物色するでもなく、随分、暢気にしている。この男の他にもまだ仲間がいて、一階の店はもう荒らされてしまったのだろうか。それにしては静かだった。

「そう怯えるな。って言っても無理な話か。いいか、大人しくしていろ。俺はちょいと一仕事してくる」

 男は水香の口を布で塞ごうとした。

「待って、お店を荒らさないで。私が案内するから」

「何だと?」

 口を塞ごうとしていた男の手が止まった。水香も自分の言葉に驚いていた。泥棒に店を案内するなんて。でも、店がぐちゃぐちゃに荒らされるのを黙ってみているなんて、どうしても我慢できなかったのだ。

「ふん、どうせ保険に入っているんだぜ。壊したってまた元通りだ」

「違うわ。ショーケースを壊されたら、お店は暫く閉めなきゃならないし、警察も来て大変なんだから」

「なるほど。お嬢さんは、随分この店が好きなんだな」

 好き? この店が? いいえ、違う。これは義務。ウノ・ジュエリーの娘として生まれてきた私の義務。

「面白い。じゃあ、案内してもらおうか」

 男は、椅子に結わえていた手首の紐を一旦解き、後ろ手に縛り直した。そして、水香が先に立たされて歩いた。

 階段で二階の店へ下りる。その間も、男は刃物をちらつかせることもなく、水香の後をついて来た。

 護身術でも習っておくんだった。

水香はスポーツジムに通っていたが、男相手に格闘しても、到底、敵うとは思えなかった。

 水香は暗証番号とマスターキーで開錠し、先に店へ入った。

暖房が止めてある、寒々とした店内。ダウンライトが微かについている中、水香は真っ先に、防犯カメラが作動しているかを目だけで確認したが、作動中を知らせる赤いランプは点灯しておらず、小さくため息をついた。

「往生際が悪いお嬢さんだ。無駄なことを考えるな」

 手馴れている。きっと、何度も罪を重ねているのだろう。

助けを求めることを水香は諦めた。

後は自分で何とかするしかない。といっても、一人で捕まえるのは無理だ。だとしたら、後は何ができるか。警察がこの男を捕まえ易いように、手掛かりをしっかり覚えておくこと。それしかない。

「一番高価な宝石を渡すから、それを持ってここを出て行ってくれませんか?」

「へえ、アルバイトの大学生が、そんな物が入っている金庫を開けられるのか」

「開けられないわ。でも、あなたなら、きっと開けられるのでしょう?」

「変な女だな。泥棒に金庫破りを勧めるのか」

「だって、店を荒らされたくないもの」

 経営にも参加し始めていた水香は、金庫の開け方を父から聞き、知っていたが、男に教える気はなかった。

「それは予定していない。時間がかかるからな。それに、高価すぎる宝石は足がつきやすい」

 足がつきやすい宝石を盗んでもらおうという水香の考えは、読まれていた。

「でも、金庫には現金も……」

「金庫はもういい。ショーケースのキーを開けろ」

 男の強い口調に、水香は口を噤み、渋々硝子ケースの一つに手をかけた。

 鍵を持つ水香の手が震え、うまく鍵穴に差し込めない。

「俺がやる」

 男は水香の前に進み出て、鍵を受け取った。

 水香は薄暗がりの中、男の顔を確認しようと目を凝らした。

 サングラスをかけている男の真剣な横顔。髪は肩まであり、やや長めだが、男は意外にも、グレーのスーツを着てサラリーマン風だった。細身だが腕は太くて胸板も厚い。鍛え上げた体だと、スーツの上からでもわかった。身長も百八十センチはありそうだ。

 改めて、力では敵わないと水香は思った。

 落ち着き払った態度から、自分よりも年上だろうと思っていたのだが、同年代くらいのようだった。予想していた以上に男は若かく見えた。

よく観察して、覚えておこうと水香は思った。

「俺の顔は忘れろ。身のためだ。サツに聞かれても、顔は見なかったと言え」

「本当に、サングラスでわからないわ」

水香はどきりとした。こちらを向き、水香の考えていたことを見て取ったかのように男が言ったのだ。

「いいか。サツに言ったら、お嬢さんの安全は保障できない」

 男は水香の顔を覗き込むようにして、ゆっくりとそう言った。丁寧な言葉遣いが、逆に凄みを感じた。

「……わ、わかったわ」

 気丈に答えたつもりだったが、声が震えた。男が怖かった。

いつ豹変し暴力を振るわれるかわからない。相手は事務所荒らしの常習犯だ。もう、余計なことを考えないようにしよう。とにかく、早くここを出て行ってほしい。

 怯える水香を、男はまだ見つめている。

「あんた、宝石をデザインするのもいいけれど、自分を磨き忘れてやしないか? 元は良さそうだが、磨かないとそのままだぜ」

 男はそう言って、皮手袋をはめている手のひらで水香の頬をそっと撫ぜた。

「え?」

予想外のことを言われ、水香はぽかんとした。

「俺は、女を見る目には自信がある。そうだな、髪を延ばしたほうがきっと似合うぜ」

 今度は水香の髪を撫ぜた。

 襲われるかも。

水香は身の危険を感じて体を硬くした。

「勘違いするな、襲いやしない。女には不自由していない。ただ、女には綺麗でいてほしいだけだ」


    ******

「――ヒロって、気障なのよね。盗みに入った先で、普通そんなことを言うかしら。でも、後でその意味がわかったわ。ヒロの頭の中にはアリアちゃん、あなたがいたのよ。多分、ヒロはあの時、私にアリアちゃんを重ね合わせて見ていたのだと思う」

 Dはワインを飲み干した。

 当時、ヒロもDと同じく二十歳だ。その頃アリアは十三歳。それは丁度、アリアの前にヒロが現れ、母親、ななの元からアリアを連れ出した頃だ。

 母親、ななと生活していたアリアは、何処から見ても少年で、お世辞にも少女とは言いがたい姿だった。そのアリアと、身なりに構わないでいた当時のDを、ヒロは重ね合わせたのだろうかとアリアは思った。

 大学進学に伴い上京したヒロは、大学にはほとんど出席せず、泥棒に精を出していた。ヒロの女性遍歴はその頃はまだ派手ではなかったが、必ず女の影があった。

アリアが母の元からヒロに連れて来られたアパートにも、合鍵を持った女がいて、ヒロが散々てこずって別れたのをアリアは覚えている。

 そんな頃に、ヒロとDは出会っていたのか。

「はじめて聞いたって顔ね」

「……ヒロは私には何も話してくれないから」

 苦笑するDに、アリアは面白くなさそうに口を尖らせた。

Dは何を言いたいのだろう。こんな話を私に聞かせて。

アリアは自分の知らないヒロの一面を話すDに、苛立ちを感じていた。

「ヒロに会って、私は変わってしまったの。というか、自分をようやく解放できた」

「え?」

「ヒロに一目惚れ、だったの」

 照れ隠しをするようにDは笑った。

Dがヒロを好きだということは、アリアはよく知っていた。それを匂わすような言葉も何度か聞いていた。だが、初めて、Dの口からはっきりと聞いたアリアはショックだった。  

言葉では表せない、引き裂かれるような感覚。

ヒロを取られるのは嫌。

漠然とそんな感情が湧き上がってきた。

 そんなことを思うのは馬鹿げていると、何度も否定してみるが、感情は変えられない。

Dの気持ちは知っていたし、応援していたはず。今更、こんなに動揺するのは何故なのか。

アリアは自分の気持がわからなくなっていた。

それほど、Dの告白はアリアにとって衝撃だった。

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