4・宝石箱
「お前、昼間何かあったな?」
ヒロはハンドルを握りながら、アリアの変化を鋭く指摘した。
何か態度に出ていただろうか。
アリアはどきりとしたが、そ知らぬふりで「別に何もない」と、流れていく夜景に目をやりながら答えた。
「……ふん、まあいい。で、探偵ごっこはやめたんだろうな」
「いや、それが……」
「おまえ、Dを苦しめたいのか?」
「えっ」
アリアは思わずヒロの横顔を見た。
前を向いたまま、片手でハンドルを取り、開け放した窓に右肘をついて、ヒロは苦虫を噛み潰したような顔をしている。
Dと関係があることなのか。……もしかして、尋ね人はDだというのか。
「宇野水香というのは、Dのことだ」
ヒロは少し間をおいてから重々しく言った。
「やっぱり……じゃあ、愛香さんに会わせてあげたら……」
「馬鹿なことを考えるな。Dの現状で、家族の前に姿を現せると思うか?」
「でも、Dだということを隠しても、誰もわからないでしょう?」
「そんな簡単なことじゃない。家庭にはそれぞれいろんな事情がある。これ以上かき回すな。そして、Dには何も言うな、わかったか」
「……」
愛香さんはお姉さんのことをすごく心配していた。本当に黙っていていいのか。せめてDに、妹が探していることを教えてあげたほうがいいのではないか。
そんな風に思ったのだが、これ以上何を言っても無駄だと感じ、アリアは口を噤んだ。
それにしても、ヒロはDの家庭の事情を知っているのか。自分の知らないところで、お互いのことを打ち明けあっている。そう思うと、アリアは疎外感を感じた。
「いいか、言うな」
乱暴に車を止めて、ヒロは念を押すように言った。
そこは、豊島区東池袋の、来たことのないマンションの前だった。首都高速五号線の向こう側に、サンシャインビルが見える。アリアの住むマンションから、そう遠い場所ではなかった。
ひしめきあうように立ち並ぶビルに挟まれるようにして、そのマンションは建っていた。築十年は経過していそうだ。ヒロが入り口のオートロックキーに六〇一と打ち込み、呼び出しを押した。
「どうぞ」
スピーカーから、女の声が応えたと同時に、自動ドアが開いた。それは、Dの声だった。
ここはDの住むマンションだった。アリアは今まで来たことがなかったが、ヒロは勝手を知っているようで、さっさとエレベーターへ進み、四人も乗れば肩がつきそうな狭いエレベーターに乗りこんだ。
ヒロはよく来るの? アリアはそう訊こうとしたが、その前に、迷わずに進むヒロの行動で、よく来ているのだと察しがついてしまった。
自分といないとき、ヒロは何をしているのか。何処にいるのか。知らない時間の行動が、アリアをもやもやした気分にさせた。
最上階の六階に着き、ヒロが歩く後にアリアはついていった。
今回は、どんな『仕事』の話なのだろうか。Dと一緒に行動しなければならないのか。
しなければならない。
アリアは今思ってしまった言葉を、頭の中で繰り返した。Dと仕事をすることを苦痛に思っている?
「いらっしゃい、待ってたわ」
インターホンを押す前にドアが開いてDが顔を出した。
いつもの快活さはなく、長い髪を無造作に下ろしたDは、少しやつれているように見えた。
「来てくれて有難う」
Dはソファを二人に勧めながら、弱々しく微笑んだ。
何かあったのだろうか。
白いTシャツにジーパン姿のDは、不安そうな表情を浮かべてまるで別人だった。
アリアは戸惑った。
「今、お茶でも淹れるわね」
「俺たちに気を使うな、何か、困っているんだろう?」
ヒロはいつになく優しく声をかけ、Dの肩に手を添えてソファに座らせた。その隣に腰をおろしてDが話し始めるのを待った。アリアも向かい合わせに座った。
ヒロだけでも用が済んだのではないだろうか。
ヒロとDが仲良くなってくれたらいい。そう思っていたはずだが、Dに優しく接するヒロを目の当たりにして、アリアは居心地の悪さを感じ、目を泳がせていた。
居間は十五畳ほどのフロ―リングで、硝子のテーブルを挟んで二組のクッションの効いた生成り色の布製ソファと、小さなテレビがあるだけだった。
部屋の明かりは、ダウンライトとスタンドライトだけで薄暗かった。他に二部屋はありそうだ。多分、Dも他にアジトを持っているのだろう。アリアが住むマンションと同様、生活感がなかった。
「呼びつけてごめんなさい、実は……ちょっとごたごたを背負い込んだのよ」
Dは小さくため息をつき、眉間にしわを寄せて話し始めた。
宝石商宅に盗みに入り、無事仕事を終えた後、アジトで戦利品を確認したのだが、その中にDが見覚えのある品物があった。それは、妹が持っているはずの母の形見、ダイヤが埋め込まれている宝石箱だった。絶対に手放しそうもない宝石箱が何故他人に渡ったのか。父の宝石店が苦しくなって売ってしまったのか? しかし、そんな噂はDの耳には聞こえてきていないというのだ。
Dは奥の部屋から、サテンの布に包まれた宝石箱を持ってきて、テーブルに置いた。宝石箱は五×四センチ程度の手のひらに乗るほどの大きさ。小振りではあったが、純銀製で蓋の部分には薔薇のモチーフが刻まれ、周囲を小粒のダイヤが囲み、凝った細工が施されていた。
「父が母に贈った特注品で、ちょっとした細工があり、蓋の部分が二重になっていて、メッセージカードを入れられるようになっているの。でも、知らない人が見ても、その仕掛けはわからないようになっているのよ」
なにげなく、Dがその部分を開けてみたら、カードが入っていたということだ。
『お姉ちゃん、帰ってきて。愛香』
それは、姉、宇野水香に宛てたメッセージだった。
これは、どういうことなのか。
単に愛香が宝石箱から出し忘れたカードなのか。それにしては、何処にいるともわからない姉、水香に宛てたカードを書くのは不自然な気がした。
もしも、宝石商に渡った宝石箱が、姉の手に渡ることを予想して、妹の愛香がメッセージを入れておいたのだとしたら。宇野愛香は姉がDだということを知っていることになるのではないか。
「Dが盗みに入りそうな所へ、愛香さんが予め宝石箱を流した、そう考えられるっていうことだよね」
「……にしても、途方もなく気の遠くなるような話だな。いつDの手に渡るのかわからない宝石箱に、カードを仕込むとは」
Dの話をじっと聞いていたヒロが、眉間にしわを寄せて言った。
「そのカード、かなり古いもの?」
「わからないわ。色褪せてはいないけれど、日に当たらない隠し蓋の中だったから」
「でも、最近のものではないんじゃないかな。きっと妹さんはもう何年も、お姉さんを探し続けていたのでは」
「アリアちゃん、なんだか事情を知っているようなことを言うのね」
「いや、深い意味はないんだけれど。ただそんな気がしただけ」
Dがアリアの言葉に反応し、アリアは慌てて言葉を濁した。そして、不用意なことを言ってしまったと後悔した。
ヒロが黙れとでも言うように、きつい視線をアリアに投げかけている。
だが、本当にこのまま黙っていて良いのだろうか。Dの妹は姉を捜して直ぐそこまで来ているのに。
「それで、Dはどうするの。妹さんに会うの?」
「会えるわけ、ないじゃない」
Dは予想外にさばさばと答えたので、深刻に受け止めていたアリアは、拍子抜けした。
「じゃあ、どうしたいの?」
「宝石箱を愛香の手元に戻したいのよ。ただそれだけ。で、この面倒な役回りを、お願いしたいの」
Dは満面の笑みでアリアに微笑んだ。打ち明けてすっきりしたのか、それとも、さっきまでの深刻そうなDは、ポーズだったのかと思えるくらい、始めに見せたやつれた印象はなく、いつものDの自信に満ちた笑みだった。
「えっ。どうやって? Dに盗まれたはずの宝石箱をハイどうぞって、愛香さんに渡すわけにはいかないでしょう?」
「だから、智恵を借りたくて呼んだのよ。アリアちゃんだったら、何とかしてくれるかなーと思って」
面倒なことを押し付ける気なのか。
アリアは一瞬でも心配して損をしたと思った。助けを求めようとヒロに顔を向けたのだが、ヒロはジャケットから煙草を取り出してマッチで火をつけ、そっぽを向いて知らん顔だ。
「ヒロ、ちゃんと聞いてるの? Dの話」
「お前だったら何とかできるだろ?」
ヒロは他人ごとのようにそう言って、煙草の煙を天井に向かってため息交じりにふうと吐いた。
初めから頼みごとを受ける気などないヒロの態度に、アリアは閉口した。
ヒロのDに対する態度は、優しいのか冷たいのかよくわからない。心配しているような態度かと思えば、関心がなさそうな態度を見せる。そんな二人の関係がアリアには理解できなかった。
「じゃあ、アリア。後を頼む。俺は飲みに出掛けてくる」
くわえ煙草のまま、ヒロは立ち上がった。
「えっ? ちょっと待って」
「いいの、後はアリアちゃんと話せば済むわ」
「D、あんまり遅くならないうちにアリアを返してくれ。マンションにいる小姑が角を出すからな」
「わかったわ」
ヒロは背中を向けて、片手を挙げてひらひらさせ、部屋を出て行った。
「ヒロって冷たいよね」
「ふふ、あれでも彼なりに気を使っているの。優しいのよ」
そんなに長く過ごしているわけでもないのに。
ヒロのことを全て理解しているようなDの口振りに、アリアはちょっと引っかかった。
「ねえ、アリアちゃん、少し昔話に付き合ってくれない? これ、とっても美味しいワインなのよ」
Dはウインクして、キッチンからドイツ産の白ワインをぶら下げてきた。もう片方の手にはワイングラスを二客持って。
ワインに釣られたわけではないが、アリアはDの過去に耳を傾けることになった。