3・好き
機嫌良く、車を運転している東昇の横で、アリアは不安になっていた。
安請け合いしたのはいいけれど、人探しなんてそう簡単にうまくいくものだろうか。手掛かりも僅かしかない。一緒について回ったところで、何の足しにもならないのではないか。
アリアの心配をよそに、昇は鼻歌交じりで上機嫌のようだった。
「なあ、昼飯は何がいい? 俺がおごってやる」
「仕事をする前から、昼食の話? 昇、仕事やる気あるの?」
アリアはため息をついた。
「仕事の後の楽しみがないと、張り合いがないだろう? こんな機会は滅多にないから」
「こんな機会って?」
「ええと、その……いやいいんだ、なんでもない」
昇は歯切れが悪く、笑って誤魔化した。
そして話題を変えるように、前日、いかに自分が苦労して調査して情報を得たのかを、昇は浪々と語った。
かいつまむと、昇は宇野愛香に、姉の水香が親しくしていた友人を訊いたのだが、全く心当たりがないとの返答しかなく、大学や高校の卒業名簿を片端から電話したということだった。
「――で、結局、大学の親しい友人は見つからず、高校時代の名簿から、辛うじて宇野水香のことを覚えていた人物がいたというわけさ」
「その人の家へ向かっているの?」
「そういうこと」
目的地の住宅街に着こうかという時、アリアの携帯電話が鳴った。
「ヒロだ」
何も表示されていない液晶画面を見て、アリアはすぐわかった。
アリアの携帯電話は、ヒロか柚子、ごくたまにDからかかってくるだけだ。液晶画面に名前が出ないのは、携帯電話を持っていないヒロからなのだ。
「チェッ、またヒロか……」
携帯電話に出たアリアの横で、昇が面白くなさそうに舌打ちした。
「うん……今、探偵と一緒にいる。ちょっとわけがあって……手伝うことになって」
昇に関わっているということで、ヒロに怒られそうな気がして、アリアはこわごわ事情を話した。
「またあの探偵か! いい加減にしろ。どうしてお前が人探しを手伝わないとならんのだ」
案の定、ヒロは怒鳴った。
「でも、そうなってしまって……あ、そうだ。ヒロ、宇野水香っていう人知っている? その女性を探しているんだけれど。もしかしたたら、同業かも……」
「宇野? すぐに手を引け」
アリアが言い終わらないうちに、ヒロは一言、一方的にそう命令した。
それは、命令以外の何ものでもなかった。
ヒロは聞く耳を全くもっていない。これ以上、訊いても無駄だ。だが、ヒロは宇野水香という名前に反応したようだった。もしかして、何か知っているのかもしれない。だとすると、そのことに触れてほしくないのだろうか。
アリアの頭の中で様々な憶測が飛び交った。
「わかったか、アリア。その件から直ぐに手を引け」
ヒロは念を押した。
「そんなことより、今夜は時間をあけておけ。わかったな」
ヒロはそう言い捨てて、電話を切った。
「おい、ヒロは宇野水香のことを知っていたのか?」
「何も訊けなかったからわからない」
「当てにならないなあ」
今夜、ヒロに会った時にもう一度確認しよう。状況が把握できるまで、ヒロが知っていそうだということは伏せておいた方が良いかもしれない。
アリアはヒロの反応を昇には伝えなかった。
午前中、二件ほど高校時代の同級生を訪ねたが、手掛かりとなるような収穫はなかった。
分かったことといえば、宇野水香は典型的な優等生だったということくらいだ。同級生にも、黙々と勉強に打ち込んでいる彼女の印象しか残っていなかった。彼女には特に親しい友人もいなかったようだ。
「あ〜あ、無駄足だったな。腹も減ったし、昼飯にするか! さて、アリアは何を食べたい? 俺、おごるからさ」
「まだ、十一時を過ぎたばかりだよ?」
「今からレストランを探して車で向かったら、いい時間になるだろう?」
昇は車に乗り込んでから、真っ先にそう言ったので、アリアは閉口した。
サボることしか考えていない昇を、アリアはちょっと困らせてやりたくなった。
「……じゃあ、会席料理がいい」
「会席料理? って、それ日本料理か?」
「ここからだったら、目白の椿山荘にある『錦水』がいいな」
「それ、日本料理屋なのか?」
「料亭。二人で三万円くらいかな。あ、部屋代は一、二万かかるけれど」
「ちょ、ちょっと待った」
「ほら、目白通りを行けばあるから」
「いや、それは分かるが……」
気が進まない昇を、アリアは強引に誘導した。
まもなく、緑が生い茂る中にホテル、椿山荘が見えてきた。
二万坪の日本庭園の中に、料亭『錦水』はあった。建物は純和風の造り。いかにも高級そうだ。
「ア、アリア。ちょっと、その……」
「なに? 奢ってくれるんでしょ?」
昇は入り口で立ち止まった。きっと昇は予算を心配しているに違いなかった。そんな昇を見て、アリアはおかしくて、ついにやついてしまう。
「冗談だよ。さ、もう一箇所別にレストランがあるからそっちへ行こう」
「からかったのか!」
「なにも、私に見栄を張らなくてもいいのに。薄給なのはよーく知っているんだから」
「別に見栄なんか……」
昇は口を尖らせた。
アリアはちょっとからかいすぎたかなと思いながら、レストランに向かった。
レストランといっても、やはり和風の造りで高級感があった。
「予約していないのですが、お願いできますか」
「少々お待ち下さいませ」
着物姿の仲居が、確認に戻った。
「予約制なのか?」
昇はまた心配顔になっている。
「多分、平日だから大丈夫」
「そういう問題じゃなくて……」
「お待たせ致しました。お客様、どうぞ」
廊下を案内され、アリアたちは座敷に通されて向かい合わせに座った。
床の間があり、綺麗に花がいけてある。座敷はいくつかあり、通された二十畳ほどある座敷には、他の客はいなかった。
「おい、ここも高そうだぞ」
仲居が下がってから、昇は体を乗り出して、アリアに耳打ちした。
「そんなに高くないよ。六千円か八千円位だったから」
アリアは畳に両手をついて足を伸ばし、くつろいだ。
「ふ、二人で一万以上!」
昇は目を丸くしている。
「私が奢ってあげる」
「いいよ、俺が奢るって言ったんだから」
「そんなにむきにならなくても」
「むきになってなんかない。このくらい、大丈夫だ」
「わかった。ご馳走になります」
昇の懐具合が心配だったが、アリアは素直に従った。
「おまえって、よくこういうところに来るのか?」
「たまにヒロと来るけれど」
「ヒロか……」
昇は少し顔をしかめた。
「何か、言いたそうだね」
「別に……仲がいいなと思っただけだ」
「引っかかる言い方だなあ」
「さっきから、気になっていたんだが、折角女の姿なんだから、もうちょっと女らしい言葉にならないのか?」
「だって、男だもん。それに、昇の前だから、そんなことする必要ない」
タイトスカートのスーツなんてやめておけばよかった。窮屈だ。
昇の前でこの姿なのは居心地が悪かった。それに、昇の視線が気になっていた。いつもの視線とは違う。少し照れたような、優しい視線。その視線に、アリアはどう応えていいのかわからなかった。
「その姿で、その言葉はどうも違和感がある」
「じゃあ、男の姿に戻る?」
「いや、待て。そのままでいい!」
そんな会話をしているところへ、仲居が料理を運んできた。
その会話は仲居の耳に入ったのだろう。仲居は好奇心に負けて、ちらりとアリアの方を見た。
可愛らしく、色とりどりに盛られた会席料理が二人の前に置かれた。
「どうぞごゆっくり」といって、仲居は下がった。
「ほら、お前が変なことを言うから」
昇も仲居の態度に気がついたようだ。
「昇が悪いんだよ。女らしくしろ、なんて言うから」
「だって」
「彼女役はごめんだ。ちゃんとした彼女をつくったら?」
ヒロと同じだ。私をおもちゃにしている。アリアは口を尖らせた。
アリアは崩していた足を座りなおし、頂きますをしてから、箸を持った。
「そんなつもりはない。俺は、お前じゃないと意味がないんだ」
真っ直ぐアリアを見つめる瞳。アリアは箸を落としそうになった。
聞き返せない。聞き返すにも勇気がいった。十無と同じ顔、同じ声の昇。そんな風に見つめないで。どうしたら良いのかわからなくなる。
アリアは顔が紅潮するのが自分でもわかった。
「前にも言っただろ? 俺、お前が犯罪から足を洗えるよう、助けてやるって。俺、本気だから」
「勝手に決め付けないでよ。自分のことは自分で決める」
「お前、自分じゃどうにもならないんだろう? ヒロとも手を切れないし」
「その話はもういい」
「よくない。俺には重要なことだ。ヒロと一緒にいたらだめだ。俺、ヒロからあのことを聞いてから……お前、ヒロに……」
言いかけて、昇は口ごもった。
「あのことって?」
何を聞いたというのだろう。もう、過去のことは忘れたい。そっとしておいてほしい。そんな思いつめたような顔で見つめないで。
アリアは無理に話題を変えようとした。
「……折角の料理、楽しく食べよう? あ、この西京焼き、美味しい」
昇は真面目な顔で、悲しそうにこちらを見つめている。
真面目な顔をしていると、十無と瓜二つ。十無に見つめられている錯覚さえしてしまう。
高級なランチは、どんな味だったのか、何を口にしたのかわからないままに終えた。
「兄貴のことが、好きなのか」
レストランを出て、日本庭園を並んで歩いて駐車場に向かう途中、昇が唐突に訊いた。
足を止め、硬い表情の昇。
「私は男だから、そういう対象ではない」
「はぐらかすな」
「どうしたの? いつもの昇と違う」
「これも俺だ」
アリアは昇に腕を引っ張られて抱き締められた。昇の大きな手が、アリアの細い肩と腰をしっかりと包み込んだ。
「俺、お前を苦しめる全てのものから、お前を守る」
「昇、離して、苦しい」
きつく抱き締められた腕の中で、アリアは昇の男臭さに戸惑っていた。
さっきまでからかいの対象で、悪ふざけもできる気安い悪友のようだったのに。女性の姿が昇を混乱させてしまったのか。
「言っておくが、俺はいつものお前の姿でも同じことをしたからな」
「昇……」
「この場でキスでもしたいところだが、これ以上は、おまえに蹴りいれられそうだから、この次にとって置く」
昇はウインクし、抱き締めていた腕を離した。いつもの茶目っ気のある昇に戻り、アリアの前をさっさと歩き出した。
「俺、本気だから」
青々とした緑の中、両手をスラックスのポケットに突っ込んで歩きながら、昇は大きな声でそう断言した。
本気って、どういうことだろう。
アリアはマンションへ帰ったあと、一人悩んでいた。
ヒロの指示通り、アリアは夕方までには帰ってきたのだが、疑問と混乱が頭の中を占めていた。
椿山荘を出た後の昇の態度は、普段と変わらず、日本庭園での出来事は思い違いだったのかと思えてしまうくらいだった。
しかしその後、宇野水香の高校時代の同級生を一件訪ね、収穫もなく車でマンションまで送ってもらった時、昇は屈託のない、からっとした笑顔をこちらに向けて、こう言ったのだ。
「俺、いつものアリアの姿でも構わないけれど、やっぱり女の子姿のアリアの方が好きだな」
昇のストレートな物言い。アリアはその言葉にどう反応していいものか、咄嗟に何も言えなかった。冗談でしょうなどと、返せばよかったかもしれない。でも、その後の昇の反応が怖かった。
俺、本気だから。
昇の真剣な声と態度が、アリアに冗談で流せないと、強く思わせた。
アリアは無言で、昇の視線を振り切るように車から降り、マンションへ逃げ帰ったのだった。
アリアは変装をとき、黒いサングラスをかけていつもの姿に戻りながらも、まだ昇の言葉が頭から離れないでいた。鼓動も早まったままおさまらない。
昇はアリアのことを男性だと思っているはずだった。昇はその自分を好きだという。
真っ直ぐな瞳をこちらへ向けた昇の顔が、アリアの脳裏に焼きついていた。
十無と違い、気安く憎まれ口を叩ける存在だった昇。
アリアに昇を男として意識させるには充分な出来事だった。