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28・秘密

「柚子、助けてくれ」

 東昇が悲鳴のような電話を柚子にかけたのは、アリアが柚子から逃げ出して三日目の夜だった。アリアはなんとなく柚子のいるマンションに帰りそびれ、別にある都内の古いアパートでだらだらと過ごしていたのだった。

「もう限界だ、見ていられない。柚子、こっちに来て何とかしてくれ」

 柚子は元気よくやってきて、いそいそと掃除をしたあと、鼻歌交じりで夕食の準備に取り掛かった。

「アリア、しっかり食べろ」

 アリアはこの三日間まともな生活をしていなかった。毎日、昼過ぎに起きて、外食でブランチを摂り、いったん帰宅するのだが、薄暗くなるとまたふらふらと出かけるという状態だった。柚子と生活し始める前の状態に戻っただけのことなのだが、以前のアリアを知らない昇には、自暴自棄になっているとしか思えず、心配して昼夜となく通っていたのだった。

「アリア、ごめんね。アリアが踏み込まれたくないところへ土足で入り込もうとした私が悪いの」

「ううん、私のほうこそ悪かった」

 柚子お手製の熱々のドリアを食べながら、アリアも謝った。

「俺では役に立たなかったようだ。折角アリアを独り占めできたのに」

 昇は日増しに言動が大胆になっていた。一緒にドリアをぱくつきながら、柚子の前でも平気でアリアへの想いを口にする。

「馬鹿なことを言うな」

 アリアはそのたびに赤面した。堂々と言われると、どうしていいかわからなくなってしまうのだ。

「昇、アリアと何かあったのね」

 柚子が昇を肘でつついて冷やかしている。昇はへへへと照れ笑いした。

 そんな柚子を見て、アリアはほっとしていた。明るく元気ないつもの柚子だ。

「おまえ、柚子のいるマンションへ帰るよな」

「そうする」

「じゃ、柚子。明日の朝食はフレンチトーストな!」

「えー! 昇、また毎朝通ってくる気?」

 ご馳走様をして席を立ったアリアは、じゃれあう二人をキッチンに残し、軽い足取りで部屋を片付けに行った。


「なあ、俺がアリアを好きだと言ってもおまえはなんとも思わないのか?」

「うん?」

「だからその、おまえはアリアのことが好きなんだろう?」

 アリアが部屋へ行ったのを見計らって、昇は気になっていたことを思い切って柚子に訊いたのだった。だが、柚子は何も答えないで最後の一口を食べ終え、皿をシンクに運んで洗い物を始めた。昇は仕方なく、柚子が皿を洗い終わるのを傍に立ってじっと待っていた。

「アリアって、女の子に興味ないの。残念ながら」

 昇を見上げた柚子は、皿の水切りをしながら肩をすくめて寂しそうな笑顔を見せた。そんな柚子に昇は何の言葉も返せず、髪をかき上げてすまなさそうに柚子を見つめた。

「いいのよ、気にしないで。仕方ないもの。そんなことはいいから、昇、手伝って」

「うん」

 これ以上何も訊くなと言わんばかりの柚子に、昇は手渡された皿を黙々と拭いた。

アリアは柚子のそんな気持ちを知らず、柚子の笑顔に安心しているのだった。


 アリアがマンションに帰った翌朝から、昇は早速朝食時に顔を出して何かとアリアに絡むといった、以前と同じような平穏さが戻っていた。少なくとも、表面的には。だが、アリアは十無の話題を避けていたし、柚子もまた、やるせない気持ちを押し殺していたのだった。

 その日の夕食後、アリアはワインを飲みながら、ソファに座ってうたた寝をしていた。

「アリア、もう遅いからベッドで寝なさいよ」

 柚子が声をかけても、アリアは熟睡していた。

 柚子は背もたれに頬を乗せて、無防備なアリアの寝顔を暫く見つめていた。

 誰も知らないアリアの顔。

 普段サングラスで隠されている薄茶色の瞳に長い睫毛。柚子は穏やかな寝顔を眺めながら、自分しか知らないアリアを独り占めしている優越感に浸っていた。同時に不安がよぎった。

こんな生活をあと何年続けることができるのだろう。アリアが誰かと一緒になれば、アリアと血のつながりのない自分の居場所はここにはないのだ。

誰にもアリアを取られたくない。

その気持ちは今も強かった。

アリアの髪を撫ぜようと手を伸ばした柚子は、指先が触れる前にその手を引っ込めた。

だめ。今までの距離を保たなければ、アリアはきっと離れていってしまう。柚子はそれが怖かった。

アリアがいつまでも一緒にいてくれたら。

柚子はアリアの寝顔を見つめながら、そう願った。

と、テーブルに置いてあったアリアの携帯電話が振動した。気持ちよさそうに眠るアリアを起こしたくなくて、柚子は咄嗟に携帯電話を手に取り、急いで自室へ走った。液晶画面にはDと表示されていた。

 柚子は苦手なDからの電話に躊躇したが、「はい」と、電話に出た。

「あら、柚子?」

「アリア、眠っているの……」

「そう。じゃ、伝えておいてくれる?」

 一瞬、柚子だとわかると嫌そうな声を出したDだったが、かなり機嫌がいいのか柚子に伝言を頼んできた。

「私でいいの?」

「伝言くらいできるわね」

 Dはふふっと電話口で笑った。

「ヒロは帰ったからって、伝えておいて」

 ヒロが帰ったというのに、妙に機嫌がいいDに、柚子は胸騒ぎがした。

「D、何かいいことあったの?」

「わかる? 特別に教えてあげる」

訊きもしないのに、Dは続けた。

「ヒロが指輪をくれたの。ピンクダイヤ」

 Dの声が弾んでいた。

 柚子は無論、盗んできたダイヤを思い浮かべたのだが、Dが嬉しそうにこう付け足したので、はっとしたのだった。

「これ以上はヒ、ミ、ツ」

それは多分、ヒロからの贈り物なのだろう。もし、アリアがこのことを知ったら……本当に十無に、いやもしかして昇に傾いてしまうかもしれない。

柚子は指輪のことをなんとしてでもアリアには秘密にしておこうと思った。


その夜遅く、ヒロが訪ねてきたときには、指輪の話が出るのではと、柚子はひやひやしながら廊下で耳をそばだてて、二人の様子を伺ったのだった。

そんな心配をよそに、ヒロの顔を見るなり、アリアはヒロに抱きついた。

「ヒロ!」

「どうした、おまえから飛び込んでくるとは珍しい」

「だって、ずっと顔を見せないから」

「そうか、たまにこういうのもいいな。時々、姿を消すとするか」

「そんなの嫌だ」

 アリアが泣きそうな声を出した。

「馬鹿だな、冗談だ」

 ヒロは可愛くてしょうがないとでもいうように、アリアを抱き締めた。

元の鞘に納まってしまった。アリアの涙に弱いヒロ。

 安堵。柚子はほっとして肩の力が抜けた。だが、次に二人に目をやったとき、アリアを抱き締めながら、困ったような複雑な表情を浮かべているヒロを、柚子は目にしてしまったのだ。

ヒロの気持ちがアリアから離れてきている。アリアをとどめるものがなくなってしまう。そうしたらアリアはあの双子を頼るかもしれない。そうなれば、自分からアリアが離れていってしまう。

 柚子は苦しさで息が止まるような思いだった。

 

 一方、アリアは柚子の気も知らず、自分のことで精一杯になっていた。

東十無がマンションへ顔を見せない日々。それでもアリアの寂しさは薄れていた。柚子とぎくしゃくして別のアパートに一人離れたとき、昇が昼夜となく頻回に来て、何かと世話を焼いてくれていた。うるさいと思いながらも、寂しがり屋のアリアは、昇が傍にいることを受け入れ、それがなんとなく普通になってしまったのだった。

そして、アリアに会いに来たときのヒロの態度も、アリアの気持ちを大きく揺るがした。甘えたくて思わずヒロに抱きついてしまったアリアだったが、今までのヒロとは違うと感じたのだ。強引さはなく、ただただ優しかったヒロ。アリアは距離を感じたのだった。

きっと、Dと何かあったに違いない。もう、ヒロに甘えてはいけない。こんな風に抱きしめてもらうのはこれが最後だと、アリアはそのとき自分に言い聞かせたのだった。

頼れる相手がいなくなって不安になっているアリアのところへ、昇がしょっちゅう顔を出し、優しくアリアを受け止めてくれていたのだった。

「昇、少し気になっていたんだけれど」

「なんだ?」

「この前、事務所にクッキーを持って行ったとき、事務の女の子が私の名を聞いたとたんに態度が変わったれど、私のことを何か話していたの?」

「ああ、そういえば俺の好きな奴はアリアっていう奴だって、前に言った覚えが……」

 花が散りかけた桜の木の間から見える空を、昇は眩しそうに目を細めて見上げ、世間話をするように臆面もなく言った。

昇の「好きだ」攻撃は、何度言われても慣れない。アリアは今回も赤面して俯いた。足元に桜の花弁が落ちていた。

アリアは昇の見つめる眼差しが居心地悪く、たわいもない話をしようとそんなことを訊いたのだった。なのに、また「好きだ」という言葉を聞かされてしまった。

昇が桜を見たいと言い、アリアは強引にマンションから引っ張り出されて、近所のお寺の境内につき合わされたのだった。

時折、残り少ない桜の花弁が、風に散らされて舞う。昼下がりの強い日差しの中、二人きりで並んで歩いていたのだった。

「アリアが男だって言っていなかったからなあ。あの日、アリアが帰ってから、東さんは女好きだと思っていたのにとか言われて、根掘り葉掘りお前のこと訊いてくるし、キャーキャー騒がれて散々だった」

 きっと俺のこと無茶苦茶酷いイメージで見られてるよなあと呟きながら、髪をかき上げた昇に、アリアは思わず笑みがこぼれた。

昇といるとほっとする。

アリアにとって、昇は安定剤のような存在になっていた。

十無との辛い恋から、アリアは逃げ腰だった。そして、その分昇へ気持ちが傾いていったのだった。


「ヒロ、こんなものを買って、今頃後悔しているかしら」

桜色のダイヤを指にしたDは、ひと時の幸福を手にしたのだった。

「つい柚子には口を滑らしてしまったけれど、大丈夫よね」

 信号待ちの間、Dはハンドルを握りながら左手の薬指に光る指輪を眺め、一人呟いた。

「やっぱり、アリアちゃんには言えない」

アリアに後ろめたさを感じ、そう声に出したのだが、柚子からアリアへ知れて欲しいという思いもあった。

アリアに自分の過去を話したのは何故か。妹が心配だとか、過去を清算したいからとか奇麗ごとを並べてみたけれど、ただヒロとの長い付き合いをアリアに知って欲しかったのだ。自分もあなたと同じくらい、ヒロを知っているのよ。そう誇示したかった。いつまで経ってもアリアには敵わない。そんな気持ちがDを焦らせたのだった。

刑事とアリアを強引に、という企ても一瞬頭をよぎったものの、時が経ち冷静になると、その野望も無謀なものに思えるのだった。

陽の光を受けて輝くピンクダイヤをちらりと見たDは、諦めのため息をついた。浅はかな自分が嫌で仕方がなかった。

こんなことをしてみても、結局、何も変わらない。

Dの予想通り、それぞれの微妙な気持ちの均衡は保たれ、表面上は以前と変わりないように見えた。もしこのままダイヤのことが秘密にされ、柚子というパンドラの箱に封印されたままだったなら。その鍵はDが握っているのだ。それが開かれたとき、それぞれの心にひと波乱をもたらすことになるのだろう。

フロントグラスに桜の花弁が一枚、どこからともなくひらりと舞い落ちてきた。暫く張り付いていた花弁は、再び風に舞い、Dの視界から消えていった。

こんなふうに、自分の春は一瞬で吹き飛んでしまうのかしら。

そんな不安に、Dは重いため息をついた。

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