27・苛立ち
満開の桜と清々しい青空さえ憎らしく思えるほど、アリアは苛々していた。その原因は三つほどあった。一番の原因は、東十無が昇のことが好きなのかなどと、とんでもないことを訊いてきたことだった。
どうして。昇のことを十無と間違えたのだと言ったのに。
アリアなりに、精一杯のアプローチをしたつもりだった。柚子が十無に会ってみれば自分の気持ちもわかるというから、勇気を出して会いに行ったのに、十無の言葉にカチンときて、さっさと帰ってしまったのだ。その後、十無からは何の音沙汰もなかった。
アリアは自分の気持ちをまったく汲み取ってくれなかった十無に腹を立てていた。そしてもう一つ、ヒロがあの事件以来、電話をしてこないのだ。今までも一ヵ月くらいは平気で連絡してこないことが多々あったのだが、Dといるとなると、アリアは落ち着いていられなかった。
傍にいて欲しいときにいない。アリアは寂しさを募らせていた。それに追い討ちをかけるように、柚子の態度までもがよそよそしく、アリアのストレスになっていた。
そんな険悪なところへ、宇野愛香が礼を言いに訪ねて来た。
「私が素直になれなかったせいで、肇さんにいっぱい心配かけちゃった」
あれから、島崎肇とはうまくいっているとのことだった。姉の水香とはその後会えていないようだが、愛香は幸せそうな笑顔を見せた。
「二人きりの姉妹だもの。離れていても、生きていればきっとまた会える。それに、お姉ちゃんはどこかからこっそり見守ってくれている気がするの。そうよね、アリアさん」
愛香は差し向かいのアリアに微笑んだ。その眼差しは、お姉ちゃんにそう伝えておいてねと、頼んでいるようだった。
Dに会えたら、伝えよう。アリアは大きく肯いた。
「柚子ちゃんはいいね。いつもお兄さんと一緒で」
紅茶を勧めた柚子に向かって、愛香が笑顔を向けたとき、柚子の顔が強張ったのをアリアは見逃さなかった。
柚子が泣いていたあの夜から、柚子は変わってしまった。怒っているわけでもないが、常にぴりぴりした感じが伝わってくるのだ。アリアが優しく声をかけても、柚子の好きなケーキを買ってきても、その場では笑顔を見せるのだが、またすぐにアリアの行動を逐一伺うような行動をとるのだった。アリアは息が詰まる感じがして、外出が増えていた。
愛香が帰ったあと、そんな状態の柚子と二人きりでいることに息苦しさを感じたアリアは、上着を手に取った。
キッチンにいた柚子は血相を変えて、アリアの前に立ちはだかった。
「もう夕食なのに、どこへ行くの? 何時に帰るの?」
「食事はいらない」
アリアは柚子をよけて、玄関へ行こうとしたのだが、柚子がしがみつくように抱きついてきた。
「どこにも行かないで」
「少し放っておいてくれないかな。干渉しすぎだ」
柚子に優しくしようと努力していたのだが、干渉されることに慣れていないアリアは、我慢の限界がきていた。
「だって、心配なんだもん」
「何が?」
言葉の端々に苛々が滲み出た。このまま話していたら、酷いことを言いそうな気がした。でも、アリアは自制できなかった。
「……」
「尾行までしているね?」
柚子は黙ってアリアの背に回した手に力を入れた。
「柚子、変だよ」
「アリア、十無が好きなの?」
「馬鹿なことを訊くな」
触れて欲しくないことをつつかれたアリアは、思わず声を荒げた。それでもなお、柚子は執拗に訊いてきた。
「ねえ、ちゃんと答えて。十無のところへ行くの?」
「……暫く、別に住むことにする」
「いや、行かないで。一人にしないで!」
アリアは泣きそうな柚子を振り切って、マンションを逃げ出した。
今まで程よい距離を保ってうまくやってきたのに、柚子がわからない。理解できない。柚子を泣かすことはしたくないと思っていたのに。ヒロがいない今、柚子だけが安らげる場所だったのに。
アリアはこれ以上どうしたら良いのかわからなかった。いったん、柚子と距離を置いてみることしか思いつかなかったのだ。
「おい、アリア」
マンション前の歩道で、アリアは東昇に出くわしてしまった。昇は片手を大きく振って元気よく駆け寄ってきた。
今は会いたくないのに。
昇と会うのは、十無だと勘違いしてしまったあの日以来だった。アリアはどんな顔をしたらよいのかわからなくて俯いた。
「どこへ行く?」
「関係ない」
横に並んで歩く昇に、アリアは顔を見もしないで返事をした。
「冷たいなあ。でも、俺にも関係あるぜ。俺はお前が好きだから」
直球の昇。それも、にっこり笑顔で。アリアは赤面した。
アリアはサングラスをかけていたのだが、昇に感づかれないように昇から顔を背けて、行き交う車に目を向けた。
「柚子と喧嘩でもしたのか」
「喧嘩にもならない。訳がわからない」
鋭い昇の一言に、アリアはつい苛々と本音を吐いた。だが、昇はそれ以上深く訊かずに飯でも食おうと言って、アリアを池袋の居酒屋まで強引に引っ張って行った。
「いちいちどこに行くのかしつこく訊くし、べったりついてくる。おまけに尾行までする。異常だよ」
「そりゃ、まるで、夫の浮気を疑っている妻って感じだ」
カウンターに片肘をつき、アリアの横で一通り黙って聞いていた昇は、食べかけの焼き鳥の串でアリアを指しながら、にやにやしている。
「人が困っているのに、面白がるな」
アリアはサングラスの奥から昇をにらみつけ、残り少なくなっていた三杯目の水割りを飲み干した。
「ああ、ごめん。怒るなよ。柚子はお前のことが好きなんじゃないのか? 最近、柚子がやきもちを焼くような出来事があったとか」
昇にそう訊かれて、アリアは十無に会いに行ったときのことを思い返した。
アリアはなんとなく言い辛くてこのことは昇にはふせていたのだが――もし、あのとき、柚子がこっそり見ていたとしたら。だとしても、今まで柚子はアリアと十無を近づけるような行動をとっていたくらいだから、それが急に変わることなどあるだろうか。アリアは昇の考えには同調できなかった。
「妹みたいなものだと言っても、女の子なんだから」
そんなはずはない。柚子はアリアが女だと知っているのだから。
「ひょっとして、お前と俺のことを疑って、俺にやきもちを焼いているとか」
「馬鹿馬鹿しい」
満席の居酒屋で、人目をはばかることなく、そんなことを言った昇に、アリアは赤面して俯いた。アリアの隣に座る二人組みの若い女性が、ちらちらとこちらのほうを好奇の目で見た。
端から見れば、今のアリアは男なのだ。昇はその視線を知ってか知らずか声を抑えることなく話を続けた。
「でも、その行動はもろ、そんな感じじゃないか。浮気調査をこなしている俺が言うんだから、間違いないぜ」
まさか。
「う〜ん。柚子もライバルか」
昇は腕組をして真剣に困っている。
どこまでが冗談なのか、本気なのか。アリアはおかしくなってくすりと笑った。昇とは、あんなことがあったあとでも、一緒にいると和んでしまうのが不思議だった。
「で、お前は誰が好きなんだ」
「え?」
唐突に訊かれて、アリアが言葉に詰まったところで、都合よく携帯電話が鳴った。
「はい」
返事をしたのだが、電話はぷつりと切れた。地下の店のため、電波状態が悪いようだ。すぐまたかかってきた。ヒロに違いない。
「外に出る。昇、ご馳走様!」
「おい、このまま帰るのか」
アリアは席を立って、昇にさよならと手を振りながら、急いで店を出た。
ヒロからの電話を切らしたくない。アリアは階段を駆け上がりながら電話に出た。
「雑音がひどいな。お前、どこにいる?」
「地下の居酒屋にいたから。ヒロこそ、ずっとどこにいっていたの」
「ちょっとな」
「Dの、ところ?」
「……そうだ」
思い切って訊いてみたのだが、ヒロはすんなりと肯定した。
Dと一緒にいることを隠さないのか。
アリアは腹が立った。隠されても腹が立つのだろうが、面白くない。ひどく酔うほど飲んでいなかったが、精神的に不安定になっていたアリアは、感情の押さえがきかなくなっていた。
辺りに注意を払う余裕もなくなっていたアリアは、地上に出て雑踏の中で立ち話をしていたにもかかわらず、Dの名を連発していた。
「ヒロ、Dが好きなの?」
「何、馬鹿なことを」
「……私のことはいいから。Dを大事にしてあげたらいい!」
そんなことを言うつもりはなかったのに。
ヒロがDといると思うと、アリアはつい冷たく当たってしまったのだ。
「馬鹿! 声が大きい」
背後から駆け寄ってきた昇が、いきなりアリアから携帯電話をもぎ取って、電源を切ってしまった。
「昇! 何するんだ」
「落ち着け、その名はまずいだろう。お前どうかしてる」
ヒロが離れていってしまう。そのことで頭が一杯だったアリアは、昇に小声で指摘されて、ようやくDの名を公然と口にしていたことに気がつき、うなだれた。
何をやっているんだろう。
「お前、やっぱりヒロのこと……」
「……」
アリアは自分の気持ちをどう言い表せばいいのかわからなかった。アリアは足元に視線を落とした。
瞬きをしただけで涙が落ちそうだった。こんなところ、昇に見せたくない。そう思っても泣けてくる。
無性に寂しい。一人になりたくない。
そんな風に思いながら、アリアははっとした。ヒロの行動に口を挟んで、柚子と同じことをしている自分に気づいたのだ。
柚子はきっと寂しかったんだ。
「はは、柚子の気持ちがわかったような気がする」
アリアは柚子に優しくできなかった自分が嫌になり、また泣けてきた。その涙の意味もわからず、昇はアリアを抱き締めた。
「俺がいる」
アリアはつい、その優しい腕に寄りかかってしまった。
まだ髪が短い昇は十無のようで、その胸は居心地が良かった。
アリアは久しぶりに安堵したのだった。
ヒロが居酒屋にいるアリアに電話した夜、Dはヒロと同じベッドに寝そべり、それを見ていた。
「例の刑事の声がした。あの刑事、途中で電話を切りやがった。畜生!」
ヒロがリダイヤルしてみても、電源が切れている旨の音声案内になったようだった。ヒロは悪態をつきながら、携帯電話を床に投げ捨てた。
「壊れちゃうじゃない。私の携帯に八つ当たりしないで」
Dはガウンを羽織ってベッドから起き上がり、床に転がった携帯電話を拾った。
例の刑事――東十無のことか。アリアちゃんのことが好きみたいだけれど。アリアちゃんの心をしっかり繋ぎとめていてくれたらいいのに。
Dは十無が歯がゆく感じていた。
誘拐劇を起こしたあの日から、Dは何かと理由をつけてヒロをとどめていた。でも、もう限界かもしれないと思っていた。
ヒロは立ち上がって窓を開け放してから、煙草に火をつけて大きく煙を吐いた。
「しかし、あいつ、いやに機嫌が悪かった」
Dにはその理由がわかっていた。ヒロの隣にDがいることをアリアは察したのだろう。多分、そのことが許せなかったのだ。ヒロもなんとなくそれを察したようだった。くわえ煙草で落ち着きなく部屋をうろうろし始め、アリアのところへ行こうか迷っているようだった。
アリアは寂しくなったに違いない。だからといって、Dはヒロを行かせる気にはなれなかった。
「ヒロ、アリアちゃんを少しそっとしておいたら?」
「あいつ、刑事といるんだぞ」
「いいじゃないの、誰といたって。アリアちゃんはあなたのこと兄としてしか見てくれないんでしょう。いつかは離れていくのよ」
「うるさい!」
ヒロが怒鳴ったので、このまま部屋を出て行くのかと思いきや、ベッドサイドに座っていたDを、力任せに押し倒したのだった。
「痛い、乱暴はごめんだわ!」
ヒロの体重がDにのしかかった。が、Dを抱き締めた状態でヒロは動かなくなった。
「ヒロ?」
「俺は、どうしたらいい……」
ヒロがDの首筋辺りで呟いた。
「そんなわかりきったこと、私に訊かないで……それとも、行って来なさいとでもいって欲しいの?」
こんなに傍にいて、肌を合わせてもあの子のことを想うのか。一緒にいるときくらい、忘れてくれないの。
ヒロを独占したい。Dはその思いが強くなっていると自覚していた。アリアに悪いと思いつつも、あわよくば、ヒロをかすめ取ってしまいたいという欲望に駆られていた。そして同時に、心の底ではそんな自分を責めていた。
「ねえ、明日買い物に付き合って」
「買い物?」
そう言って、ヒロが顔を上げたので、いぶかしげにDを見るヒロの瞳が、Dの鼻先にあった。長い睫毛に囲まれた、灰色がかった影のある瞳。
この瞳にいつも映っていられたら。
「そう、あと一日、私に付き合って。帰るのはそのあとにして」
ヒロは返事をする代わりにDの唇を奪った。
いっそ、アリアちゃんとあの刑事、仕組んじゃおうかしら。
甘いキスに溺れながら、Dはそんなことを考えていた。