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25・寂し愛し

 昇のことが好きなのかなどと見当はずれなことを東十無が言うものだから、アリアはつい、意味ありげなことを口走ってしまったのだった。

『……私は、昇のことを十無だと思ってしまった』

夕刻、警察署近くの公園でアリアが東十無に言った言葉を、十無はどう思っただろうか。

「ああ、十無にあんなこと言わなければよかった」

 アリアはそのことが頭から離れないのだった。

叶わぬ恋から逃げていた。そっとこの状態が続けばいい、アリアはそう思っていた。裏腹に、この気持ちに気づいてくれないだろうかと思う自分もいた。

後悔と期待。

十無は気づいてくれたのか。それとも聞き流してしまったか。自分の気持ちに気づいてくれたとしたら。もしそうであっても、十無がどうこうするわけがない。でも……。

堂々巡りだった。もがくほど絡まる蜘蛛の糸のように、不毛な思考から抜けられないのだ。

部屋に戻ってから柚子にあれこれと詮索されるのが嫌で、柚子が眠ってしまう遅い時間まで、十無と別れたあと、アリアは一人でバーに寄り、時間つぶしをしたのだった。時刻は午前一時を回っていた。

アリアはほろ酔い状態でタクシーから降りて足を引きずるようにエントランスを通り抜け、マンションの玄関扉の前で立ち止まった。もしまだ柚子が起きていたらと思うと、アリアは気が重くなった。

 できるだけそっとドアを開けたつもりだったが、ギイイと耳障りな音が響いた。

「やれやれ」

 柚子が目を覚ましたかもしれない。アリアはため息を漏らした。

「……お帰りなさい」

 案の定、真っ暗な居間の空間から、柚子の声が聞こえた。

暗くて足元も見えない。アリアは「遅くなってごめん」と謝りながら、電気をつけようとスイッチのある壁のほうへ手を伸ばした。途端、「つけないで!」と、柚子が叫んだ。

 かなり怒っているのか。

柚子のただならぬ雰囲気に、アリアは急いで言い訳をした。

「色々あってバーで飲んでいたんだけれど、携帯のつながらない場所だったから連絡しそびれたんだ」

柚子の様子を伺おうとしても、暗がりで表情まではわからなかった。ただ、ぴりぴりした冷たい空気が伝わってきた。

「十無と、ずっと一緒だったの」

「いや、一人で飲んでいた」

 柚子は母親が子供の悪戯を見つけて問いただすような、きつい口調だった。だが、ひどく怒っているようでもなく、それ以上何も言わずに黙ってしまった。

「じゃ、おやすみ。起こしてしまって悪かったね」

対応に困ったアリアは、自室へ退散しようとして、暗い居間を手探りで歩いた。

「心配、したんだから」

 どきんとした。

柚子の張り詰めたような声につかまり、アリアは足を止めた。

「ごめん」

 ここはひたすら謝るしかない。

暗闇に目が慣れたアリアは、ソファの反対側の端に立っている柚子に向かってもう一度謝った。

「もう帰ってこないんじゃないかって……」

「えっ?」

 聞き間違いかと思ったが、確かに聞こえた。帰ってこないかと思った、と。アリアは今まで朝帰りなどしたことがなかった。そんな風に思われたのは何故だろうとアリアは首をひねったが、柚子を不安にさせるような言動をした覚えはなかった。

柚子はまだ寝巻きにも着替えていなかった。ずっと、眠らずに帰りを待っていたのだろうか。いつもと違う。今までは文句の一つ二つも黙って拝聴していれば、柚子の気は静まっていたのに。

アリアは何かわからない不安がこみ上げてきて、「柚子?」と恐る恐る声をかけた。

 暗闇に、声を押し殺して泣くような気配が感じられた。

「柚子、どうした」

 頭の芯が冷たくなった。酔いが一気に醒めた。アリアは泣き声に驚いて側に寄ろうとしたのだが、柚子は「こないで!」と叫び、逃げるように自分の部屋へ駆け込んでドアをばたんと閉めてしまった。

 様子がおかしい。柚子をこのままにしておくわけにはいかない。これならまだ、懇々と嫌味を言われたほうがまだましだ。

 アリアは柚子の部屋の前に立ってドアの向こうの柚子に話しかけた。

「柚子、何かあった?」

「構わないで!」

「泣いて、いるの?」

「違うってば!」

 アリアは勤めて優しく語りかけたつもりだったのだが、頑なに拒絶されてしまった。漏れ聞こえる柚子の嗚咽がアリアの胸を締め付けた。

「本当にいいの?」

 気の聴いた優しい言葉も思い浮かばず、アリアはそんな訊き方しかできなかった。少し待ってみたが柚子は黙っているだけだった。

今はそっとしておくべきなのだろうか。

「話したくなったらおいで」

 アリアは仕方なく優しく声をかけて、扉に背を向けた。

「……アリア」

 柚子のかすれた声がアリアを引きとめた。振り向くと、半開きにしたドアの隙間から柚子が半分顔を覗かせていた。暗がりに、柚子の頬が涙で光って見えた。

ずっと泣いていたのではないかと思うと、アリアはちくりと胸が痛んだ。

柚子の態度は、どう見ても自分が原因のように思える。自分のことばかりになっていて、知らず知らずのうちに柚子を傷つけるようなことをしていたのかもしれない。

「あのね……」

 柚子は視線をこちらに向けて、言い辛そうに言葉を止めた。アリアは話してくれるのを待った。

「……今日、一緒に寝てもいい?」

アリアは即答できなかった。柚子が何を考えているのかさっぱりわからなかったのだ。だが、断る理由もないので、「いいよ」と笑顔で返事をしてみた。その返事に柚子がかすかに微笑み、対応に間違いはなかったのだなとアリアは胸をなでおろした。

 パジャマに着替えた柚子は、もそもそとアリアの後についてきて、先にベッドに入って布団を鼻先までかぶった。アリアもその横に並ぶ。セミダブルではあったが、二人で寝るには寝返りできない窮屈さがある。

「柚子、寝づらくないの?」

「別に」

「そう」

 柚子の涙はおさまっていたが、まだ鼻声だった。何か話したいことがあるのだろうか。けれど、それを催促してはいけない気がした。今の柚子はほんの少しつついただけでも粉々になりそうな繊細なガラス細工のように思えたのだ。

柚子は目を閉じて人形のように動かない。

「おやすみ」

 アリアは柚子に背を向けて目を瞑った。

 眠れない。

隣に眠る柚子が気になる。話しかけてくるのではとついじっと聞き耳を立ててしまうのだ。

どのくらいそうしていただろうか。

「ありがとう」

 と、柚子が言った。

ありがとう。背後からはっきりとそう聞こえた。

的外れなことを言って柚子を傷つけたくない。

アリアは寝たふりをしておいた。

その数分後、どうやら柚子の寝息が聞こえてきた。安心しきった穏やかな寝息。反対にアリアは益々目が冴えてきた。

ありがとう。

解読不可能な暗号か、パズルを押し付けられた気分だった。

 飲み直そう。眠れないんだから無理して寝ることはない。起きていればそのうち眠くなるだろう。

アリアはそっとベッドを出てキッチンに行き、明かりをつけた。戸棚に並んでいる酒を物色し、その中から飲みかけの紹興酒を選んだ。

「アリア」

 突然、背後から柚子の声がした。アリアは飛び上がり、紹興酒の瓶を足元に落としそうになった。振り向くと、キッチンの入り口に亡霊のように柚子が立っていた。

「柚子、どうしたの」

「アリアは寝ないの?」

「うん、ちょっと目が冴えて」

「一緒に起きていていい?」

「眠いんじゃないの」

「ううん、眠くない」

 ついさっきまで、すうすうと規則的な寝息をたてていたはずなのに、柚子はずっと起きていたかのようにしっかりした口調だった。ひょっとして、狸寝入りだったのか。もう少しじっとしていればよかったとアリアは後悔した。

「こんなに遅くまで起きていたら、朝、起きられなくなるよ」

「アリアだって」

「柚子は学校があるでしょ」

「春休みだもん」

「そうだった」

 柚子が休みだったことをアリアはすっかり忘れていた。であれば、柚子の話を聞くのにいいタイミングかもしれない。アリアは眠くなったら寝るようにと前置きしてから、ココアを飲むかと柚子に訊いた。こくんと頷いたので、アリアは牛乳を沸し始めた。沸くまでの間、柚子もその場に立って待っていた。

まだ、いつもの柚子とは違うのだろうか。アリアは柚子の様子を盗み見た。白熱灯の明かりに照らされている柚子は赤い目をしていて痛々しかった。視線は床に落としているが、どこを見るでもなくうつろだ。三つ網の跡が残る長い髪は、乱れたまま長く垂らされ、悲壮感が漂っている。

「熱いから気をつけて」

アリアは柚子がいつも使っているロイヤルブルーのマグカップに熱々のココアを注いで手渡した。柚子は両手でマグカップを持ち、アリアの後ろをそろそろとついてきた。

 片手に紹興酒の入ったグラスを持ち、アリアは居間のソファに体を埋めた。その横に柚子がちょこんと浅く腰掛ける。ソファ横に置いている背の高いスタンドライトの明かりだけしかつけなかったので、居間はほの暗かった。なんとなく明かりを煌々とつけてしまうのは、目を赤く腫らした柚子が嫌がるかもしれないとアリアは勝手な憶測をしたのだった。

 アリアは黙って紹興酒を口元に数回運んだ。グラスを傾けるたびに、氷がカランと音を立てて静寂を破る。真夜中であれ、外は車が絶えず行き交い、静けさなど無縁な都会にいるはずなのに、部屋は音を飲み込んでしまったかのように静かだった。

 柚子の中で整理がついたら、きっと自分から話してくれるだろうと、アリアはあえて柚子に話しかけなかった。

待つのは長い。会話もなく重苦しい沈黙の中でただ待つというのは息苦しいものだ。

紹興酒は二杯目になっていた。室温は快適なはずなのだが、グラスを持つ手に汗が滲んだ。柚子はマグカップを両手で包み込むように持ち、こくんこくんと熱いココアを飲んでいた。柚子がココアを飲みきった頃、アリアはとうとう沈黙に耐えかねて声をかけた。

「柚子――」「アリア――」

 お互いの声が重なってしまった。アリアは慌てて「なに?」と聞き返したが、「ううん」と柚子は再び俯いて口を閉じてしまった。最悪の展開。

 柚子は空になったマグカップを膝の上に乗せて視線を落としていた。

 どうしたものか。

アリアは無意識にため息をついてしまった。

「アリア、私に気を使わなくてもいいから」

「ごめん、いや、その……」

酔ったせいだろうか。

アリアの思考はまとまりがつかなかった。つい柚子の顔色を伺ってびくびくしてしまう。

これではだめだ。

思い切って、訊きたいと思ったそのままを、深く考えずに声にした。

「私が原因、だよね」

 柚子はマグカップから目を離さずに黙っているだけで、何のリアクションもなかった。

「……これ、覚えてる?」

 アリアがもう一度訊いてみようかと口を開きかけたとき、柚子は空になったマグカップを大事そうに撫ぜながら呟くように言った。

 そのマグカップは柚子がアリアと一緒に住み始めた頃、お揃いで買入したものだった。

「覚えているよ。一緒に買いに行ったね」

 柚子は買い物のとき大げさなほどはしゃいでいたのをアリアは思い出した。

「うん。アリアってば、これを買うときマグカップなんか家にあるのにって」

「そんなこと言った?」

「それに、お揃いで買おうとしたら、自分のはあるからいいって」

「ああ、そうだった。どうせアジトを転々とするから、必要ないって言ったんだ。でも結局、柚子が強引に買ったんだよね」

「それなのにアリアってば買ったばかりの色違いのマグカップ、落として割っちゃったじゃない」

「あの時は、柚子にすごい剣幕で怒られて……もしかして、割ったことをまだ怒っている?」

「違う。そんなことじゃないの」

 柚子の澄んだ瞳がアリアの瞳を矢のように貫く。何か言ってほしそうにしているのがわかったが、アリアは柚子の気持ちを推し量れずに戸惑うばかりだった。柚子の想いを受け止められない自分がもどかしい。アリアは紹興酒を一口飲んでその場を濁すのが精一杯だった。

「また今度、お揃いのマグカップ買ってくれる?」

「うん」

 ようやく柚子は表情が緩み、「良かった」と言って、柔らかな笑みを浮かべた。

アリアも肩の力が抜けた。柚子の気持ちは理解できなかったが、機嫌を直してくれただけでほっとした。

「アリア、もう寝ようよ」

 機嫌が直った柚子に腕を引っ張られ、一緒にベッドに横になった。柚子がアリアの片腕にしがみつくように丸まって寝たせいで一層窮屈になり、アリアはとうとう朝まで熟睡できなかったのだが、隣で眠る柚子の寝顔は安心しきった穏やかな寝顔だった。

普段、口を開けば大人顔負けの理屈を並べ立てる柚子だが、こうして見るとあどけなさが残る無防備な少女でしかないのだ。

柚子を守れるのは自分しかいないんだ。

アリアは胸が熱くなるのを感じた。それは、子を思う母の感情に似ていた。

泣いている柚子は二度と見たくない。

アリアは柚子を泣かすようなことは絶対にしないと心の中で誓ったのだった。

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