24・特別
「ヒロ」
Dはアリアのアパートから出てくるヒロに出くわし、背後から声をかけた。正確には、ヒロがアパートに入った時から見ていて、出てくるところを待ち伏せしていたのだが。
振り向いたヒロは、まるで泣いていたかのように目が充血していた。Dはその顔に動揺したが、態度には微塵も出さずにヒロを茶化した。
「あらあ、アリアちゃんと喧嘩でもしたの? また、余計なことでも言ったのかしら」
そんなDのおとぼけにも、ヒロは応えなかった。ヒロは冗談を返せないほど落ち込んでいるようで、今は何を言っても無駄なのかもしれないと、Dは思った。ヒロにこれ以上何と声をかけたら良いのかわからなかったが、取りあえず無理に笑顔を作ってみた。
ヒロはそれに応えるでもなく、Dに大股でずんずん近づいてきたかと思うと、路上でいきなりDを抱き締めた。息が詰まるほど強く。
「ヒロ、苦しい……」
予想外のヒロの行動にDは混乱し、やっとの思いで声を絞り出したのだが、抱き締める腕が少し緩まっただけで、ヒロはなかなかDを放してくれなかった。
外は薄暗くなってきたとはいえ、勤め帰りのサラリーマンが行き交う路上で、長身、長髪の若い男女が抱き合うシーンは、注目されないわけがなかった。
「いい加減放して!」
Dの怒鳴り声で、ヒロは正気を取り戻し、絡めていた腕をするりと下ろした。
死んだ魚のような目をして俯くヒロを、Dは路駐している自分の車まで引っ張っていき、助手席に押し込むようにして乗せた。
「世話の焼ける男ね。抱き締める相手が違うでしょう」
運転席に乗ったDは、駄々をこねる子供をなだめるように言って、ため息をついた。無言で俯いているヒロに、Dは何があったのか訊くのを諦めた。その代わり、「首都高でも流す?」と声をかけてから、ヒロの返事を待たずに車のエンジンをふかした。
ただの喧嘩ではないとDは感じていた。
どうしてあげたらヒロは楽になるのか。何をしてあげればいいの。
自分では力になれないということは充分わかっていた。それでもDは、何かできることはないか考えずにいられなかった。何もできない自分がもどかしい。
「アパートで……あいつを待っていた。だが、まだ帰ってこない。今頃、アリアは例の刑事と会っているかもしれない」
Dが黙って運転していると、ヒロがぽつりと呟いた。
「そんなの、今までだって会いに行っていたじゃない」
「今回は違う」
「何が?」
「……」
ヒロから返答はなかった。ただ、苦虫を噛み潰したような渋い顔をして、車窓に目を向けた。
これ以上は話したくないという意思表示なのだろう。
そう思ったDは運転に専念することにした。
どこまでも続く街の明かりが、次々に左右へと流れては過ぎていく。愛しい人との夜のドライブは、ロマンティックな気分に浸れるものだろうが、すぐ隣に座るヒロの気持ちがアリアに飛んでいるのかと思うと、Dは強い孤独感を感じずにはいられなかった。いくら抱き締められても虚しくなるだけ。ヒロは何を求めてこの胸に身を埋めるのか。一時の温もりか。それとも、母のような愛情か。ただの逃避だろうか。
Dは沈黙の闇の中、孤独な考えが次々に浮かんでいた。
「何も、訊かないんだな」
「あら、訊いてくれるのを待っていたの」
暫くしてヒロが口を開き、Dの口から調子の良い言葉がはじき出された。
本当はそんなに強くないのよ。
気持ちとは裏腹に、Dは強がって憎まれ口を叩いてしまうのだ。
アリアへの想いなど、ヒロの口から聞きたくない。ヒロの気持ちは痛いほどよく知っているけれど、その声で、その瞳で、辛いのだと訴えないでほしい。あなたを愛しているのに。
「行きなさい。アリアちゃんを取り返しに刑事のところに乗り込んだらいいじゃない」
Dは素直になれない自分に苛立ち、口調がきつくなったのが自分でもわかった。
ヒロに当たってしまう。悪いのは自分なのに。行ってほしくないと言えない自分が嫌。自分の気持ちに素直になれないのは何故だろう。
今、アリアの元に行かせたら、もうこの腕には帰ってこない。そんな気がした。それでもDは言えなかった。ただ、ヒロが行かないことを、心の底で願うだけ。
「いいわ。送ってあげる」
語尾が冷たくなる。優しくなれない。
道化もいいところね。
心の中で、Dは自分をあざ笑った。そんなにしてまで嫌われたくないのか。自分を惨めに追いやるようなことをして、本当にそれでいいのか。
自問自答を繰り返しながら、池袋にある東十無のアパートへと車を向けた。
「いや、行かない。明日まで待つ」
ほっとしたというより、Dはヒロのその一言を聞いて救われたような気分だった。
「もし明日まで、あいつが帰らなかったら――」
「諦めるとでもいうの?」
「……今は、何も考えたくない」
ヒロは運転中のDの首筋にキスをし、肩に頭を持たれかけてきた。
そうやってまた、私の元へ来るのね。そして、心はあの娘のところ。
「いつまでも甘えないでね」
棘のある言葉に、自分でも驚いていた。
そんなことを言うつもりはなかったのに。あの娘がヒロの心に住みついているのは覚悟していること。それでもいいと割り切っているはずなのに、何かの拍子に嫉妬が噴出してしまう。ヒロは去るものは追わない。これでおしまいかもしれない。
Dは身を硬くして、ヒロの反応をちらちらと横目で窺った。
ヒロはDの肩にもたれていて身じろぎもしない。
沈黙が怖い。早く何か言ってほしい。
Dは背中に汗が滲んでくるような気がした。
「私達って――」
「水香は、俺の特別」
Dの言葉をヒロが遮った。Dのことをどう思っているのかヒロが口に出したのはこれが初めてだった。好きだというのではないが、必要とされている。それだけでDの顔は火照り、声が柔らかくなった。
「ずるい人ね。そんな言葉で誤魔化して」
「俺の、正直な気持ちだ」
嘘ではない。素直に言ってくれたのだ。ヒロがもし、Dのことが好きだと言ったとしても、白々しく聞こえるだけで、虚しくなるだけだろう。「特別」という言葉には色々な意味合いがあるだろうが、ヒロはDから離れたくないのだという意思表示をしたのだ。
Dはそれで充分満足だった。
池袋に行くのをやめ、Dは再び気の向くままに車を流した。ただ、その運転は荒っぽさがなくなり、のんびりとしたものになっていた。
「いつから『特別』に昇格したのかしら」
冗談めいた口調でDが訊いた。
「さて、そうだな。ずっと前からのような気もするが」
「初めて会ったときからとでも言うつもり?」
「そうかもしれない」
「まさか」
Dは笑っていたが、ヒロの声は大真面目だった。
「ウノ・ジュエリーの事務所で出会ったとき、自分と同じ空気を感じた」
「同じ空気?」
「俺と、似ている。うまく言えないが、孤独と諦めの空気が漂っていた。それで気になって、また会いたくなったのさ」
「本当かしら。それ、女の子を口説くときの常套手段じゃないの?」
「そんな口説き文句、誰も喜ばないね」
「そう?」
弾む会話をDは楽しんでいた。車窓に流れる夜景も、今は宝石のように美しく輝いて見える。
「あの夜、出会わなければ、今頃何事もなく親父さんの店を継いでいただろうな」
「いいえ、それはないわね。あの時家を出なくても、数年後には出ていたでしょうね」
「後悔していないのか」
「あなたに会えたこと、感謝しているわ」
「……ごめん」
「有難うって言っているのに、何故謝るの」
Dはヒロの頭を小突いた。
ヒロはどんな理由で謝ったのか。
いくらヒロの前でDが虚勢を張ってみたところで、Dの気持ちなど当の昔にヒロに感づかれているのだった。Dにもそれはわかっていたが、お互い気づかないふりをしてきたのだ。この関係を成り立たせるには、その方が都合はいい。愛しているのかなどと問い始めたら、泥沼になってしまうだけだ。本気の恋は、今の二人には重荷でしかないのだ。
ヒロの謝罪の言葉は、Dの本心に気づいているからこそ出た言葉に違いなかった。裏家業に巻き込んでしまった責任もあるが、恋人関係ともいえない宙ぶらりんな現状を、ヒロは謝ったのだろうとDは思った。
そんなことを考えながらDがぼんやりと運転していたとき、「左へ行ってくれ」と言って、いきなりヒロの片手がハンドルに伸び、Dの肩にもたれかかった体制のまま、器用にハンドルをひょいと左に切った。
「危ないじゃない」
Dの言葉を無視して、ヒロはハンドル操作を続け、パーキングに車を突っ込んだ。そこは、シティホテルの駐車場だった。
「朝まで一緒にいてくれないか」
「いるだけね」
「いや、抱き締めたい」
「じゃ、抱き締めるだけ」
「そんな中途半端は俺にできない」
ヒロの甘い誘いを、Dは冷たくあしらった。それでもヒロは甘い囁きをなおも返してくる。
本当にこれでいいのか。
Dは心の中で自問した。
この関係を続けていく覚悟は本当にできているのか。あの娘の代わりでも。
こんな状況になったとき、決まって出てくる自問だった。そして、いつもうやむやな気持ちで、ずるずると一緒に過ごすのだ。だが、今夜はヒロに訊けそうな気がした。それでも、その言葉が声になるまで緊張で喉が渇いてかすれ声になった。
「一つだけ、訊いていい?」
「なにを」
「私はあの娘の、代わりなの?」
「水香とあいつは違う」
「ふうん」
そんなことはどうでもいいんだけれどというようなニュアンスの「ふうん」のつもりでも、無意識にDの声は弾んでいた。もし、ここでヒロが返す言葉に詰まったら、引き返そうと思った。だが、ヒロは『宇野水香』として見てくれている。それならばいつか、自分に向かって愛を囁いてくれる日が来るかもしれない。たとえそれがわずかの望みであっても、待っていられる。
「……俺は、水香に甘えているか?」
Dが黙っていると、ヒロが心配そうに耳元で囁いた。Dは迷子の少年のように心細そうに寄り添ってくるヒロが可愛くて仕方がなかった。
「そのくらい、自覚しなさい!」
と、その頭を愛しそうに再び小突いた。
嫉妬は何処かへ飛んでしまっていた。