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23・涙

 夕方、玄関扉が耳障りな音を立てた。

最近ドアの滑りが悪くなり、開閉時にいちいち癇に障る音を立てる。柚子は直そうと思いつつ、そのままにしていた。おかげで誰かが来るとすぐわかる。だが、今はドアに鍵をかけていた。このマンションの合鍵を持っているのは、アリアの他にはヒロだけだ。当然、誰が来たのかわかってしまう。

「アリアは今出かけたばかりよ」

 ドアが開ききらないうちに、柚子は玄関に走ってつっけんどんに言った。ドアから顔が半分のぞいた。やはりヒロだった。

「どこへ行った?」

「さあ。携帯電話も置いていったみたい」

 アリアはついさっき、ふらりと出かけていったのだった。行き先は言わなかったが、ぼんやりしているアリアをこの十日間ばかり見ていた柚子には、アリアがどこへ行ったのか、察しがついていた。

 でもヒロには教えてあげない。

「誰かさんにいつでも呼び出されるから、わざと置いていったのかも」

 嫌味を言っても、どうせヒロは意にも介さないことはわかっていたが、柚子は言わずにいられなかった。アリアはヒロがいる限り、自由になれないのだ。離れようと思っても、アリア自身ではどうしようもないつながりがある。ヒロが右を向けといえば、アリアは従ってしまうのだ。何も考えずに。いや、何も考えないようにして。アリアの世界では、ヒロは絶対者。今はもうヒロの保護がなくとも生きていけるはずなのに、服従が体に染み付いていて、アリアは自分の意思を押し殺している。そういう関係が続いているのだ。

柚子にはそれが見ていられなかった。

 ヒロさえいなければアリアは自由なのに。

案の定、柚子が嫌味を吐いても、ヒロは無言で刺すような冷たい視線を返してきただけだった。

「ここで待たせてもらう」

「無駄かも。きっと遅いと思う」

 ヒロは柚子の言葉を無視して、ずかずかと居間へ上がりこんだ。

 Dの事件直後に見たアリアの暗い態度。数日経った今も、上の空のことが多く、十無や昇の名を話題に上げると、アリアは話を逸らしてしまうのだ。それに、昇もまったく尋ねてこなくなった。双子とアリアの間で何かあったに違いないのだ。それで、柚子がアドバイスしたとおり、アリアは十無に会いに行ったのだろう。最初、柚子はそのことをヒロに教える気は毛頭なかった。あとでアリアがヒロに根掘り葉掘り訊かれて、嫌な思いをするのではないかと思ったから。

 それが、一変してしまった。まさか、ヒロが泣くなんて!

 ヒロがソファにでんと座って、ウイスキーをロックで飲み始めても、柚子は敵意に満ちた視線をヒロに向け続けていた。お互いに無言でテーブルを挟んで向かい合わせに座り、張り詰めた空気が漂う中、ラジオのポップスだけが鳴り響いていた。

 伸びた癖毛を緩く後ろに束ねたヒロは、長い足を組んで柚子の冷たい視線に怯むことなく、ロックグラスを片手に悠々と煙草の煙をくゆらせていた。

鼻筋の通った顔立ちに、強い意志を感じさせる真一文字に閉じた口。珍しくダーク系のスーツを着込んでいたが、ノーネクタイでワイシャツをはだけさせ、無造作に着崩した姿は、駆け出しの若手俳優よりは、よほど様になっていて女性の目を惹きつけそうだ。ヒロは強固に否定するが、女性が放っておけなくなるような寂しげな瞳は、どことなくアリアに似ている気がした。

でも、微塵も好きになれない。

張り詰めた空気が漂う中、柚子はじっとヒロを観察し、そんなことを思っていた。


十九時。日は暮れて、部屋も薄暗くなってきた。灰皿には、煙草の吸殻の山ができていた。赤い封が施されていたウイスキー瓶の中身は、半分に減っていたが、ヒロの顔色はまったく変わっていなかった。

「いい加減に諦めたら? もう、アリアを開放してあげて」

柚子が沈黙を破った。

「俺はあいつを束縛しているつもりはない」

 ヒロは自覚していないのか。アリアがこんなに辛い思いをしているのに!

 ヒロの一言で、柚子は怒りが爆発した。

「無言の圧力をかけているじゃない。さっさとDと一緒になればいいのに!」

「お前にそんなことを言われる筋合いはない」

 ヒロは上体を前に倒して目を細めて凄み、煙草の煙をふうっと吐き出した。煙が顔にかかって柚子は顔をしかめた。柚子は背筋が冷やりとした。

 ヒロは人を寄せ付けない強固な氷の壁を作っている。「俺とアリアの関係に何人たりとも口を挟めさせやしない」そんなオーラがヒロの全身から発せられているようだった。

柚子が発した言葉は、触れてはいけない禁断の部分だったのだ。

「お前呼ばわりしないでよ」

柚子はそれでもひるまず、声が震えないようにして、辛うじて言い返した。

このまま黙って見過ごすことなんかできない。アリアは苦しんでいるのだから。

柚子はまた一歩、ヒロの聖域に踏み込んていった。

「ヒロは本当にアリアが好きなの? だったら、Dと付き合っているのは何故?」

「ガキに何がわかる」

「高校生だって恋はする。アリアが苦しんでいるのもよくわかる。ヒロは酷い」

「うるさい!」

ヒロは怒鳴って拳を握り締めて立ち上がった。

殴られる!

柚子は咄嗟に目を瞑って身を硬くした。だが、ヒロは柚子にくるりと背を向けてくわえ煙草で窓辺にたたずみ、ため息と供に煙を吐き出したのだった。まだカーテンを閉めていなかった窓からは、寂しげな薄闇の街の明かりが見えていた。

「言われなくても、充分わかっている」

 煙草を手に、うめくように搾り出した声。ヒロの意外な言葉に、柚子は耳を疑った。

 ヒロも苦しいっていうの? アリアのことを考えずに好き放題なことしているくせに。嘘だ。そんなはずない。ただ、そういうポーズをとって見せているだけだ。でも、何のために。取り繕う必要などないじゃない。

 柚子は混乱した。

「俺のことをそこまで眼の敵にするな。いい兄貴でいられたらどんなに楽か。俺自身、そう思って呆れている。あいつを切り離そうとしたが、どうしてもできない。何度もあいつの前から逃げてもみた。だが、だめだった。あいつじゃないと、だめなんだ。どんなことをしても手に入れたい。もし、異母兄妹だったとしても。……その願望から逃れられない。……どうしてあいつなんだ!」

 ヒロは砕け散るのではと思うほど強く、拳で窓硝子を叩いた。それはまるで、硝子に移る自分を叩いているようだった。

独り言のように途切れ途切れに呟いて、自分に向けてヒロは苛立ちをぶつけていた。柚子はそんなヒロの姿を初めて目にしたのも衝撃だったが、それ以上に、ある言葉が引っかかった。

異母兄妹だったとしても。

指先に挟まれた煙草から、床に灰が落ちた。ヒロはまったくそれに気づいていないようだった。

ヒロは相当酔っている。ウイスキーを早いピッチで飲み、口が軽くなっているのだ。顔色こそ変わっていないが、弱音を吐くなんていつものヒロではない。柚子は同情する気はなかったが、これ以上、ヒロの傷をえぐるようなことをする気にもなれなくなった。でも、あの言葉が引っかかる。

異母兄妹。

「おい」

 ヒロは振り返り、やや充血した目を、柚子に向けた。

「な、なによ」

 柚子は混乱しながらもヒロに視線を返し、冷たい口調を崩さないように返事をした。

「俺はあいつの前から、消えるべきなのか?」

 ヒロは真顔だ。酔っていても、今言ったことは多分、きちんと覚えているだろう。投げやりのような、救いを求めるような瞳でヒロは顔を背けずに、微動だにせず、柚子の返事を待っている。今、アリアの前から消えてと柚子が言えば、ヒロは本当にこのまま姿を消してしまいそうだった。だが、柚子の思考は他のことで一杯になっていた。

ヒロと異母兄妹って……アリアは矢萩孝介の子供ではないというの? 私と異母姉妹だと思っていたのに。この世でたった一人の血の繋がった姉妹だと思っていたのに。そんなことをヒロに吹き込んだのは美原ななだろうか。だとしたら、それは事実なのか。

アリアは自分とは赤の他人なのかもしれない。その事実に、柚子は突き放された気がした。顔が強張った。

「ずるいな、俺は」

 柚子が黙っていると、そう言ってヒロは髪をかき上げ、声を立てて笑い出した。

「ガキに馬鹿なことを訊いた、忘れてくれ」

 あっけにとられている柚子を横目に、ヒロはすっとテーブルに近づき、持っていた消えかけの煙草を、吸殻が山になっている灰皿へクシャリとねじ込んだ。

 その時、柚子はヒロの目元に釘付けになった。

 胸がきゅうっと苦しくなった。

 ソファに座っていた柚子は、ヒロの、その伏せた目元に、涙が滲んでいるのを目にしたのだ。

 確かに、それは涙。

「じゃあな」

と言って、ヒロはズボンのポケットに両手を突っ込み、柚子に背を向けた。

このままいなくなるのか。肩を落としたヒロの姿に、柚子はそんな不安を抱いた。そんなの、いいはずがない。アリアが悲しむ。

「ヒロ、待って」

 柚子は思わず駆け寄ってヒロの行くてを遮ってみたものの、その後の言葉が見つからずに、口を中途半端にあけ、ヒロの顔を見上げて苦笑いした。

「お前はいいな。こんな思いをせずにあいつの傍にいられる」

涙が滲んだ瞳で柚子を見下ろし、ヒロは目を細めた。

胸に突き刺さるヒロの言葉。

違う、違うの。

心の中で柚子は否定した。だが、声に出して言う勇気はなかった。柚子は口をつぐみ、ヒロから目をそらして俯いた。

ヒロは、「バイ」と、片手を上げ部屋を出ようとした。

「待って」

 柚子は、ヒロの上着の裾をつかんでいた。そして、自分でも信じられないことを口走っていた。

「アリアは……十無に会いに行ったと思う」

「――サンキュ」

 そう言って、ヒロは寂しそうな笑顔を残して出て行った。

滑りの悪い玄関扉が、耳障りな音を立ててゆっくりと閉まった。柚子にはその音が悲鳴のように聞こえた。

自分の悲鳴だ。

柚子は自分の両腕をきつくつかみ、玄関に崩れるように座り込んだ。

ヒロの涙を見て同情したから、アリアの居場所を教えたわけじゃない。柚子にはそれがはっきりわかっていた。

柚子は自分の気持ちに気づいてしまったのだ。

ほぼ確実に、アリアと異母姉妹だと思っていた。もし、ただの同居人でしかなかったら、アリアに好きな人ができた時、自分はただの邪魔者でしかない。そんなの、嫌だ。もう一人になりたくない。せっかく手に入れた家族なのに。アリアとの生活を、誰にも壊されたくない。十無にアリアをとられたくない。

どろどろしたものが、柚子の心の中を駆け巡っていた。恋愛とも家族愛とも言えない、いや、どちらも入り混じったような複雑な感情、独占欲にも似た愛だった。

これじゃ、ヒロと同じだ。

ヒロに自分を重ねて、柚子もまた心の中で泣いていた。

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