20・最悪の男
「これでいいのか」
「ええ、充分よ」
都心にあるホテルのバー。ひと騒動あった日曜日も終わりを告げようという時刻。二人きりのバーには、ノクターンが静かに流れていた。
気持の整理ができて、Dはほっとしていた。過去の嫌な自分と一緒に封印してしまった大切なものを、綺麗に片付けた気分だった。
家族を捨てたことに負い目もあったし、今まで愛香のことはこっそりと見守ってきたのだが、Dはずっと愛香のことが気がかりだったのだ。会うつもりはなかったが、元気そうな顔も見ることができた。
もう会うことはないだろう。
Dがソルティー・ドッグを飲み干して、カウンターに空のグラスを置くと、バーテンダーがラスト・オーダーを確認した。
「ブラッディ・メアリーを」
「今の注文、バージン・メアリーに変更だ」
ヒロが訂正した。
「勝手に変えないで。ただのトマトジュースなんか」
「飲みすぎだ。自分でもそう思ったから、ヘルシーなブラッディ・メアリーを頼んだのだろう?」
ヒロがロックグラスを傾けながら、Dをたしなめた。
「だって」
「このバーから、マンションまで抱きかかえていくのは御免だ」
「いいじゃない、それくらい」
Dが駄々っ子のように口を尖らせて抗議した。ヒロは伊達眼鏡の奥の目を細めて微笑んだ。
「元婚約者と会った感想は?」
「……別に、何も感じないわよ」
「家には戻らないのか」
「今更帰れるわけがないわ。それより、私が元婚約者の島崎と会ったのに、焼いてくれないのね」
「馬鹿」
ヒロは無表情で空になったグラスに視線を注いでいる。Dはヒロのそんな表情が怖かった。それは、切り出しづらい話がある時に見せる、鬱々とした表情だった。
「あなたでも照れるのね。でも、島崎をあそこまで殴りつけることなかったんじゃないの? あ、そうか、ちょっとは嫉妬してくれたのね」
「あいつが弱すぎて、手加減が難しかったただけだ」
「あら、そう。嘘でもそうだよって言ってくれても良いのに」
Dは妙にはしゃぎ、冗談を言ってヒロに微笑みかけた。そうしていないと、何か言われた時に笑い飛ばせないような気がしたのだった。
たとえ、別れ話が口にされても、一笑に付して冗談にしてしまいたい。ヒロに会う度、Dは怯えていた。
もしかしたら別れを告げられるかもしれない。
付きまとう不安。
「……俺はお前を幸せにはできない」
視線を指先に向けてヒロは呟いた。
「なに言ってるの。私は自分の力で幸せになるのよ。もし、幸せになり過ぎたら、あなたにも少しくらいなら、幸せのおすそ分けをしてあげてもいいわ。それに、私はもう充分幸せよ」
Dは威勢良く言い返し、ヒロは眉をひそめて困ったように、「そうか」とだけ呟いた。
「本当に、俺のせいではないのか。俺がこんな世界を教えてしまったから」
「え? またそうやって自惚れるのね」
真顔のヒロに、Dは大袈裟に笑い飛ばした。
Dの前に鮮やかな赤いトマトジュース、バージン・メアリーが置かれた。
「俺がお前の人生を狂わせてしまったことに変わりはない」
いつになく、意気消沈しているヒロ。
責任なんて感じないで欲しい。責任があるから、ヒロは一緒に過ごしてくれているのだとは思いたくない。
Dは膝の上で強く握った手を見つめた。
「俺しか、知らないだろう?」
「何が言いたいのよ」
Dは顔を上げてヒロを睨んだ。
「お前、他の男を知らないのだろう」
「そんなことありません……って、何を言わせるのよ、スケベ」
Dはヒロの肩を平手でトンと叩き、勤めて明るく言い返した。ヒロは一瞬穏やかな表情になって微笑んだが、再び真顔になった。
「お前には普通の幸せを手に入れて欲しい」
「普通って? 私は今のこの状態が普通なのよ!」
「気に障ったのであれば謝る」
Dが食って掛かるような勢いで言い返したのだが、なだめるようにヒロが頬にそっと手を添えた。
普段の強引で強気のヒロは何処へ行ったのか、その瞳は悲しげだった。
ヒロ何が言いたいの。もう、私のことが重荷になったの?
Dは泣き出したい気持だったが、瞬きもせずに挑むようにヒロの瞳を見つめ返した。頬に触るヒロの手の温もりが、気丈なDという殻を破ってしまいそうだった。
「お前には家族がいる。本当であれば悠々自適の生活をしている身分だ」
「冗談。窮屈な生活に飽き飽きして、気が狂っていたかもね」
「強がるな」
「強がってなんかいない。ヒロこそ、親の会社を継いでいれば今頃――」
ヒロはバーテンダーの目を気にすることなく、Dの唇を唇で塞いだ。
「何するの!」
Dは立ち上がってヒロから二、三歩離れた。
「哀れみのキスなんていらない。私が欲しいのは……」
そこまで言いかけて、Dは口をつぐんだ。
「馬鹿!」
Dはヒロに背を向けてバーを出た。
「水香……」
Dの背中を見送ったあと、ヒロは手付かずのバージン・メアリーを飲み干した。
「水香を追い詰めてどうする気だ。……最悪の男だ、俺は」
伊達眼鏡をはずして、ヒロは眉間を押さえた。