18・ハッピーエンド
「島崎肇、遅いわね」
夕闇の中、Dが腕時計を見てため息をついた。時刻は七時四十分。行動を開始してから四十分が過ぎていた。
「刑事を撒いて来いだなんて、無理だったんじゃない?」
宇野愛香は不安に駆られ、座っていられなかった。きょろきょろと島崎の姿がないか辺りを見回している。
「それは大丈夫よ。ちゃんと方法を教えたもの。きっと、全力疾走でここに向かっているはずよ。遅いのはきっと、彼の体力の問題ね」
Dはふふふと笑った。
警視庁から目と鼻の先、日比谷公園の大噴水脇に腰掛けたDは、待ちくたびれて足をぶらぶらさせていた。周囲に人影はない。
「お姉ちゃん、こんなこともうやめよう。早く逃げて。きっと、大変なことになってるよ」
「大丈夫よお。愛香は心配性ね」
Dはくすりと笑った。
「お姉ちゃんはどうしてそんなに落ち着いていられるの。摑まるかもしれないのに」
「楽しいの。楽しんでいるのよ」
Dはくすくす笑いが止まらない。
愛香は理解できない、と呟いて顔を顰めた。
姉はこんな無謀なことをするような性格だっただろうか。堅実な姉がこんな危険なことをするなんて。
愛香は困惑していた。
愛香の目の前にいるのは、胸元が大きく開いたシャツに、タイトなミニスカートの派手な外見の見知らぬ女性だ。その得体の知れない女性は、退屈そうに伸びをしている。本当にこの人が姉なのかと疑ってしまうほど、外見も性格も変わってしまったのだ。
「来たわね」
Dこと宇野水香は、すっと立ち上がり、おもむろにサングラスをかけて、音もなく愛香の背後に立った。あまりにもしなやかなその行動は、普段から染み付いているようで、ごく自然なものだった。
愛香はその瞬間、『D』を見た気がした。この人は、もはや自分が知っている、姉、宇野水香ではないのかもしれない。素性の分からない女怪盗Dなのだ。自分が知っている姉は存在しない。
そう思うと愛香は寂しくなった。
「島崎肇、遅かったわね。本当に全力で走って来たのかしら」
まだ息を弾ませている島崎肇に、Dは冷たい一言を低い声で放った。
「約束……守ったぞ。……愛香ちゃんを、返してくれ。愛香ちゃん、こっちへおいで」
Dの他に仲間がいないとわかり、島崎肇はDににじり寄った。
「動くな!」
「ひっ!」
愛香の首元に、いつの間にか鋭いナイフがあてられていた。思わず愛香は小さい悲鳴を上げた。
愛香の視界の端にDの横顔が見える。その固く結ばれた口元に、冷淡な笑みが浮かんでいた。
本気だ。
島崎肇の本心を確認するための行動とはいえ、愛香は背筋が寒くなった。姉に会ったら島崎肇のことに決着をつけて、元のように姉が店を引き継いで家族三人で暮らせると思っていたのは、自分だけの幻想だったのか。
愛香は恐怖で言葉が出なかった。
「どうかしらね。本当に約束を守っているの?」
「紙袋につけていた発信機も捨ててきた。確認したらわかる」
島崎肇は札束が入った紙袋を、Dの前に放り投げた。
「愛香ちゃんが怖がっている。そのナイフを降ろして、早く愛香ちゃんを解放してくれないか。Dはそこらの泥棒と違って、人に危害を加えないんだろう?」
「今まで、たまたまそういう状況にならなかっただけ」
普段、事務的で冷静な島崎肇からは想像できないくらい、必死の形相だった。だが、Dは冷淡な態度を崩さない。
ウノ・ジュエリー社長になる条件の婚約。それがかかっているんだもの、必死になるのは当たり前だわ。
愛香は島崎の態度を嬉しく思ったものの、素直な気持になれずに冷めた目で島崎肇を見ていた。
「何が目的だ。お金は指示通り半分はばら撒いてきた。こんなことをして何になる」
「一見無意味なことのようでも、意味があることもある」
「私には理解できない。そちらの要求は全て従った。愛香ちゃんを解放してくれ」
「でもねえ、この娘、こともあろうに私の名を騙ったのよ。はいそうですかって返せると思う?」
「その娘、俺が頂こう」
突然、暗闇から男の声がして、宇野愛香は腕を引っ張られ、するりと男の腕の中へ納められてしまった。その男は愛香をDに引き合わせるために迎えに来た、あの男だった。
「あら、こんな生意気な娘が好みなの」
「仲間がいたのか! 彼女を放さないと、ただじゃおかない!」
島崎肇の顔が険しくなった。
「へえ、ひ弱そうだが、口だけは威勢がいいな。放さないとどうなるって?」
サングラスをした長身の男は、薄笑いを浮かべて島崎肇を挑発するように、愛香の耳元に唇を押し当てた。
「きゃっ!」
「やめろっ!」
愛香が悲鳴を上げたと同時に、島崎肇は男に飛び掛ったのだが、いとも簡単にDによってねじ伏せられ、腕を押さえつけられてしまった。
「勇気だけは認めてあげるけれど、無駄な抵抗はしないほうが身のためよ」
「ごめん、愛香ちゃん」
島崎肇は押さえつけられて、悔しそうに愛香を見上げた。
いつも計算ずくしで動いているような肇さんが、何も考えずに飛び掛るなんて。
愛香は動揺した。
「私はどうなってもいい。愛香ちゃんだけは逃がしてくれないか」
「だめ」
なおも食い下がる島崎肇に、Dは容赦ない返事をした。
肇さんを試すようなことをしている。
なりふり構わず、愛香のことを助けようとする島崎に、愛香は罪悪感を覚えた。
「何でもできる限りのことをする。だから、愛香ちゃんを放してくれ」
押さえつけられた不様な格好のまま、島崎肇は懇願を続けている。
「しつこいわね。名を傷つけられたのだから、この娘にはそれなりの覚悟をしてもらうわ。このままでは私の気が済まない」
「俺がたっぷりと傷物にしてやろう」
男が愛香の腰を強く抱き寄せた。
「やだっ!」
芝居と分かっていたが、愛香は思わず本気で男を突っぱねてしまった。男に得体の知れない恐ろしさを感じたのだ。
「その手を離せ!」
Dに押さえつけられていた島崎肇は、満身の力でDを振りほどいて男に突進して掴みかかった。その拍子に弾かれた愛香は、その場に倒れこんだのだが、立ち上がることも忘れて、男と格闘している島崎肇のことをはらはらしながら見つめていた。
島崎肇は男に殴られてもなお立ち上がり、男に食らいついていった。だが、島崎肇と男とでは腕力の差が歴然としていた。愛香には男が手加減なしで島崎肇を殴っているように見え、傍観していられなくなった。
「もういいの、見ていられない! 肇さんが私のためにそこまでする理由なんてないじゃない!」
「愛香ちゃん、逃げろ! たとえ婚約を解消しても、愛香ちゃんは、私の大切な人だ!」
島崎肇が叫びながら起き上がり、再び男に立ち向かった。島崎肇の真剣な瞳。愛香を守ろうとする強い意思が、愛香にも充分伝わってきた。
私はなんて酷いことをしたんだろう。気持を確かめたくて肇さんに怪我を負わせてしまった。肇さんがどう思っていようと、好きなのは変わりないのに。嫌いになんてなれないのに。
愛香は大事なことにようやく気がついた。
「そんなに大切なら、籠に入れて大事にしまっておくことだ」
男は島崎肇に拳を振りかざした。
「もうやめて! 肇さんをこれ以上傷つけないで! 私が馬鹿だったの!」
愛香は思わず島崎肇に走り寄り、男との間に割って入った。
「やれやれ」
男は苦笑いし、振り上げた拳を下ろした。
「ちょっと臭い芝居だったかしら」
Dも男の横に立ってにやにやしている。
「肇さん……ごめんなさい。……私、こんなことになるなんて……誘拐は、嘘なの」
愛香はしゃくり上げた。
「嘘って、じゃあDって言うのも……」
所々に痣ができた顔をぽかんとさせて、島崎肇はDと男の顔を見比べた。
「私が、悪いの。肇さんの婚約者だったお姉ちゃんに嫉妬して……肇さんのこと、素直になれなくて」
「愛香ちゃん……」
「私が肇さんの気持を疑ったから、こんなことに……」
「嘘……そうか、嘘か。ははは、良かった」
島崎肇はやっと状況が飲み込めたようだった。と、同時に緊張が解けたのか、腰が抜けたようにその場に座り込んだ。
「……ごめんなさい。馬鹿な私のせいで、こんなに顔が腫れちゃって」
目を赤く腫らした愛香は、座り込んでいる島崎肇の前に跪ずき、彼の頬を愛しむように撫ぜた。
「本当にそうよ。もっと自分に素直になりなさいよ」
Dが口を挟んだ。
「いいや、愛香ちゃんを追い詰めてしまった私のせいだ。水香さんがいなくなってから、愛香ちゃんのことをまともに見ることができなくなっていた。それまでは水香さんがいて、義兄という立場で接することができていたのに。でも、その立場ではなくなった途端、どう接すれば良いかわからなくなってしまった。こんなにも年が離れているのに、愛香ちゃんのことが好きだと気づいてしまったから。意識しすぎて、冷たい態度になっていたのかもしれない」
「肇さん?」
愛香は涙で潤んだ瞳を大きく見開いた。
「私が態度をはっきりさせなかったのがいけなかった。愛香ちゃん、私と結婚……いや、まずは付き合ってほしい」
島崎肇は愛香を見つめて、島崎らしい堅苦しい告白をした。
「はい……」
愛香の瞳から再び涙が溢れた。だが、今度は頬を赤く染めて嬉しさに目を細めていた。
「さ、これでハッピーエンドね。誘拐犯は尻尾を丸めて退散します」
Dは二人に向かっておどけてお辞儀をした。
「待って、お姉ちゃん」
「冗談。私は怪盗Dよ」
Dは背を向けて肩をすくめ、くすりと笑った。
「Dというのは狂言ではないのか。それに、お姉さんって、まさか……水香さん?」
島崎肇は立ち上がってDをまじまじと見つめた。
「宇野水香はもうこの世にはいないわ。お幸せに」
ウインクしてそう言い残し、Dは男と共に闇に消えた。
「お姉ちゃん、もう会えないのかな」
「きっとまた会える」
悲しげに呟いた愛香に、島崎肇は優しく微笑んだ。
都会の眩い明かりの中、ぽっかりと広がっている木々の暗闇が、抱き合う二人を包み込んでいた。
後日、島崎肇は女子高生を救った勇敢な青年として報道されることとなったのだった。