17・意外な犯行
「お嬢さん、Dが待っている」
「はい」
それはごく自然にあっさりと実行された。
アリアと昇がひと波乱あったその頃、Dの予告通り、昼近くに自宅マンションから出てきた宇野愛香が誘拐されたのだった。
大胆にも、男が愛香に声をかけて路上駐車してあった車に乗せて連れ去るという手口で実行された。宇野愛香自身は誘拐とは思っていなかったのだが。
「姉妹揃って度胸がいい。怖くはないのか」
「だって、Dの仲間よね。Dは何処にいるの?」
見ず知らずの男の車に乗った愛香は、やや緊張した面持ちで、虚勢を張っていた。
「そう急かすな。もうすぐ着く。悪いが、場所を知られるわけには行かない。目隠しをしてもらう」
「いいわ」
愛香は素直に、男から受け取ったアイマスクを自分でつけた。
D――姉に会える。愛香は姉に会って訊きたいことが山ほどあった。何故、家族を捨てて急にいなくなったのか。島崎肇のことはどう思っているのか。八年間、何処にいたのか。
愛香の気持ちに整理がつかないうちに、十五分ほどで車が止まり、男にアイマスクを外してもいいと言われた。
そこは、マンションの地下駐車場だった。
男は無言で愛香の前に立って歩いた。マンションの一階の部屋へ案内された。
がらんとした八畳ほどの居間には、背の高い女が窓辺に立って外を眺めていた。
「久しぶりね。また一段と綺麗になったじゃない」
女はゆっくりと愛香の方を向いて微笑んだ。愛香は姉であるDとようやく対面したのだった。
「……ばかっ! いい加減にしてよ! どれだけ私を苦しめたら気が済むの」
何事もなかったように声をかけてきた姉の態度に、八年間の想いが爆発した。
不安、憎しみ、心配、孤独。
愛香は頭に血が上り、肩を震わせて姉を罵ったのだが、愛香はまともに姉の顔を見ることができずに俯いていた。姉の顔を見たら泣いてしまいそうだったのだ。
「ご免ね」
Dはかすれ声で謝り、弱々しく微笑んだようだった。
姉の優しい声。八年前と変わらない、ハスキーな、人を包み込むような懐かしい声。その穏やかな声が愛香の耳に響いた。
姉にも何か辛いことがあったのかもしれない。
愛香はやっとの思いで顔を上げた。
姉の優しい声を聞いた途端、懐かしさが何よりも勝り、堪えていた涙が溢れて視界が滲み、姉の顔はまともに見えなかった。
「私がどれだけ……どれだけ心配したか、わかっているの?」
「ご免ね」
Dはそう繰り返すだけだった。
「謝ったって……許さない」
本当は愛香の中ではもう、そんなことはどうでも良かった。島崎肇のことも。姉は元気でいてくれたのだ。後は、帰って来さえしてくれたら。
肩を震わせている愛香に、Dがゆっくりと近づいてハンカチを渡し、そっと肩を撫ぜてくれた。
昔と変わらぬ、暖かい手の温もり。
「許してもらえないのはわかっているけれど、謝らずにはいられないの」
母親代わりだった姉。頭脳明晰で、いつも落ち着いていて、父と自分を支えてくれていた姉。家族三人、上手くいっていると思っていたのに。
こうして姉といると、八年の歳月は感じられず、愛香はなにもかも元通りになったような気がした。
泣くことでいくらかすっきりし、少し落ち着きを取り戻した愛香は、ハンカチで涙を拭きながら、Dの顔をようやくまともに見ることができた。
華やかな化粧に長く伸ばした髪。服装も以前の姉からは想像もつかないような、肩を露にしたキャミソール風の服に、レザーのタイトスカート。
まるで別人のような姉の姿に、愛香は動揺した。
八年前、姉に何が起こったのか。姉を変えてしまったのは……。
愛香は自分をここまで連れてきた背の高い男のことが頭をよぎった。男はさっきから、部屋の隅で壁に寄りかかり、じっと身をひそめている。
この男は姉の何なのだろうか。もしかして、この男が姉をそそのかしたのか。
「お姉ちゃんは、今、幸せなの?」
「私のことはいいの」
「よくない! 悪いことはもうしないで。帰ってきてくれるでしょう? また以前のように、お父さんと三人で暮らせるよね」
Dは消え入りそうな笑みを浮かべて軽く頭を横に振った。
「それは、できない。あなたと私は住む世界が違ってしまったの」
「この人のせい? この人がお姉ちゃんを……」
男の方を指差して愛香がDに詰め寄ったのだが、Dはすぐに否定した。
「違う! これは私の意思。彼は関係ないわ」
「お姉ちゃんは、あの人のこと……好きなのね?」
Dはそれには答えず、ただ微笑を浮かべるだけだった。
どう見ても幸せそうな微笑には見えない。辛い恋なのだろうか。それでも、その人といることを望む姉は幸せなのだろうか。
愛香には理解できなかった。
「ねえ、愛香。何故、島崎肇のプロポーズを断ったの?」
それはお姉ちゃんが一番良く知っているはずなのに。
愛香はDのその一言で、再び沸々と苛立ちが込み上げてきた。
「そんなの……肇さんの口からはプロポーズなんて聞いていない。その話が出た後も、肇さんはいつも通りでそっけないし、むしろ、私のことを避けている。きっと、ウノ・ジュエリー社長になるために、仕方なく婚約するの。肇さんはまだお姉ちゃんのことが忘れられないんだわ!」
「心配したとおり、勘違いしているわ」
「何が勘違いよ」
「あの融通の利かない島崎が、そんなことできる訳がないでしょう。島崎のことをそのままにしておいた私が悪いのだけれど。どうしてあなた達はそう不器用なの。八年も経っているから、私はてっきりうまくいっているものだと思っていたのに。島崎はずっと愛香のことが好きなのよ。私は島崎のこと好きでも嫌いでもなかったけれど、私の方を全く向いてくれない島崎と、一緒にはなりたくなかった。それもあって家を出たの」
「えっ、まさか」
お姉ちゃんは勝手なことを言っている。肇さんはお姉ちゃんがいないから、嫌々私と婚約するのに。
愛香は姉が言ったことを鵜呑みにはできなかった。姉がいなくなってから、誰とも付き合おうとせず、一人を通していた島崎をずっと見てきた愛香には、そう簡単に納得できるはずもなかった。
それを感じ取ったのか、Dはこう断言した。
「いいわ、愛香に島崎の本心をきっちり見せてあげる」
愛香が連れ去られてから三十分後、私服警官が厳重に警備しているウノ・ジュエリーに、封筒が届いた。
「あのう、このお店にいる島崎って言う人に、これを渡してくれって」
店に入って筒を差し出したその女子高生は、見ず知らずの女性に封筒を渡されたのだと言った。
店先にいた宇野社長は、その封筒を受け取った途端、青ざめた。封筒裏にDと書かれていたのだ。傍にいた東十無と島崎肇も顔をこわばらせた。
「きみ、それはどんな女だ」
「ええと、眼鏡をかけていて髪が長くて、ちょっと背が高い感じで……」
十無は特徴を聞くや否や、店を飛び出して周囲を張り込んでいた私服警官と共に、すぐさま辺りを確認したのだが、不審な女性の姿は既になかった。
「刑事さん! 娘が、娘が……」
十無が店の奥にある応接室に戻ると、顔面蒼白の宇野社長がソファに座り込んでいた。
「愛香ちゃんが誘拐されたなんて、信じられない……」
島崎肇もソファに寄りかかってうなだれている。
「誘拐だって?」
十無はテーブルに置いてあるカードを手に取り、ワープロで記されていた文面を確認した。
『予告どおり宇野愛香を預かった。今夜七時、下記の場所へ現金二千万円を紙袋に入れて持って来ること。但し、島崎肇一人で来ること』
十無は愕然とした。
まさかDが誘拐を企てるとは、十無も予想していなかった。最初からDは宝飾品を狙うものだと思い込んでいたのだ。そのため、警備は島崎肇のマンションとウノ・ジュエリーに絞っていたのだ。
早速、十無の同僚刑事が、店の二階事務所で女子高生から詳しく人相などを訊き出していた。
「念のためマンションに電話して愛香さんが本当にいないのか確認してください」
落ち込んでいる暇はない。
十無は呆然としている宇野社長に電話を促した。
宇野社長は青ざめた顔で自宅に電話した。家政婦が言うには、宇野愛香は昼前にちょっと出かけてくると言って外出したきり、昼食になっても帰って来ないとのことだった。
「刑事さん、お金ならいくらでも用意する。必ず娘を無事に……愛香までいなくなったら……ああ、何ということだ!」
宇野社長はよろよろと再び椅子に座り込み、頭を抱えた。
「宇野さん、落ち着いてください。必ず、無事に助け出しますから」
「愛香はどうなる!」
「社長、しっかりしてください。警察を信じましょう」
十無も予想外のことが起こり、島崎肇や宇野社長と同じくらい動揺していたが、表向きは冷静さを保っていた。
「島崎さんの一番大事なものって、宇野愛香のことだったのか」
「彼女は、婚約者ですから」
こんな事態の中、島崎は青ざめながらもそう断言した。恋愛には奥手の十無でさえ、島崎が宇野愛香を大切に思っていることが充分見て取れた。しかし、大きな会社を狙った身代金目的の誘拐にしては、二千万円は小額だ。目的は金ではないのか。Dは島崎肇にこだわっている。怨恨か。だとすると、島崎肇と関わりのあった人間がDということになる。
『何故、宇野愛香はDをかばうような発言をしたのか』
昇が言った言葉。やはり、そこから割り出されるのは、宇野愛香の姉、水香だ。
愛香が何らかの形で、Dが姉だと知って姉をかばったのであれば説明がつく。島崎肇を指名してきたことも、水香と島崎は元婚約者と言う間柄だったのだから、妹に乗り換えた島崎肇のことを、水香は良く思っていないのかもしれない。物的証拠は何もないのだが、そう考えると辻褄があった。だが、宇野愛香を誘拐した目的がよくわからない。それに、宇野愛香はどの程度、姉のことを知っていたのだろうか。もしかすると、宇野愛香は姉に会う為に自ら出向いて行ったのかもしれない。今となっては、真相を愛香に訊くことはできないが。
十無はあれこれと考えをめぐらせたのだが、年配の同僚刑事が女子高生と一緒に二階から下りてきて、「誘拐となると、本庁が来ることになるぞ」と耳打ちされ、十無は我に帰った。
そうだ、捜査本部が設置されてしまえば、この事件は自分の手から離れて、遠いところへいってしまうのだ。関われたとしても、自由に動けない。運転手代わりにこき使われるのが関の山だ。警察という組織にいるのだから仕方がないのだが、ここまできたら、自分の手で解決したかったのだが。
十無はうなだれた。
「きみ、ちょっと待って」
東十無は帰ろうとしていた女子高生に声をかけて、内ポケットから一枚の写真を取り出して、女子高生に見せた。
「さっきの女はこの人ではないですか? これは若い頃の写真なので多少違っていると思いますが」
十無は学生時代の宇野水香が写っている写真を入手していたのだ。
「こんな地味じゃなかったから、違うと思うけど。よくわからない。さっき充分話したからもういいでしょ」
女子高生はうんざりした様子で、逃げるようにして応接室を出て行った。
やっぱり、高校時代の写真では無理があったかと、十無は肩を落とした。
「Dの目星がついているんですか?」
島崎は十無が持っている写真に興味を持ち、側に来て写真を覗き込もうとした。
「いや、これはまだ、はっきりしないので……」
十無は言葉を濁し、慌てて写真を懐にしまいこんだ。
確実な証拠もないのに、十無の独断で宇野水香を容疑者として扱っているのだ。それを言うわけにはいかない。
「おい、東。なにを掴んだのか知らんが、あんまり一人で突っ走るなよ」
同僚刑事が呟いた。
「わかってます」
そう返事をしたが、何とか自分で解決したいと思っていた十無はかなり焦っていた。
直ちに捜査本部が設置された。
誘拐という犯罪の性格上、報道陣はシャットアウトされ、捜査は極秘に進められた。
「所轄の盗犯課だけで動いていたって? 勝手な真似をしたものだ。何故直ぐに知らせなかった」
捜査会議後、警視庁捜査一課の刑事、狭山が、渋い顔で十無を睨んだ。十無と同年代に見えるその刑事は、多分、一番下っ端に違いない。それなのに、警視庁刑事という立場を鼻にかけているような横柄な態度だった。
「……我々だけで充分だと思いました」
極力感情を抑えて、十無は言葉を返した。
「あなたは上司に随分信頼されているようだ。だが、一捜査員が独断で判断できることではない。過ちを犯す前に、今後は全て報告することだ」
「わかりました」
眼鏡をかけたサラリーマン風のこの男とはうまくやっていけそうにもない。嫌な奴と組まされたと十無は内心思ったが、顔には出さずに無表情で返事をした。
狭山は十無の耳元でこう付け加えた。
「所詮、所轄じゃ大したことはできない。君も早く手柄を立てて本庁へ来るチャンスを掴むことだ」
「どこにいても同じ刑事です」
「確かに、刑事には違いない」
狭山は鼻で笑った。
十無はいつになく頭に血を上らせた。
捜査会議で、十無は宇野愛香がDをかばうような言動をしていたことは敢えて言わなかった。発言しても取り合ってもらえない気がしたのだ。
もう少し有力な証拠があれば。だが、有力情報を掴んでも、こいつにだけは絶対に教えたくない。
「おい、東。うまくやれよ」
同僚の年配刑事が、廊下にいた硬い表情の十無に声をかけた。
「いくら俺でも、あの嫌味野郎には腹が立ちます」
「我慢しろ。手柄を立てて見返してやれ。東なら、あんな野郎よりよっぽど仕事ができるだろう。本庁に目をかけてもらう絶好のチャンスじゃないか。何か掴んでいるんだろう? 期待しているからな」
「そううまくはいきませんよ」
肩をぽんと叩かれ、十無は苦笑した。
午後七時に向け、被疑者確保の準備が着々となされていた。
Dが指定した場所は、銀座の百貨店内一階の、案内カウンター前だった。
店内は私服警官が多数配置され、東十無もその一人として一階の出入り口付近で狭山と共に警備に当たっていた。
日曜日ということもあり、店内は混雑していた。そんな中、指定場所である案内カウンター付近には、警視庁のベテラン捜査員が数人、目を光らせていた。
「百貨店を指定してくるとは、敵も考えたな」
狭山が舌打ちした。
百貨店店長にも協力要請を依頼してあるが、この人ごみでは身動きが容易ではない。おまけに、案内カウンターにはひっきりなしに客が立ち寄っている。女性店員のうち一人は婦人警官なのだが、案内に追われて目配りをするのは無理なようだ。
七時五分前、二千万円の入った紙袋を下げた島崎肇は、緊張気味に十無の前を通り、案内カウンターへと向かっていった。
捜査員達に緊張が走った。十無も島崎から目を離さないよう、注意深く見守った。
Dはどんな手でここに現れるつもりなのか。出入り口は全て押さえてある。客ともども、この建物からは出られなくなるのだ。
女性の年配客が、なにやらメモ用紙を渡してカウンターの店員に話しかけた。店員はメモ用紙を開いたとたん、慌てて店員に扮している婦人警官にメモ用紙を見せた。
婦人警官は女性店員に目配せをすると同時に、無線で捜査員に内容を知らせた。
「マル被からの指示あり。五階エスカレーター前」
いよいよか。
十無は真っ先に五階へ行きたかったが、持ち場から離れるわけにはいかない。案内カウンター付近に張り込んでいた捜査員達が、エスカレーターに乗るのをじっと見守った。
『お客様のお呼び出しです。島崎肇様。宇野愛香様が五階エスカレーター前でお待ちしています』
アナウンスが流れた。
誘導通り、島崎肇はエレベーターに乗った。
『五階、誰もいません。島崎さんはそのまま向かって』
先に五階に着いた捜査員が島崎にも無線で伝えた。
「そうですか……」
島崎はため息と共にそう応答した。捜査員達は一瞬気が抜けたのだが、彼が五階に着いたと同時に携帯電話が鳴り、再び緊張が走った。
「電話に出ます」
緊張感漂う島崎の声を、十無も無線で聞いていた。無線をつけたまま島崎は電話に出た。
「無線を捨てろ」
以外にもそれは男の声だった。Dの仲間なのか。
「愛香ちゃんは無事なのか?」
「言う通りにしろ」
「今、捨てる」
無線からの情報はここで途絶えてしまった。
十無は今何が起きているのか知る術がなくなってしまった。後は五階にいる本庁の捜査員達に任せるしかない。
何が起こっているのか。十無は焦れていた。
百貨店内にDが現れるにはリスクが大きすぎる。島崎肇を別の場所に誘導するのではないか。移動する場所は……車か、地下鉄! この百貨店は地下を通って地下鉄に乗ることができる。
「東君、どこへ行く!」
「そこは狭山さん一人で充分でしょう!」
こんな所にいてもだめだ。十無はいても立ってもいられず、自分の勘を頼って地下へと走った。
東十無が地下の出入り口にたどり着いた時、異常な騒ぎが起きた。客が皆、エスカレーターの方へ突進して行ったのだ。
「お札をばら撒いている奴がいるんだって!」
客の一人がそう言っているのが聞こえた。
「なんだって?」
十無は耳を疑った。
『わあっ!』
歓声が上がったと同時に、地下のエスカレーター周辺に一万円札が舞い、それに群がる客達でごった返した。その間から、島崎が見えた。島崎肇が札を撒いていたのだ。島崎は十無がいる出入り口へ向かって走って来た。
「島崎さん!」
十無は叫んだのだが、この騒ぎでその声はかき消され、島崎は出入り口の側にいた十無に気がつかずに必死の形相で地下鉄駅へとそのまま走って行った。
十無もその後を追おうとしたが、札に群がる客に押し戻され、身動きが取れなくなった。
「畜生!」
十無は島崎肇が地下鉄駅に向かったことを無線で伝えようとしたが、騒々しくて伝わらなかった。群集からようやく抜け出て連絡した時には、島崎肇を完全に見失ってしまったのだった。