16・動揺
Dの予告状が指定していたその当日がきたというのに、今、何がどうなっているのか、アリアには全く情報がなかった。
前日の土曜日も、ヒロやDからの連絡はなく、宇野愛香からも何の音沙汰もなかった。だからといって下手に動けない。これ以上ヒロに怒られたくなくて、柚子と二人でマンションにじっとしていたのだった。
昼下がり、うららかな春の日差しが窓から差し込み、ソファにいるアリアを照らしている。そんな天気とは裏腹に、すっかり蚊帳の外にされたアリアは、どんよりと曇がかかってもやもやとした気分だった。
アリアは朝から何度となく外を覗き、東十無が現れるのを待っていた。昨日もずっとそうしていたのだった。だが、午後になっても十無の姿はなかった。サングラスをかけたまま、ソファにもたれているうちに、ついまどろんでしまった。
「ウノ・ジュエリーで何かあったのかしら」
アリアの考えを代弁するように柚子が言った。
「どうだろうね」
「そんな気のない返事して。昨日からずっと、窓の外ばっかり気にしていたじゃない。誰かさんが来るのを待っているんでしょ」
アリアは無関心を装って答えたのだが、柚子はお見通しのようだ。
「ねえ、ウノ・ジュエリーに行ってみない?」
「だめ。危険だ」
「いいじゃない。双子とも連絡がとれないし、Dもどうしているのかわからないんだもの。アリア、心配でしょ。私だけだったら大丈夫じゃない? ちょっと様子を見てくる」
「柚子!」
「行って来ま〜す」
柚子も、気になって仕方がなかったのだろう。アリアが止める間もなく、柚子は部屋を飛び出した。
「大丈夫かなあ……」
アリアは走って行く柚子を窓から見送りながら、心配顔で呟いた。
今頃、愛香さんはDを追い詰めてしまった自分を責めているのかもしれない。それにしても、Dは何を盗む気なのだろうか。ヒロからも連絡が来ないということは、昨夜からDと一緒にいるにちがいない。ヒロはDのことを放っておけないのだろう。ウノ・ジュエリーに忍び込む計画を、二人で練っていたのかもしれない。でも、連絡くらいくれてもいいのに。
ここでいくら考えていても、どうにもならないことなのだが、考えずにはいられなかった。
Dのことが心配だというのは本当だ。だが、それ以上に、二人が一緒にいるということが不安だった。アリアは寂しかった。ヒロにおいていかれる寂しさ。一人にされる寂しさ。
ヒロが離れていくのは嫌。エゴだと思うが、これが間違いなく自分の正直な気持ちなのだ。
柚子も出かけていき、一人、取り残されたアリアは、孤独を増長させていた。
何もかも忘れて眠ってしまおう。そう思って、キッチンにブランデーを取りに立った時だった。優しいけれどちょっとぶっきらぼうな聞き慣れた声が、背後から聞こえた。
「アリア」
「十無?」
振り返ると、東十無が勝手に居間へ上がりこんでいた。
十無の顔を見るなり、アリアは思わず顔がほころんでしまった。
仕事で来たのだとしても、十無に会えるのは嬉しい。
だが、そう思ったのは束の間だった。東十無が険しい顔をしていたのだ。
「Dの予告状は悪戯っていうことで片付いたんだよね」
何かあったのか。Dからの予告状が来て、ぴりぴりしているだけなのか。アリアは恐る恐る探るように訊いた。
「お前に確かめたいことがある」
「なに、怖い顔をして」
アリアは微笑みながら、いつもの調子で返したのだが、十無は難しい顔を崩さずにこちらを凝視している。
「ねえ、十無も飲む? ブランデーを紅茶に入れて飲んだら美味しいんだけれど。あ、仕事中だから無理か。残念だね」
アリアはその視線が居心地悪く、ティーポットに湯を注ぎながら話し続けた。十無は相変わらず固い表情でアリアを見つめている。
「十無、何かあったの? なんだか変だ」
十無はいつもに増してスーツをかっちりと着込み、思いつめた表情をしている。
「十無の方にはブランデーを入れていないから、ご安心を」
アリアは並々と紅茶が入ったマグカップの片方を応接テーブルに置いて勧めたのだが、十無はソファに座ろうとはしなかった。
アリアは仕方なく窓辺のソファに腰掛けた。
これ以上何と声をかけて良いのかわからない。場が持たず、アリアはブランデー入りの紅茶を口に運んだ。
「宇野水香はDなんだろう?」
「なんのこと」
「宇野愛香の姉だ。昇と捜していたんだろう?」
「そのお姉さんがDだと? まさか」
十無の問いかけにどきりとしたが、アリアは手元のマグカップに視線を落として動揺を隠した。
十無はどうやってDと宇野水香を繋げたのか。情報をつかんでいるとすれば下手なことは言えない。アリアに緊張が走った。
十無の視線を感じる。まだこちらを凝視しているようだ。
「とぼけるのか。まあいい、いずれはっきりすることだ。ウノ・ジュエリーにDが現れるのは間違いないだろうから」
十無は紅茶に手をつけず、アリアが座るソファの横に立って背もたれに手をかけた。
「なに?」
アリアは傍に立つ十無の顔を見上げた。真面目な表情を崩さない十無。今日の十無は何処か雰囲気が違うように感じる。
アリアは十無の髪がいくらか短くなっていることに気がついた。
「十無、床屋に行ったの?」
十無は黙ってアリアの肩に手を乗せた。
「十無?」
肩から手の温もりが伝わってきた。アリアは十無の態度に混乱した。
なに? どうしたらいいのだろう。
肩にあった手はアリアの髪を優しく撫ぜて、もう片方の手でアリアの頬を包み込んだ。何が起こったのかわからないまま、十無の顔が近づいてアリアは口を塞がれた。
十無の唇がアリアの唇に重なった。その現実を、アリアは信じられずに抵抗することさえ忘れていた。
十無の躊躇いがちなキスは、次第に激しく奪うようなキスに変わった。
「いやだ」
我に帰ったアリアは、十無の手を払いのけてソファを立ち上がった。
十無がキスなんて……。
立ち尽くす十無を、アリアは複雑な心境で見つめた。思いつめた表情の十無は、ただこちらを見つめるばかりだ。その表情は辛そうにも見える。普段から無口だが、今日は輪をかけて口数が少ない。手を伸ばせば届く距離にいる十無は、いつもと別人のようにも感じた。
アリアははっとした。
「まさか、十無じゃない? もしかして、昇?」
目の前にいる十無は、アリアから目をそむけたのだが、アリアはその顔を覗き込んだ。
「昇でしょう。どうしてこんな真似を」
「おまえ……俺だってわからなかった」
「だって、スーツを着ているし、髪も短いから……」
やはり昇だったのだ。
「はっきりとわかった。おまえは俺を通して兄貴を見ている」
「昇、言っている意味がよくわからない」
「俺に見せる顔は総て兄貴に向けていた顔だろう? おまえは兄貴と俺を混同している」
「それは、昇が十無の格好をしてきたから間違えただけで……」
「違う。お前はいつも、俺を見ながら兄貴の面影を俺に見ていた。性格が違うから、兄貴と同じ顔をしていることを、俺はすっかり忘れていたが、俺達は同じ服装になれば見分けがつかないほど似ている」
確かに、昇に初めて会った時も初対面の気はしなかった。それに、昇といると、落ち着くのだ。自分でも薄々そんな気もしていた。でも、面と向かって断言されると自信がなかった。
本当にそうなのか。アリアは自問した。
「俺は兄貴とは違う。東昇を見てくれ」
真剣な顔で、十無の姿をした昇がアリアを見つめた。
「兄貴のことが好きなんだろ?」
「……」
アリアは自信がなくなっていた。十無が来てくれたというだけで嬉しくなる。好きなのだとも思う。でもそれは本当に十無への思いなのか。十無よりも頻繁に会う機会が多い昇を、勝手に十無にすり替えて見ていただけなのではないか。昇の優しさも、十無のものと思い込んでいたのかもしれない。
「アリア、俺を見てくれ」
アリアは昇に頬を撫ぜられて抱き寄せられた。
抗おうとしたが、抗えなかった。恐る恐る、壊れ物を扱うような昇の抱き方が、あまりにも優しすぎて、アリアは腕の中から抜け出す機会を逸してしまったのだ。
抱きしめている昇の腕が、優しくアリアを包み込み、昇の温もりが伝わってくる。
アリアは自分の鼓動が早くなるのを自覚した。そんな自分の反応に動揺していた。
昇の言うように、これは十無に対する反応なのか、自分でも説明がつかなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
ヒロがDに付っきりで、孤独に寂しさを募らせていたアリアは、優しく寄り添ってくれる相手がほしかったのだ。