13・抱擁
「まさか、動いていないよね」
「まだ、やってないわよ」
「まだって……やっぱり」
「もう遅いわ。ことは始まったの」
同日の深夜、寝入りばなのアリアは携帯電話に起こされた。
ようやくDから連絡が入ったのだ。だが、時すでに遅く、Dはウノ・ジュエリーに下見に行って来た帰りだという。
偽予告状の一件を知ったDは、早速本物の予告状をウノ・ジュエリーへ送っていた。ごく普通に、速達という形でポストに投函して。
「それがあの子の望みなのであれば、私はどんなことがあっても行くわ」
Dは覚悟を決めているようだった。
何とか思いとどまらせなければ。Dは本当に捕まってしまうかもしれない。
アリアは必死に止めようとした。
「違う。愛香さんはそんなことを望んでいるわけじゃない。ただ、Dに会って話したいだけだ」
「あの子は、家族を捨てて家を出た私を憎んでいる。私も許してもらいたいなんておこがましいことは言わない。ただ、愛香に幸せになってほしいだけ」
「愛香さんはDのことを憎んでいないと言っていた。それにDが予告状を出しても何の解決にもならない」
「私は私のやり方で解決するわ」
「私に任せてくれるって言ったよね?」
「それは、宝石箱のことだけだったから。状況が変わってしまったし、婚約者――島崎のことがやっぱり気がかりだから……アリアちゃんには色々迷惑をかけちゃったけれど、自分でなんとかするわ」
「危険だ。いくらDでも、警官が厳重に警備している中に飛び込むなんて」
「馬鹿なまねはしないから安心して」
Dは心持ち、楽しそうにふふふと笑った。
「D?」
「おかしいでしょ。こんな状況を楽しんでいる私がいる。私は根っからの泥棒なのよ。これは病気ね。一生、死ぬまで治らない不治の病」
アリアは時折、Dを理解できなくなることがある。アリアは自分のことを楽天的な方だと思っていたが、やはり、窮地に追い込まれると、落ち込んでネガティブになってしまう。だがDは逆境下でも決して卑屈にならない。それどころか、その状況を楽しんでいるようだ。強靭な精神力の持ち主なのか、単に楽天的なだけなのか。後悔するという思考は持ち合わせていないようだ。
ただ、前進あるのみ。
Dの快活な言動は、不可能なことなど存在しないと思わせる力がある。いや、Dはきっと不可能を可能に変えてしまうのだ。
アリアはとうとう説得を諦めた。
「Dの言葉、信じていいんだね」
「勿論」
「もう一つだけ訊いていい?」
「なにを?」
「予告状には何て書いたの?」
「ああ、あれね。『島崎肇の一番大切なものを頂きます』って送ったわ」
「大切なもの……」
「どう? 気の利いた予告状でしょう」
気が利いているかどうかはさておき、Dが何を意図しているのか、アリアにはさっぱり想像がつかなかった。ただ、その妙な予告状に唖然とするばかりだった。
「無茶なことはしないよね。ヒロが、心配するから」
「大丈夫よ。それにヒロは関係ないでしょ」
「そんなことない。ヒロにDを追い詰めるなと怒られた」
「おかしな人ね。アリアちゃんは何もしていないじゃない」
「とにかく、危ない真似はしないで」
「はいはい」
Dはどうでもいいというように、返事をした。
「あら、噂をすれば――」
「どうしたの?」
「ん、なんでもない。もうマンションに着いたから、電話を切るわね」
「あっ、待ってD!」
アリアの呼びかけも空しく、Dはさっさと電話を切ってしまった。
電話の途中で、Dは誰かに会ったようだった。Dに会いに来る人物――ヒロ以外考えられない。
そうやってヒロはいつも、知らないところでDの傍にいるのだろう。
アリアは胸が疼いた。
「俺の出番はないのか? 何か手伝うことは」
「私一人で充分」
玄関前でドアに寄りかかり、ヒロが待ち伏せしていた。Dは携帯電話をバッグにしまい、冷たく言い放った。
まるで拒絶するかのように。
ここで、ヒロに弱い自分をさらけ出すわけにはいかない。これ以上ヒロに頼り切ってしまったら、離れられなくなる。
Dは構えていた。
深夜、Dのマンション。廊下は煙草の煙で充満している。煙草の吸殻は落ちていないが、多分、ヒロはずっと玄関の前でDの帰りを待っていたのだろう。
ヒロが自分のことを心配してくれていた。本当はとても嬉しかった。だがDは素直にその胸に飛び込んでいくことはできなかった。
これ以上、頼ってはだめと、Dは頭の中で繰り返し呪文のように唱えていた。
「よけてくれない? ドアを開けられないわ」
「冷たいな。心配かけさせておいて、その言い方はないだろう」
「あなたが勝手に心配していたんじゃない。アリアちゃんにも余計なことを言ったでしょ」
「あいつは知りもしないで、いろいろと首を突っ込むから」
「あなただって、知りもしないくせに」
「俺に、そういうことを言うのか」
「本当のことだもの」
「俺を責めるのか」
「そんなことは言ってないわ。お願いだから、私のことは放っておいて。一仕事して疲れているの。早く眠りたいからそこをよけて」
「一人で強がって、抱え込むな」
ヒロはDの肩を片手で掴み、顔を見下ろした。Dもヒロの視線に負けじと睨み返した。
「別に、強がってない」
「じゃあ、是非手伝わせてくれとでも、俺が言えばいいのか」
押し問答が続き、ヒロはとうとう声を荒げた。
「あなたを頼ることはできない。あなたはアリアちゃんのことで精一杯でしょう!」
Dは思わず口をついて出た自分の言葉に、はっとした。
言ってはいけないことを言ってしまった。
後悔がDの頭をよぎる。
「ヒロ、ごめんなさい。お願い、これ以上、私を惨めにさせないで」
ヒロの手を振り解いてDは背を向けた。その時、Dの表情が一瞬こわばったのをヒロは見逃さなかった。
「俺が悪かった」
ヒロは急に声を和らげ、背後から優しく包み込むようにDを抱き締めた。
「優しくしないで、ヒロ。私が馬鹿なことを口走ってしまったの。今まで通り、私を利用して。私もあなたを利用するんだから。ね? そういう関係でしょう? 私達のラブ・アフェアに、深刻な顔は似合わないわ」
極力明るい口調にしたつもりだったが、Dの声は微かに震えていた。
「馬鹿なのは俺だ。いつまでたっても、あいつのことを断ち切れない。自分の気持ちをどうすることもできない」
腕から逃れようとするDを、ヒロは一層強く抱き締めた。
「いいの、今のあなたのままで」
「もっと我が儘になれ」
Dはヒロに囁かれながら髪を優しく撫ぜられ、気持が落ち着いていった。
「充分我が儘なつもりよ」
「水香」
「その名前は口にしないで。私はDよ。大胆で、気位が高くて、勝気なの。そして、何よりも危険なことが好き」
「俺も、危険な女は好きだね」
いつもの調子に戻り、悪戯っぽく言ったDの言葉に、ヒロも同じ調子で返した。
「私にかかわっていたら、今に痛い目に遭うかもしれないわよ」
「そうなる前に、今夜は俺がDを痛い目にあわせようか」
Dを背後から抱き締めたまま、ヒロは指先でDの唇をゆっくりと撫ぜた。
今夜、不安定な気持のままヒロに身を委ねれば、ヒロに溺れてしまう。溺れて、そしてもう浮かび上がれなくなる。Dにはそんな不安があった。
ヒロの腕の温もりが心地よい。手放したくない。けれど、この力強い腕はあの娘のもの。
「今夜は勘弁してほしいわ」
Dは瞳を閉じて、深いため息をついて吐き出すように言った。
「夜が明けるまで時間はたっぷりある。夜更かしくらい、いつものことだろう」
「無茶言わないで」
「今夜はこのまま、別れたくない。俺の気が済まない」
「私を一人にするのが可哀想だから?」
「違う、俺がDを必要としている。どうしても一緒にいたい」
ヒロは耳元で囁き、Dの長い髪を弄んで髪に口付けた。
軽い眩暈。
この瞬間はヒロはDのものだった。ひと時だけでもいいとDは思ってしまった。
「……仕方ないわね」
抱き締めた腕を離そうとしないヒロに、とうとうDが折れた。
ヒロの強引さは優しさ。Dを絶対一人にはしておけないと思わせるくらい、ヒロにはDが弱々しく映ったに違いなかった。
ヒロなりにDを大切に思っているのだ。
ヒロの同情に近い感情。
Dにもそれは充分わかっていた。それ故に、Dはヒロの優しさが一層辛かった。
ヒロに肩を抱かれてDは部屋のドアを開けた。