11・くい違い
「ところで、なぜ別の姿の私をすぐ見つけられたのかな?」
「それは……」
マンションまでの帰り道、アリアの問いかけに宇野愛香は言葉に詰まって俯いた。
「後をつけていたね? 学校に行く約束だったはずだ」
「ごめんなさい」
並んで歩くアリアに、愛香はぺこりと頭を下げて素直に謝った。
「でも、途中でアリアさんを見失ってから、ちゃんと学校へ行ったのよ。ねえ、アリアさんって女装が板についてるっていうか、どこから見ても可愛い女の子に見えるんだけれど」
「そんなことはどうでもいいの」
今謝ったばかりなのに、愛香はけろっとして、アリアの『女装』ぶりに感心している。
アリアは呆れてため息をついた。
「……お姉ちゃんに会ってきたんでしょ」
「……」
「お姉ちゃん、なんて言っていたの?」
愛香が口を尖らせて、硬い表情で訊いてきた。突然本題に触れられ、アリアはどう話そうか迷った。
心に壁を作って姉に対し嫌悪感を表している愛香に、下手なことは言えない。
ゆっくり歩きながら、アリアは言葉を選び選んで慎重に話し始めた。
「水香さんは後悔している。……愛香さんにどんな顔をして会えばいいのか」
「今更……勝手に家族を捨てておいて、八年もの間、私がどんなに心配していたか知りもしないくせに!」
俯いて歩く愛香は肩を振るわせて、頬には涙が伝った。
たった一言で、こんなに感情が高ぶってしまう愛香に、なんと声をかければよいのだろう。
どう考えても思いつかなくて、アリアは思いつくままに話すことにした。
「愛香さんは、島崎さんのことが好きなんでしょう。島崎さんもきっと……」
「あんな奴なんか、お姉ちゃんとくっついたらいいのよ!」
愛香は足を止めて、涙を溜めた瞳でアリアを睨み返した。
「お姉さんは、愛香さんと島崎さんがうまくいってくれたらいいと……」
「勝手なこと言わないで。……私がどんなに苦しい思いをして、どんなに辛かったか。それを……アリアさんの馬鹿!」
愛香はそう言い捨てて走り去った。
傷つき、壊れやすい硝子細工でできた心。今の愛香には何を言っても無駄なのかもしれない。
でも、苦しくて辛い思いとは……。
「あーわからない! 大体、私にこのての話をまとめろという方が無茶だ。……これからどうしよう」
アリアは肩を落として途方にくれた。
「愛香さんなら帰るなり部屋にこもっているわよ。何かあったの?」
「ちょっとね。失敗しちゃって」
心配顔の柚子が玄関先へ出てきた。
まだ正午過ぎだというのに、柚子が帰宅していたことにアリアは引っかかった。
「柚子、まだ昼だけれど。午前授業だったの?」
「それにしても、今日はまたずいぶんと可愛くなっちゃったのね」
アリアの質問をかき消すように、エプロン姿の柚子はじろじろと薄桃色のワンピース姿のアリアを眺めて、大袈裟に驚いた。
「愛香さんにつけられないようにイメージを変えたのだけれど。結局、骨折り損だった」
「そう。十無に見せたら、きっと喜ぶわね」
「余計なことは言わない!」
もしかして、柚子にもつけられていたのかもしれないとアリアは思ったが、これ以上詮索するのをやめた。
どうせ、はぐらかされて終わるのが落ちだ。
アリアは変装を解かずに、居間のソファに体を投げ出した。
柚子はキッチンへ戻って昼食を作り始めた。
午前中だけで一日分働いたような気分だった。それぞれの気持ちがアリアに重たくのしかかってくる。
愛香さん、D。無力な自分は何をしたらよいのか。
「ああ、もうやめた。考えたってどうにもならない」
アリアはソファから勢いよく起き上がった。
ホワイトソースの良い香りが鼻先をくすぐる。
「お昼、できたわよ。アリア、愛香さんを呼んできて」
「うん」
アリアは言われるままに、愛香を呼びに行った。
愛香がいる部屋の前で、アリアは一呼吸してドアをノックした。
「愛香さん、入るよ」
アリアはそっとドアを開けて部屋に入った。
愛香はセーラー服のまま、ベッドに寄りかかるようにして座り、何をするでもなくただぼんやりとしていた。
「さっきはごめんなさい。八つ当たりしてしまって……アリアさんは悪くないのに」
愛香は顔を上げて弱々しく言った。
「私のことは気にしないで。それより島崎さんのこと、本当にあれでよかったの?」
アリアは愛香の前に屈んで優しく声をかけた。
じっとこちらを見ていた愛香の瞳から、堰を切ったように涙がぽろぽろと溢れ出した。
「どうしよう、もう何もかも終わりよ」
愛香はわっと泣き出してアリアに抱きついた。
「私って子供なのかしら。……本当は肇さんのことが好きなの。ずっとずっと前から密かに想っていた。でも、お姉ちゃんがいなくなって優しかった肇さんの態度が変わったの。会う度に、いつも駄々っ子をもてあますような、困った顔をして私を見る。だからつい、憎まれ口ばかり言っていた。さっきの態度で私のことなんか何とも思っていないことがよくわかった。もともと鼻にもかけてくれないのはわかっていた。だから、こっちから先に断ろうって思ってあんなこと言ったけれど、肇さんは顔色一つ変えないで、事務的に『わかった。婚約はなかったことに』なんて冷静に言うんだもの。本当は婚約の話が来た時、嬉しかったの。でも、肇さんは……肇さんはきっと、お姉ちゃんのことを忘れていないのよ……お姉ちゃんには勝てない。勉強も仕事も何でも軽々とこなしてしまう父の自慢のお姉ちゃん。私は何一つ、いつまでたっても勝てないの」
じっと溜め込んでいた想いを、愛香はすすり泣きながらアリアにぶつけた。
振り向いてもらえない想い。愛香の苦しい恋。傍にいても話しをしても、空回りする伝わらない気持。
アリアには愛香の気持が痛いほどよくわかった。
身近にいるのに届かない想い。
だが、愛香の場合、本当に届かない想いなのか。Dは島崎肇が愛香のことを好きなのだと感じていた。それに、Dもまた愛香の方が常に注目されて羨ましく思っていたのだ。
Dが言っていた話と食い違っている、姉妹はそれぞれ思い違いをしているのではないか。
「愛香さん、島崎さんに自分の気持ちを素直にぶつけてみようよ。始めからだめだって決めつけないで、ね?」
「だって、さっきの彼、アリアさんも見たでしょう? これっぽっちも見込みないのよ」
「そんなことわからないじゃない。それとも、すっきりしないまま終わってしまうつもり?」
愛香はアリアの胸に顔を押し付けて、頭を横に振った。
「じゃ、決まり。大丈夫きっとうまくいく。それに、お姉さんのこともお互いに思いを伝えたほうがいい」
アリアは愛香の背中をとんとんと軽く叩いた。
「ありがとう……」
「あのう、ラブシーン中に邪魔をして悪いんですが、折角のパスタが伸びちゃうんですけれど」
アリアが愛香から離れて振り向くと、柚子がむくれて立っていた。
「ごめん、柚子」
「それに……刑事さんがここにいるんだけれど」
「えっ」
またまた間が悪い所へ東十無が顔を出した。
「その女子高生は……おまえの……」
十無は戸口に立ち、髪をかき上げながら目をそらしている。
完璧に愛香のことを誤解しているようだった。
「十無、話すと長くて……」
「アリアの一番新しい彼女よねー」
きっと、食事に直ぐ行かなかったことが面白くなかったのだろう。柚子がとどめを刺した。
「柚子!」
「だって、その娘、さっき言っていたじゃない。アリアのこと好きって」
アリアの予想通り、柚子にずっと後をつけられていたようだ。島崎の件も見ていたに違いない。
「違う、それは言葉の弾みだ……柚子、話をややこしくするな!」
「だって、本当のことだもん」
「わかった。いいんだ、そんなことは。それより、お前、暫くがっちり張り込ませてもらうからな」
わかった。いいんだ? 何がわかったのか。十無にとっては取るに足らないことなのか。
十無の何気ない言葉が心を傷つけ、アリアの顔をこわばらせた。
「身に覚えがないとは言わせないぞ」
アリアの表情を見て、十無は何を思ったのか、見当違いのことを言った。
「ねえ、十無、言いたいことはそれだけ?」
柚子が呆れている。
「詳しいことは言えない。もうこれ以上犯罪を重ねるな。今度はきっと……俺に手錠をかけられることになる。邪魔したな」
十無はアリアと一度も視線を合わせることなく、静かに部屋を出て行った。
「もう、十無ってば、アリアが可愛く女の子してるから、張り込んでいる所を捕まえて、部屋に入れてあげたのに! 他に言うことがないのかしら」
アリアにむくれていたはずの柚子が、今度は十無に怒っている。
「柚子、もういい」
「アリア……」
さすがの柚子も、アリアのその一言で何も言えなくなり、キッチンへ戻って下がった。
「アリアさんもお姉ちゃんと同じ、泥棒なの? それに、柚子さんの言い方って、まるでアリアさんがあの刑事さんのこと……」
「……すっかり食事が遅くなったね。まずは腹ごしらえしよう」
アリアは誤魔化して笑顔を作った。
今に始まったことじゃない。十無とはこういう関係なのだから。
充分わかっているつもりだが、その現実を突きつけられると、やはり辛かった。
アリアは自分を憂鬱にさせるその想いを追いやるように、十無が言ったもう一つの言葉の意味を考えた。
がっちり張り込ませてもらう云々。
何かあったのだろうか。愛香の件にかまけていて、アリアは『仕事』をしていなかった。ヒロが動いているのか。でも、その気配はない。だとするとDだろうか。
「まさか、ね」
アリアは嫌な予感を抱えながら、少し伸びてしまったパスタを口にした。
その頃、ウノ・ジュエリー銀座本店は、八年前を彷彿とさせる状況になっていた。捜査員がひっきりなしに出入りし、パトカーが数台、店を囲んでいたのだ。
アリアの予感は悪いことに的中していたのだった。