10・婚約者
誰かに後をつけられている。
アリアはそう感じて後ろを振り向かず、少し足早に歩いた。
栗色のロングヘアに、ハイウエストの薄桃色のワンピース。いつもの女性姿より、やや幼く見える服装のアリア。
柚子でも遠目からであれば見抜かれないだろうと、自信を持って変装したのだ。それなのに誰かにつけられている。途中で誰かがつけてくるなどとは到底考えられない。多分、マンションからつけられていたのだろう。
とするとやはり……。
アリアは街角を素早く曲がって路地裏に身を滑り込ませた。
その後を追うように、角を曲がったセーラー服の娘が辺りを見回した。
「えーっ。いない? 今、曲がったはずなのに」
制服の少女が舌打ちした。
少し離れた路地裏の壁際から、アリアは彼女の姿をはっきりと確認した。
それは宇野愛香だった。
彼女はそのまま通りを真っ直ぐ歩いていった。
「まったく、油断も隙もない」
アリアは肩を落として大息をついた。
「さて、急ごう」
両腕を上げて伸びをして気を引き締めるように声に出し、アリアは用心しながら路地から路地へと通り抜けてDのマンションへたどり着いた。
「誰よ、こんな時間に」
インターホンに出たDの声はあからさまに迷惑そうだった。
無理もない。Dは宵っ張りで午前中はまだベッドの中のはずだった。
Dがドアを開けてくれるまでやや時間があり、アリアは仕方なくぼうっと玄関前に立っていた。
唐突にドアが開いた。化粧っ気のないDがしかめた顔を覗かせて、「何の用?」と不機嫌そうに言ったので、アリアは一瞬たじろいだ。
だがアリアの姿を見てDの態度は一変した。
「あらん、アリアちゃん。何? 可愛い〜」
「ちょっと、D。とりあえず部屋に入れて」
抱きついてきたDを、アリアは引き剥がすように手で押しやるが、Dはなかなか放してくれない。
「来る途中で愛香さんにつけられていたから、念のため用心しないと」
その言葉を聞いた途端、Dの表情が硬くなってアリアの腕を掴んで部屋に引き入れ、ドアを素早く閉めた。
「先にそれを言いなさいよ!」
険しい顔でDはアリアを睨んだ。
「だって、言う暇をくれなかったじゃない」
くるりと背中を向けて居間へさっさと向かうDに、アリアはまともに反論できずに小声で呟いた。
不用意なことを言ってしまった。折角Dの機嫌がよかったのに。
薄手のパジャマにガウンを羽織っただけのDは、ボリュームのある胸元がはだけぎみになっていた。
目のやり場に困る格好をしていたが、Dは無頓着に腕組をし、アリアと向かい合わせにふんぞり返るようにソファに座って足を組み、話を切り出した。
「で、何よ。用って」
「いや、その……」
Dの高飛車な態度に圧倒され、アリアはなかなか言葉が続かない。
宇野愛香につけられたこと怒っているようだった。ここで愛香さんの言っていたことを伝えたら、Dはまともに聞いてくれるだろうか。
「なによ、どうせ愛香のことなんでしょ? 何かあったの」
Dはじれったそうに苛々した口調で話を促した。
どうせ首を突っ込むなと言われるだろうが、ここまでかかわったらもう後には引けない。
アリアは一呼吸ついてから、ようやく口を開いた。
「愛香さん、どうしてもDに会いたいって言っていた」
「会うなんて、無理だわ」
予想通りの投げやりな返事が返ってきたが、アリアは粘り強く先を続けた。
「Dのフィアンセ、愛香さんと婚約するそうです。でも、愛香さんは、お姉さんの変わりとして婚約するのは嫌だと言っている」
「ちょっと待って。じゃあ、あの子は断ったの?」
Dは目を見開いて意外だとでも言うような顔をしている。
「普通は嫌なんじゃないの? 身代わりに婚約するなんて」
「愛香は島崎……婚約者のこと、ずっと以前から好きなの。どうして断るのよ」
「そうなの? でも、愛香さんがそう言っていたよ。姉の代わりに婚約して店を継ぐのは嫌だって。それが本当だとしたら、店を継ぐことだけが嫌ということ?」
「もしかして、あの子まだ……」
Dは何か思い当たる節があったのか、眉をひそめた。
「だけど、愛香さんがDの婚約者のことを以前から好きだったって本当? Dが家を出たのが八年前、二十歳の時でしょう? その時、愛香さんは十歳だよね。小学生でしょ? 婚約者の歳は……」
「婚約者、島崎肇に初めて会ったのは、彼が二十四歳の時。私は十九歳、愛香は九歳だった。ふふ、あの子はませていてね、その頃は外見も中学生に見えるくらい早熟で大人びていて、地味な私よりよっぽど綺麗だった。彼が父に招待されて初めて家に訪ねてきた時から、彼の目には愛香が映っていたのだと思う」
「どうしてそう思うの」
「彼が微笑みかける時、始めに目が行くのは決まって愛香。それから申し訳なさそうに、おまけで私の方を見ていたわ」
Dは表情が穏やかになり、肩をすくめて苦笑した。
何度聞いても、地味で目立たないDなんて、今のDからは到底想像がつかなかった。だが、高校時代の同級生からの聞き取りでも耳にしたように、それは本当のことなのだろう。
「あの子も島崎のことを好きだったんだと思う。きちんと確かめたわけじゃないけれど。肇さんって呼んでとても慕っていて、島崎が遊びに来ると、必ず家にいたから。でも、愛香は私に遠慮していた。だから、なんだか私一人が二人の邪魔しているようで辛かったわ」
その頃のことを思い出して憂鬱になったのか、Dは重いため息をついた。
「島崎は大学院を出たてで入社したばかりのひよっこだったけれど、仕事はできて父にとても気に入られたの。で、知らないうちに私は婚約させられていた」
「知らないうちに?」
「そう。……元はと言えば父が悪いの。私には一言も相談せず、父が勝手に島崎と話を進めて、島崎もオーケーしたってわけ」
「次期社長を狙って?」
「島崎はそんな野心家じゃないわ。頼りなくって、自信なさそうで、あんた大丈夫? って声をかけたくなるような、童顔の男。だから、多分、婚約の話も父に押されて、島崎はつい、『はい、わかりました』って返事をしてしまったんだと思う。彼には人を惹きつける何かがあって、新規出店も簡単に成功させて……。社内の女の子も彼に目をつける娘が後を絶たなかったわ。だから、後継者にと思った父も、先手を打って私と婚約させたんでしょうね」
そこまで一気に話したDは小さく息をついて、足を組み直した。
「でも島崎って、仕事以外はまったくだめ。恋愛にしても。だから婚約が勝手に決まった後、家を訪ねてきて律儀に私への婚約指輪を差し出したの。愛香に惹かれていたくせに。……ま、彼はそういうことにひどく鈍感だったから、自分の気持に気がついていなかったのかもしれないけれど」
Dはソファにもたれて、うつろな表情で天井を仰ぎ見ながら話を続けた。
「その時、私は断るべきだったのにできなかった。……プライドが許さなかったの。島崎を好きだったわけでもないのに、十歳も年が違う妹に、対抗意識を燃やしてしまった。……いるだけで華やかな愛香。愛香は両親が二人目を諦めかけていた頃にようやくできた子供で、とても可愛がられて……家族の中心はいつも愛香だった。親の関心を惹きつけて、目立つのは明るくて人当たりの良い愛香の方。私は勉強で良い成績をとるしか親の目を向けさせる方法を知らなかった。周囲の目を惹くのはいつも愛香。私って要領が悪いっていうか……不器用なのよね」
Dは他人事のようにそう自分を分析し、アリアの方を向いて苦笑した。
Dの弱い部分を見てしまった。そして、今まで自分が抱いていたイメージとかけ離れているD。愛香さんから聞いた話では、姉は目立つことが嫌いで、控えめな性格だと言っていた。Dは常にスポットライトの当たっていた妹を羨み、部活動に時間を割くのも惜しんで親に認めてほしくて必死に勉強を頑張っていたのだ。
劣等感などないのではと思わせるような、常に自信に満ちた堂々とした態度のD。だが、Dも自分と同じ弱い部分を持っていたのだ。
アリアは憧れと尊敬をもってみていたDに対し、親近感を抱いた。
「馬鹿だったのよ。そんな心の狭い卑屈な自分が嫌だった。あの時、家を出ずに家族と生活を続けていたら、私はいつか家族関係を壊してしまいそうな気がしていた。だからヒロと会ったことをきっかけにして、私はそこから逃げ出したかったのかもしれない」
Dは口の端に薄く笑みを浮かべていた。
人の心なんてわからない。Dのことを知っているつもりでいたが、こうして話を聞いて初めてわかる心の闇。
「ちょっと話が脱線したわね。でも、愛香を憎んだりしたことはないし、大事な妹だと思っているわ。だから幸せになってほしい。それなのに、私は島崎の件を放って逃げ出したの。後は島崎と愛香がうまくいくだろうと自分勝手に思い込んで。でも、うまくいかなかったみたいね。……愛香は私のこと憎んでいるかしら」
「中途半端にして、出て行ったことを怒っているかもしれない」
「そうよね……アリアちゃん、私はどうしたらいいと思う?」
体を前に乗り出し、頬杖を付いてDが首をかしげた。
Dにアドバイスするなんてできない。でも、一つだけ言えることがある。人の気持は考えていてもわからないってこと。
「やっぱり会って話しをした方がいい。お互いの思いは話してみないとわからない。きっと、お互いに思い違いしてすれ違っていることもあると思う」
「でも、怖いわ。私は悪い姉だもの。どんな顔をして会えばいいの? ねえ、巻き込まれたついでにまずアリアちゃんからそれとなく聞きだしてみてくれない? 島崎のことを愛香はどう思っているのか」
「逃げるの?」
「もう少しだけ時間を頂戴。意気地なしなのよ」
「きっと、私が訊いても何の解決にもならない」
「ねっ、お願い、アリアちゃん」
Dは両手を顔の前で合わせ、拝むようにして頼み込んだ。
「訊いてみるけれど期待しないでね。うまくいかなかったら、会うことを考えて」
「わかったわ」
Dはいつもの快活な笑顔を見せてウインクした。
「ところで、アリアちゃんはその後どうなっているのよ」
「いきなり何の話」
「あら、誤魔化さないで。アリアちゃんの意中の人は誰?」
「そんなの……いない」
「いやだ、私の前で嘘をつこうっていうの。それとも私に言えない人?」
始めは冗談交じりに言っていたDだが、最後の言葉の時には真顔だった。
「違う、ヒロじゃない……と思う」
アリアは頭を大きく左右に振って否定しながら、途中で自信がなくなってそう付け加えてしまった。
「と、思う?」
「ごめんなさい。自分の気持がよくわからない」
Dには嘘をつきたくなくて、アリアは正直に話した。
「謝ることはないの……困った人ね」
Dはすっと立ち上がり、髪をかき上げて苦笑した。そして、前に屈んでアリアをぎゅっと抱き締めて、愛しむように髪をゆっくりと撫ぜた。
「D?」
優柔不断なことを言って怒ったのではないのか。
アリアはDの態度が理解できなかった。
「アリアちゃん、私も正直に言うけれど、あなたのことが可愛くて愛しくて……それに嫉妬しているわ」
「ごめんなさい」
アリアは身を硬くした。謝ることしか思いつかなかった。
「だから、謝ることなんかないって言ったでしょう? これは心の狭い私の醜い声なんだから。言わずにいられない私がいる。だから、ただ聞いてくれるだけでいい。そして聞き流して」
Dを追い詰めているのは自分だ。ヒロに対するDの想いを知っているのに、平気でヒロを頼っている。ずるい自分。自分が嫌になる。
アリアは何もかも視界から消し去りたくなり、強く目を閉じた。
「余計なことを話しちゃったわね。アリアちゃん、嫌な思いさせてごめんね」
Dは体を離してアリアの額に軽くキスをした。
「アリアちゃん、愛香のこと頼んだわよ」
笑顔で玄関先まで送ってくれたDに、アリアは無言で頷いてDのマンションを後にした。
重い気分だった。どうしてこうも煮え切らないのだろうかと、アリアは自分を責めた。
帰り道、春の眩しい日差しの中、アリアは憂鬱な気分から抜けられずに、足元に視線を落としてとぼとぼと歩いた。
交通量の多いごみごみした交差点を渡ろうとした時、
「アリアさんっ!」
と呼ぶ声がして、アリアは足を止めて後ろを振り返った。
それは宇野愛香だったのだが、駆け寄ってきた彼女の後から見知らぬ男も一緒についてきた。
「愛香ちゃん! 待って」
「ついてこないで、肇さんには関係ない!」
ひょろりと背の高い、気が弱そうなその男は、愛香の腕を掴んだが、愛香にそう言われるとあっさり手を離した。
「私はまだ帰らないの!」
愛香はアリアの後ろに回って顔だけ覗かせて、その男に言い返した。
「お父さんが心配しているから帰ったほうがいい」
「どうせ父に様子を見に行けって言われたんでしょう。父が言ったことは全部そうやって従うの?」
「そんな、僕だって愛香ちゃんが心配だから……」
「そうかしら? 三十二歳にもなって自分の結婚相手を勝手に決められても、はいはいってきく人のことなんか信用できない!」
「別にそういうつもりでは……」
「じゃあ、どういうつもりよ。逆玉狙い? サイテー!」
愛香の弾丸のような話し振りに圧倒されて、その男は閉口してしまい、眉をひそめた。
察するに、この男が島崎肇に違いなかった。
背は百七十五センチ程ありそうだが、色白でひ弱そうな印象を拭えない。着ているものも仕立ての良いスーツのようだが、着こなせずにスーツに負けている。
童顔で気弱そうに眼鏡の奥に愛想笑いを浮かべている島崎肇は、とても三十二歳の、キャリアがある中堅社員には見えなかった。
入社したての新入社員、下手をすれば、就職活動中のスーツを着慣れていない大学生といった感じだ。
「なによ、なんか文句ある?」
黙っている島崎に愛香は刺々しい。
「愛香さん、喧嘩腰で話してはだめだ」
二人の間に挟まれていたアリアが愛香を諭した。
「だって、学校まで押しかけて来たのよ。恥ずかしいったらないわ」
「一度帰ったほうがいいと思うけれど」
「アリアさんまで! 嫌よ、絶対に嫌!」
愛香はアリアのワンピースの袖をぎゅっと握り締めた。
「わかったから、そうしがみつかないで。こんな道端で話すことではないよ。まず、マンションに行こう。島崎さんでしたよね。それでいいですか?」
「はい、ご迷惑をかけてすいません」
「何で肇さんが謝るの? 保護者ヅラしないでよ!」
何を言っても突っかかってくる愛香に、アリアはため息をついた。
この娘はなにを言っても許されるとでも思っているのか。親にも怒られたことなどないのかもしれない。
「いい加減にしなさい。島崎さんだって心配してきているのに」
「信じらんない! アリアさんはこの人の肩を持つの? 父に言いなりの仕事人間と婚約なんて真っ平!」
「愛香さん、落ち着いて……」
アリアがなだめるように言った言葉も、愛香の耳には入っていないようだった。
「私、アリアさんのことが好き。このままアリアさんと一緒に住む。もう、家になんか帰らない!」
「えっ?」
島崎とアリアは思わず声を揃えて驚いた。
火に油を注いでしまったとアリアは思った。
愛香は勢いで口走ってしまったのだろうが、もう後には引けないとでも言うように、アリアの腕にがっちりとしがみついている。
「愛香ちゃん、だってこの人は……」
島崎肇は複雑な顔をして、アリアの顔と愛香を交互に見た。
「これは女装なの。アリアさんは男よ」
信じられないと言うように、目をぱちくりさせている島崎肇を前にして、アリアは何度目かのため息をついた。
何だってこんな面倒なことを愛香は口走ったのか。島崎に焼きもちを焼かせたいのか。それとも本当に婚約が嫌なのか。
「わかったよ、愛香ちゃん。無理強いして悪かった。婚約は僕からお父さんに言って、なかったことにしてもらおう。だから家に帰った方がいい。アリアさん、でしたね。彼女は未成年です。親元へ返してあげてください。念のため住所を教えてもらえませんか」
島崎肇は顔色一つ変えず、それどころか笑みさえ浮かべて穏やかにそう言った。
そして、アリアから住所を書いたメモを受け取って、あっさりと引き下がり、軽く会釈をしてもと来た道を帰っていった。
「何よ意気地なし! 肇のばかっ!」
島崎肇が角を曲がって姿が見えなくなってから、愛香はかすれ声で罵倒した。
愛香の複雑な女心はアリアには理解しがたかったが、確かに島崎肇のことが好きなのだということだけは、アリアにもなんとなくわかったのだった。