1・始まりはクッキー
そんなことは滅多にないのだが、その日に限って、アリアはどうしても東昇に会わなければならなかった。そして、これも滅多にないことだが、昇はアリアのマンションへ、朝の『出勤』をしてこなかった。
用事があるときに限って来ない。
アリアの手には今朝、柚子から預かった紙袋を抱えていた。可愛らしい小さな花柄模様の紙袋からは、住宅街に咲き始めた春の花の香りに負けないくらい、ほのかに甘くてこうばしい匂いが漏れてくる。
昨日、この甘い匂いが嫌というほど部屋に充満し、甘いものが嫌いではないアリアでさえ、胸焼けけがしたほどだった。
柚子は時々思い立ったように、菓子を作る。それは大抵、最悪の気分の時のようだった。
夫と喧嘩してむしゃくしゃした時、ひたすらキッチンを磨いたり、普段掃除をしないところを黙々と磨き上げたりして、すっきりと気分が晴れる主婦のように、お菓子作りをする柚子もまた、それと同じ心境のようだった。
かなり遅い時間に作り始めた焼き菓子は、半端な量ではなかった。そういう時は、柚子が相当怒っている時だ。真夜中に出来上がったとりどりの凝った焼き菓子は、硝子の大皿に山盛りにされ、干し梅入り老酒を飲みながらくつろいでいるアリアの目の前のテーブルに、どんと置かれた。
勿論、老酒に甘ったるい焼き菓子は摘みにはならないが、アリアの側に立ち、柚子が硬い表情でじっと食べるのを待ち構えていたため、口にしないわけにはいかなかった。
原因はアリアにあった。
何も連絡せず、遅く帰ったのだ。誤魔化せばいいものを、ヒロと夕食を食べてきたと口を滑らせた。
悪いことに、アリアの携帯電話はちょうど充電切れで、連絡もつかなかったのだった。
夕食を作って待っていた柚子は当然怒り、アリアは直ぐに平謝りしたが、柚子の怒りは収まらず、怒りは焼き菓子に込められたのだった。
夫婦の、犬も食わない何とやら……のような状態になってしまい、大量の焼き菓子を一人で消化できる筈もなく、菓子は行き場がなくなり、柚子に言われるままに、翌日、昇の手に渡すこととなったのだった。
音江探偵事務所東京支店は、池袋駅からさほど遠くないビルの三階に、事務所を構えていた。
アリアは今まで昇の勤めている池袋の事務所に顔を出したことはないし、以前に色々あった東昇の幼馴染、音江槇にも会いたくなかった。だが、アリアが行かなければ柚子が学校をサボって行くと言い出したので、仕方がなかったのだ。
まさか、十無のいる警察署に持って行くわけにもいかない。
音江探偵事務所と黒文字で書かれた、白く、安っぽいプレートを掲げている磨り硝子のドアをそっと開けると、チリンとドアベルが鳴った。
目の前には磨り硝子のついたてがあり、直ぐに二十代位の若い事務員がにこやかに近づいてきて「ご相談事ですか?」と、声をかけてきた。
「あ、いえ。こちらにいる東昇さんに用事があって……」
「まあ! ひょっとして……。あ、失礼しました」
何故かその事務員は、アリアの顔をじっと見ながら、驚きの声を上げ、両手で口をおさえて顔を赤くした。
この反応はなんだろう、私に関して何か知っているのだろうか。やはり、夜にでも昇のアパートに届ければよかった。
アリアは嫌な予感がした。
「今、ちょうど席をはずしておりまして、こちらで少々お待ちいただいて宜しいですか」
「いや、じゃあいいです」
「そんなことおっしゃらずに、もう帰りますから、どうぞ」
アリアは直ぐに立ち去りたかったが、半ば押されるように、事務机が並ぶ横を通り、衝立で間仕切られただけの応接室へ通された。そこには安っぽい合皮の応接セットがあり、アリアが居心地悪そうにちょこんと浅く腰掛けると、事務員は軽く会釈をしてその場を離れた。
一人残されたアリアは、昇の職場はどんなところだろうという好奇心もあり、申し訳程度しかない衝立の間から、事務所内を覗き見た。
中央には書類で雑然とした机が六つほど向かい合わせに並び、その一つにノートパソコンに向かって作業をしている職員が一人いるだけで、皆出払っていた。その奥に所長室と表示されたドアがあるだけで、何の変哲もない普通の事務所だった。つくりは旭川の事務所とほとんど変わらないが、こちらの方が、ビル自体が新しいため、旭川の事務所よりこぎれいに思えた。
こぢんまりとした興信所という印象だが、旭川にも事務所を構えており、それなりに堅実に営業しているのだろう。だが、あんないい加減な昇を雇っていて、成り立つのだろうかと、アリアは変な心配をした。
「失礼します」
先ほどの事務員が珈琲を運んできて、アリアの前にカップを置くと、お盆を両手で抱えたまま何か聞きたそうにその場に留まっている。
視線を感じたアリアは場が持たず、苦手な珈琲に口をつけてから顔を上げた。彼女と目が合ったので、この珈琲美味しいですねとお世辞を言って愛想笑いをした。
「有難うございます、ここの事務所の珈琲は豆を挽いてお出ししているんですよ」
彼女は嬉しそうに目を細めて素直に喜んだ。
そして、ためらいがちにアリアのほうをちらりと見ながら「あのお、東さんのお友達ですよね」と、続けた。
「まあ、そんなものです」
曖昧な笑みを浮かべて、アリアは返事をした。
「ひょっとしてアリアさん、ですか?」
「はい……」
困惑しながらそう答えると、彼女はやっぱりと言って目をきらきら輝かせ、納得したように小さく頷いた。
東昇が何か話しているに違いない。それも、興味をもたれるような言い方をして。何を言われているものかわかったものじゃない。
アリアは益々ここから早く出たくなった。
バタンと勢いよくドアが開く音がして、ドアベルが騒々しくガランと鳴り響いた。
「東さん、帰って来ましたよ」
彼女が言うように、確かにそれは昇だった。
「え? アリアが?」と昇の驚いている声だけ聞こえ、それから応接室へ顔だけ覗かせた。
「おう、お前から会いに来るなんて一体どういう風の吹き回しだ」
昇はぶっきらぼうな口調に反し、顔は嬉しそうに笑っている。
「いや、たいした用じゃないんだけれど」
先ほどの彼女は、興味津々の様相でまだその場に立っていて、アリアはちらりとそちらに顔を向けた。
「ああ、佐々木君、もういいよ」
昇にそう言われて、それではごゆっくりとアリアに向かって軽く会釈をしてから、渋々事務室へ戻った。
「昇、職場で私のことを何か言っているでしょう」
「あ? うん。ちょっと。それより何の用だ」
アリアは紙包みに入った重いほどある焼き菓子を、昇に手渡した。
「なんだ? これ」
「見たとおり」
「そりゃわかるけれど、手作り? まさかおまえが」
「そんなわけないでしょ。柚子が作ったんだけれど、持って行けって……」
アリアは説明が面倒で、言葉を濁した。
さっきの事務員が聞き耳を立てているに違いない。アリアは居心地が悪く、さっさと事務所を出たかった。
「じゃ、そういうことで」
「おい、待て」
昇がまだ話し足りない様子だったが、アリアは構わず事務所のドアを勢いよく開けて出ようとした。
すると、目の前に制服姿の女子高生が立っていて、アリアは危うくぶつかるところだった。
「おっと、ごめん。ここに用事? 昇! お客さん」
アリアがそう呼んで、立ち去ろうとしたが、その女子高生がアリアのジャケットを背後から引っ張っていた。
「あなたに頼みたいです」
「ちょっと待って、私はここのスタッフじゃない。ここには用があって来ただけだから」
「えっ、違うんですか? だって、探偵さんみたいだったから」
「あのねえ、探偵がグラサンして歩いていたら、目立って仕事にならないでしょう?」
「なに? 客って高校生か」
昇が入り口に来て、女子高生をしげしげと見た。
「探偵に用があるらしいよ。じゃ」
アリアはそう言ってその場を離れようとしたのだが、女子高生がアリアの裾を離さなかった。
「まだ何か?」
「こっちの人、怖そうなんだもの」
女子高生はアリアの後ろに引っ付いて、昇のほうを見た。
「俺、そんなに怖い顔かなあ」
と、昇は頭をかきながら、引きつった笑顔をつくって女子高生に話しかけた。
「きみ、何か頼みごとかい? 未成年者は保護者の同意も必要だから、親と来てくれないか」
「私だけじゃ、どうしてもだめですか? 親には心配かけたくないんです」
「高校生のお小遣いでは、無理だと思うが」
「私、五十万持っています。足りませんか?」
「あの、お話し中すいませんが、そろそろ手を離してくれないかな」
その女子高生は、まだアリアのジャケットを握り締めていた。
「探偵さんのお友達ですよね? お願いします。調査してください」
女子高生はアリアにまで懇願した。
「私に言われても……」
結局、彼女の熱心さに折れた昇が、とりあえず事務所の応接室で話を聞くことになったのだが、彼女は昇では心細いという理由で、何故かアリアも一緒に話を聞く羽目になってしまった。
昇は、俺は優秀な探偵なんだぞと強調し、少し憤慨していたのだが。
女子高生の名は、宇野愛香と言った。
ややつり目がちで、口角の引き締まった気の強そうな顔立ちに、自分の意見を押し通すような、強気の態度をうかがわせた。
肩までの髪は、天然パーマのようで、ゆるいウエーブを描いている。そう彫りが深い分けではないが、色白で、何処か日本人離れしている顔立ちだ。
宇野愛香の依頼は、行方不明の姉を探してほしいというものだった。
アリアと昇は宇野愛香と向かい合わせに長椅子に座った。
「家を出たのは二十歳です。今、姉は二十八歳になります。どこにいるのかまったく見当がつかなくて。ただ、毎年、私の誕生日にプレゼントが届くので、生きていることだけは確かです」
家族円満な家庭を探す方が難しくなっている昨今、どの家庭でも大なり小なり問題を抱えている。何不自由なく育ってきたようなこの女子高生の家庭では、何があったのだろうか。
アリアは話を聞いているうちに、行方不明の姉探しに興味が出て、昇を差し置いて質問していた。
「ふーん。お姉さんの名前は?」
「水香です」
「写真はありますか?」
「それが、家を出る時に姉が全て処分してしまったので、ないんです」
「相当決意して出たということですね」
「自分の意思で出て行ったのははっきりしています。だから警察に頼んでも駄目でこちらに……」
「家庭で何かトラブルでもあったのですか?」
「……姉と父は仲が悪く、何かにつけて衝突していました。でも、去年父は交通事故で足が不自由になり、杖が手放せなくなってから気が弱くなったのか、最近、姉のことを心配しているようなんです。だから、何とか二人を会わせて仲直りさせたくて」
「おい、アリアは少し黙っていろ。俺の仕事に口出しするな。君も、俺に話さないと。探偵は俺なんだから」
今まで黙っていた昇が、とうとう面白くなさそうに身を乗り出して口を挟んだ。
「あれ? 昇、引き受けるの?」
「いや、それはこれから検討する」
アリアは宇野愛香の家族と、自分の家族とをいつの間にか重ね合わせて聞いていた。
家族関係のもつれ、どろどろした人間関係に彼女も苦悩しているのだろうか。
家族間の悩みなんて、友達にも言いづらいものだ。力になってあげたい。そうアリアは思っていた。
「じゃあ、昇が引き受けないのなら、私が探そうかな」
「馬鹿言うな。人探しなんて、素人がやってもうまくいくものじゃない。それに君のお姉さんを探すのは、かなり難しい」
「どうしてですか? 毎年の贈り物は都内からです。近くにいるはずなんです」
「だから、難しいんだ。お姉さんは家族から身を隠している。側にいて、父親が事故にあったことも知っている可能性が高い。それでも姿を現さないのだから、探していると気がつけば、また居場所を変えるかもしれない。もし見つけられたとしても、家族のもとに戻ることはないだろう」
「見つけてもらうだけでいいんです。会って話しが出来れば……」
「手掛かりは、誕生日のプレゼントのみだろう?」
「はい。毎年郵便小包で宝飾品が送られてきます。住所はいつもでたらめで、取り扱い郵便局もばらばらでした。カードには、決まって誕生日おめでとう。元気だから心配しないで。探さないでと、書いてあります。それと、父には贈り物のことは内緒にしてほしいと」
「やっぱりそっとしておいてあげたほうがいいんじゃないか? そのうちひょっこり顔を出すかもしれないぜ」
「私も初めはそう思って待ちました。でも、もう八年も経ってしまいました。それに、心配なことが……」
「どんなことですか?」
アリアがそう訊くと、少し言いづらそうに宇野愛香は一呼吸おき、躊躇いがちに口を開いた。
「贈り物が、普通のOLでは買えないくらい高価な品なんです」
お姉さんは事業で成功したのかだろうか。そうであれば、宇野愛香はこんなにも心配することはないだろう。女性が二十代の若さで事業を起こし成功するなどとは考えにくい。では、その高価な贈り物は……。
アリアは嫌な予感がした。もしかしたら、そのお姉さんは犯罪に手を染めているのではないか。
宇野愛香はアリアの反応を敏感に感じ取ったようだった。
昇もまたアリアと同じことを想像していたのだろう、表情を固くしている。
「……姉は、犯罪者かもしれません」
宇野愛香は泣きそうな声で、消え入るように言った。