強い女の子って好きだけど、現実に強い女の子はちょっと扱いに困るよね
自宅
火曜日の七時二十五分
テーブルの上に温められた朝食が乗せられ、タンブラーにはオレンジジュースがなみなみと注がれており、その隣にはホットミルクとココアパウダーが置かれている。
その質はホテルの朝食の様にベーコンエッグにレタスが盛り付けられていて、バターロルまでホットに温められている。小さく斬り分けられたバーターとナイフが別の皿の上に乗り、とまるで貴族の娘になったような気分だった。
紺色のブレザーを来ている少女はため息をついて洗面台に向かう。
鳳凰寺恵美は鏡に映った自分の顔をまじまじと見つめる。友人には子供っぽい、だの言われていて、それが結構気になったりもしている。小さな顔に大きい瞳がきらきらと輝いていて、左目がレモンイエロー、右目がブルーサファイアのように輝いている。
使い捨てのコンタクトレンズを両目に入れると、色が黒くなる。隠しているわけではないが、兄の敬介に言われて子供のころからそうしている。
朝食を手短に済ませてシステムキッチンに食器類を放り込んでおけば、後は兄が片付けてくれる。両親はおらず、兄と自分の二人暮らしだ。両親が事故死して以来、その遺産でどうにか生活はしているが、働かない兄が主夫のようなことをしてくれているのは実質助かっていた。
働いてくれればいいお兄ちゃんなんだけどなぁ。
とたとた、と階段を上って兄の部屋をノックする。
「お兄ちゃん、いるの?」
「いるぞぉ」
中から声が聞こえて鍵を開ける音が聞こえる。この家で玄関とここだけが施錠されていて、恵美が入る事は許されていない部屋だった。
「入るよ」
ドアを開けて中を見ると、敬介は既にこちらに背を向けて、三台のコンピュータをいじっている。壁に八枚の大小の液晶画面が表示されていて、女の子の絵が描かれている。
萌えゲーか戦争ゲーしかしないヲタクなんだよねぇ。
恵美は二十一にもなって、とため息を吐くと敬介がくるりと回転椅子を回して恵美と向かい合う。
にこりと笑った敬介に思わず恵美がたじろぐと、敬介が首を傾げる。
雑誌の表紙も飾れそうな爽やかな笑みにスタイルの良さからは近所では評判の兄だ。確かに優しそうな笑みに一目惚れするような女性もいるようで、実際級友からも連絡手段をせがまれるくらいだ。滅多に家から出ない…はずの兄が父兄参観で学校に来たのが始まりだったりもする。
「朝食は済ませたのかい?」
「え、あ、うん。毎日ありがと。頼んで置いた機械弓の調整は終わったかなぁって思ってさ」
アーチェリー部に所属する恵美は手先が器用な兄に時折、機械弓の調整を頼んでいた。
「調整は終わったよ」
ケースに入った機械弓をデスクの脇から出して左手にグローブを嵌めて半径二十センチほどのリングをそこに嵌める。カチリ、と音がして立ち上がり、左手を大きく開くと、瞬間的に真っ赤なリングが弓の形に変形して、弦が張られて機械弓の形になった。
「普通の組み立てる弓でいいんだけどなぁ」
「母さんが使っていた弓だからね。変形機構は元からあったものだし、便利でいいだろ?」
「うん…まぁ」
敬介は機械弓を元に戻す。
「なんか、それだけで武器になりそうだよね」
「たぶん、そういう武器だったんじゃないかな。飛ぶみたいだし」
「発射機構まで付いてるんだ…」
恵美は痴漢撃退用にしては物々しいなぁと苦笑する。
「その機械弓はいくつか変形機構があるから、色々試してみるといいよ」
笑顔でそんなこと言われても、と恵美は苦笑するしかない。恵美からして見れば勝手に組み上がる機械弓は手軽でいい、と思っているだけだ。
「カーボナイトの弓も協議規定に則って十本ほど準備しておいたよ」
「ありがと」
機械弓と矢を受け取って恵美は兄の部屋から退出する。
やっぱり…まだあったよ…。
部屋の隅のアンティークチェアーに座らされている等身大のフィギュアだか人形だかが鎮座していたのだが、人間そっくりで今にも動き出すのではないか、と思われるものだった。
何してるんだろうなぁ…お兄ちゃんは…。
隣の部屋を横目で見ると、恵美はそのドアを開ける。
作業台の上に電源の入りっぱなしのコンピュータに、分解されたなにやら機械が置かれている。実質、二階には恵美の部屋と他に三部屋あるが、全て兄が使っている。二人で生活するには広すぎる家なので文句もないが、本当に何をしているのか気になる。
もう…世間様に顔向けできなくなる様なことだけはしないでよね…。
そう思いながら目に涙を浮かべると、恵美は家から出て高校への道を急ぐ。思ったよりも通学路沿いの道に同じ高校に進む生徒の数は少ない。機械弓のことを聞いていて遅れたのかもしれない。
五月も過ぎて新入部員の数も安定して来て、朝練習も始まったところだ。今日は朝練習に出られないことは伝えてあるが…。
「急ごう…」
速足でケースを引っ提げて通学路を急ぐと、交差点に差し掛かる。このスクランブル交差点はやたら赤信号が長く、歩行者に優しくない。
「ん?」
隣に立っている頭一つくらい小さな少女に気付いて恵美は首を傾げる。背中に何やら大きな荷物を背負っているのだが、布に巻かれたそれは少女の二倍ほどの大きさがある。それを所持している少女は涼しい顔をしている。
視線は鋭く、小さな身体に大きな剣、だろう。柄も長く両手で扱えるようにしっかりと構成されている。真っ黒な服を来ていて短めのフレアスカートから素足が見える。華奢な少女には似合わない武装だった。
「…」
恵美が少女を見ていると、少女が恵美を見上げる。
「なに」
静かな声で言われて恵美が「え、ううん、何でもない」と手を振って慌てて前に向き直る。
変な子、コスプレイヤーかな…。
兄がやっていたゲームの中に出てくるような衣装に装備、自分も機械弓をこの場で装備したらそういう感じになるのかな、と不安になるも、そんなことをした瞬間、警察に通報されてしまうだろう。
あれ…?
さっきの子、私と同じ…。
恵美がもう一度少女を見ようと視線を向けると、歩行者信号が青になって少女は人ごみの中に消えてしまった。
「気のせいだった、とか」
あの子も私と同じ…?
恵美は首を傾げながらも、スクランブルを渡り終えると校門が閉められそうになっている。
「うわああああっ、待って待って!」
恵美が走り出すと無情にも目の前で門が閉め切られてしまう。
仕方ないか…。
恵美はそのまま助走して自分と同じ大きさの柵をひょいと乗り越えると、教師たちが口を開けて恵美の背中を目で追った。
「ひぃ、ひぃ」
肩で息をして膝に手を吐いて校舎に入る。
「急がないと…」
そろそろ朝のHRが始まってしまう。
◆◆ ◆◆
学校
同日 十八時四十五分
シャワーを浴び終えてブレザーを羽織り、ミーティングに向かう。一年五組の教室を使うアーチェリー部は男女混合部で、そこには二十三人の男女が集まっていた。
全国大会に出場するだけあって、その練習は本格的に行われ、今もこうして最後の一時間はミーティングに費やしているのだが…。
「結構雑談になるんだよねぇ」
恵美が苦笑すると着替え終わった他の部員たちもやってくる。
「じゃあ、始めますね」
眼鏡をかけたおっとりとした三年生、白羽さなえがぱんぱんとゆっくりと手を叩いて鳴らすと、全員が黒板に向き直る。
女性らしく、優しく、そして気遣いが良くできる人で、部員たちの人望も厚い。
「いいよねぇ、ああいう人」
恵美が呟くと、隣に座っていたあっけらかんとした少女がにたり、と笑う。
「おっぱいとか?おっぱいとかですか?先輩、それともうっふーんなところ?」
「…うっふーんって何よ、三咲ちゃん…」
中学時代からの付き合いだったが、今一掴みどころのない性格だ。
「はーい、鳳凰寺さん、黒澤さーん、お話しないでねぇ」
「す、すみません」
「はーい!」
恵美が申し訳なさそうに肩を落とすと、三咲が元気よく右手を上げて返事をする。
「いいお返事ですねぇ、さなえうれしいよー」
のほほんとした部長だが、どうにも癖のあるところはどっこいだ。
「疲れる…」
恵美がため息を吐くと、ポケットの中で携帯電話が震える。
「?」
ミーティング中で携帯電話の電源は落としておいた筈なのに、ポケットの中で震えるそれに恵美がどきっとする。
「ウソでしょ…」
恵美が呟くと、教室の人間が恵美を見つめた。
「部長、みんな…DM現象エリアに指定されたから…避難しなさいって」
恵美の言葉に全員が「え?」と何を言われているのか理解できない様な表情をする部員たちに、恵美が「ごめん」と携帯電話を耳に押し当てた。
「めぐ?」
聞き慣れた落ち着いた敬介の声が、不安でざわつく教室の中で恵美にしっかりと届く。それだけで安心した。
「落ち着いて聞け。午後十九時に全ての交通機関が停止する。帰宅出来る者は帰宅させ、校内に残れる者は残れ」
「あの速報は本当なのね?」
「これから避難勧告が発令されると思ってね…」
「え?本当に?部長、テレビつけられます?」
恵美が部長に言うと、部長は「はいはーい」と教室にあるテレビのスイッチを入れる。
落ち着いた感じのおっさんがDM指定エリアを読み上げて行く。
「あちゃー、ここもバッチリ入っちゃってるね」
三咲が額に手を当てて大仰に残念がる。他の部員たちと比べて全くもって悲観していないのところが三咲らしい。
「おにい…あれ?」
携帯電話を耳に当てると、通話が切断されました。という表示が出ていて、かけ直しても話し中で繋がらない。
「はいはい、みんな聞いたわね。家が近い人は帰って、寮に戻る人は戻る。いいわねぇ?」
さなえが手を叩いて部員に指示を出すと、ぞろぞろと教室から外に出て行く。
「あれ…さなえ部長は帰らないんですか?」
「ええ、私は電車で一時間以上かかるから、途中で電車が止まってしまうから帰れないの」
さなえが困ったわねぇと頬に手を当てて首を傾げるが、どうにもおっとりとしていて大変そうには思えない。
「うちも残るよっ」
三咲がぴょんこぴょんこと跳ねるのを見て、恵美が「ええっ」と驚く。
「あなたも遠征組だったっけ?」
「ですです。うちは推薦組でアーチェリーをやるためにこの学校に入ったんですよ。シューティンスターの恵美先輩に憧れて、ですけど」
「え?」
恵美がきょとん、とすると三咲が「またまたとぼけちゃってぇ」と手をパタパタと振る。
「それよりもお兄さん、すごい方なんですね。速報よりも先にDMのエリアを知らせてくれるなんて、よっぽど大切にされているのね」
微笑まれて恵美は頭の中で「愛してますから」と言い切った敬介が脳裏に浮かぶ。前にも同じようなことを言われてアイツはそう言い切ったのだ。それを思い出して渋い顔をしていると三咲が恵美の顔を覗き込む。
「せんぱーい、顔のデッサン歪んでますよ?」
「このっ、なんですって!!」
「きゃほーい」
恵美が拳を見せる様にして叫ぶと三咲が教室の中を歩き回る。
「はいはい、はしゃがないの。校内で一泊するっていう事になると思うから、先に近くのコンビニに…」
「たぶんダメだと思います…」
恵美がさなえの提案を却下すると、さなえが首を傾げる。
「何故かしら…?」
「たぶん、軽くパニック状態になってお客が殺到してるはずですから」
「あら…ぁ」
残念だわ、とさなえが呆けると、三咲が涙目になって「お腹すいちゃうよう」と呟いて小さくなる。
「購買に何か残ってるか見てみましょうか」
さなえに連れられて恵美と三咲も購買に向かうと、部活動が終わって腹を空かせた部員たちに販売する様のパンや飲み物が販売されていた。筆記用具や様々な物品もここで買う事が出来るが、この時間になると沢山の飲食物が並べられている。
「私、お金…ない…」
三咲が小さくなるとさなえが「あらあら」と苦笑する。
「お二人とも、お好きな者をどうぞ」
「いいの?ぶちょー、まじでいいんですねっ」
三咲がうーん、と真剣に悩んでいるのを見て恵美が苦笑する。パンを買うのにあそこまで真剣に悩む三咲が不思議でしょうがなかった。いつものようにノリと勢いでパンをいくつも抱え込むと思っていた。
「恵美さんは?」
「ええ、私は自分で払えるので」
「御遠慮なさらずに」
ここで張り合っても仕方がない、とパンと飲み物を適当に購入して一年五組に戻る。
「ちらほらと他の人も見えたけど、校舎の中に残っているのはもっと多いはずなんじゃ…」
みんなが食料を確保しないところを見ると、そこまで急務ではないのかもしれない、と錯覚を起こしてしまう。実際、さなえも三咲もお泊まり会のような気分でいる。
大半の生徒はそうなのかもしれないが、校内に今も残っている生徒は既に思い思いの場所でくつろいでいる様子だった。
「お、アーチェリー部か」
二十代前半の数学の教師が顔を覗かせてさなえが代表として教師と何かを話して、すぐに戻って来る。
「あれ?みさちゃんは?」
みさちゃん、と尋ねられて恵美は三咲の事か、と納得する。
「ぶちょー!せんぱーい!いいもの拾って来たっ!!」
三咲の声が聞こえて二人がドアを見ると、引き戸の向こうに何かが揺れて見える。
「なにあれ」
「何でしょうねぇ」
恵美にさなえが茫然とするのも無理はない。白い筒状の何かがガラス越しにふらふらと揺れているのだ。
「開けてくださいよぅ」
「はいはい、どうしたのかな?」
恵美がドアをガラリと開けると、三咲が運動用マットを運び込んで来る。体操用のロングマットを二枚も持って来たのだ。しばらく姿を見せずに気になってはいたが、二十時前にまで戻ってくればいい、と思っていた。その結果、こんな大手柄を引っ提げて来るとは思いもしなかった。
「確保しちゃいました」
白いおなじみのアレで多少かび臭いが横になることが出来る。
「お手柄ね、よくやったわ」
恵美は三咲の頭をなでてやると、三咲が気持ちよさそうに目を閉じる。
「机を片付けてしまいましょうか」
さなえに言われて三人が机を掃除する時のように後ろにやり、真ん中に二枚のマットを引いて三人がそこに座る。
三十分前に窓の戸締りなどを命令されて三人は鍵を確認する。一通りチェックを済ませて三人が固まってまた顔を突き合わせる。
「そう言えばせーんぱいのお兄さんって有名人ですよね。すごくかっこいいって。さっきもお兄さんからの連絡だったんでしょう?すごいですよねぇ」
「すごいも何も、今は家でごろごろしてるだけのニートだよ?もう…炊事洗濯してくれるのはいいんだけど、働けーって感じ」
やらやれと苦笑して見せる恵美にさなえが「ふふ」と楽しそうにして笑う。
「立派な主夫さんですわよねぇ。働いてはいるのではないですか?」
「えっと…そういうものなのかなぁ。男の人は外って感じがします」
恵美の率直な意見に「それは偏見ですわね」とさなえが呟く。
「でも前、中学校に来たんですよ。父兄参観に登場してあの時もアーチェリー部だった私たちの部活動も見に来てくれて、洋弓を全部調整してくれたんだ。すごかったんですって」
まるで自分の兄を自慢する様な言い方をする三咲にさなえがうんうん、と頷いているとふと校内が異様な静けさになった。
「時間、ですわね」
やや緊張した面持ちでさなえが二十時五分前ということを知らせる。
「ゴースト化した人が襲って来ると言う話ですよね」
「DMの中に入らなければ大丈夫っていう話しですよ。だから屋内には入って来ないかと…」
「へぇ、それじゃあアレですね。入って来ちゃったらバババーンとやっつけちゃいましょうよ」
三咲が射抜くような仕草をするとさなえが困ったような顔をする。
「洋弓はそういうためのものではないはずよ、三咲ちゃん」
恵美が窘めると三咲がしゅんと肩を落として項垂れる。
「はぁい、すみません」
「別にそんなに落ち込まなくても…」
恵美がおろおろとすると、難しそうに何かを考えながらも小さく「そうね」と頷いた。
「洋弓を組み立てておきましょう。万が一、ゴーストが入って来たら食い止めるしかありません」
「え、でも人ですよ?」
さなえに恵美が異を唱える様に口にすると、さなえは首をゆっくりと縦に振った。
「緊急事態の時は、です。ゴーストになってしまったとしても、生還率がゼロではない以上、放たれた矢が的中した場合、私たちは人を傷つけてしまう事になるかもしれない。でも、だからと言って悪い予想が当たってしまった時、私たちは身を守らなければなりません。そうでしょう?」
確かにそうだ…と恵美は頷く。
できればそんな事になって欲しくはないが…。
「組み立てて…いいんですかぁ?」
人を討つ、という話にようやく三咲も現実味を感じたのか緊張しているようだ。
「組み立てておきましょう」
さなえに言われて二人が洋弓を組み立て始める。アーチェリーの弓はけっこう複雑な構造で出来ていて、しかも結構なお値段がする。構造はわからないが超小型展開機構の付いている洋弓を持っている恵美は特殊な人間だった。
「あら、その洋弓…まだ使ってたんだ」
「うん…自分の洋弓なんて高くて…買えなかったんですよ。だからこれ一本を大事に使ってます」
所々傷ついてしまっているが大事に手入れされている事がわかる洋弓を大事に大事に組み立てる三咲に恵美は「そうか」と嬉しそうに笑った。
「その弓がどうにかしたんです?」
さなえが自分の要求を素早く組み上げて、すでに作業を終えてストリングを弾いて調整しながら尋ねる。
「洋弓って高いから大事にしないとねっていう話をしてたんですよ」
恵美が言うと、さなえは「そうね、すごく高いものね」と頷く。
その高額なものを自分専用で使っている生徒は数少なく、この部でもさなえ、恵美、三咲とあと二三人だったような気がした。洋弓は弓も矢も非常に高く、学校で準備されたものを使う者もいた。レギュラーだけに専用の試合弓を支給するのが習わしだったりもする。
「違うんですよ、高いのもあるんですけど、この洋弓は特別なんです」
えへへ、と笑いながら組み立てた後に丁寧にフレームを磨く三咲の隣で恵美は左手にグローブを嵌めて、紅蓮色の珠を手の甲の部分に嵌める。
「これ、全国大会で上位三名に与えられるすごく高くて、立派な洋弓だったんですよ」
「そうだったね」
恵美がその時の洋弓か、とポンと手を合わせて頷く。
「私がこの賞品をずっと眺めていたら…「取って来て上げるよ」って恵美先輩が言ってくれたんです」
「うんうん。一年生は毎日洋弓に触る事も出来なくて、三咲ちゃんはずっと筋トレとか上級生の世話をしてがんばってたから…」
三咲に恵美が「努力してたのも知ってるし」と続けると、三咲が頬を赤くする。
「今でも誰よりも早く学校に来て弾いていますよね。私もそれは知っていますよ」
さなえも見ていたらしく恵美が驚く。
「先輩って…毎朝ベンチに座って寝てるのかと思いましたよ」
「朝苦手なのよぉ」
恵美の本音にさなえが困ったように笑うと三咲が「あはは」と笑う。恵美は左手に嵌めたグローブで、手を開いたり閉じたりしてリングを展開させたり、珠に戻したりした。
「本当に変わってますよね。珠形態から円刃形態、そこから弓にモデルチェンジするんですよね」
「うん」
三咲に言われて恵美が頷くと、さなえも興味深そうに機械弓を見ている。
「なんか武器みたいよねぇ」
武器、という単語に恵美が顔を顰めると、さなえが首を傾げる。
「競技に使うものと武器は違う、絶対に人に向けちゃいけないって部長、言ってたじゃないですか!」
いきなりの剣幕に三咲がビクっと肩を震わせて、滅多に笑顔を崩さないさなえまでも目を丸くして驚く。
「あ、いえ、すみません」
ついとっさのことに自分でも恵美が戸惑う。
「どうかしたんですか?せんぱい…」
三咲に尋ねられても恵美にはどう答えていいかわからなかった。
矢筒を三本黒板の下に立てかけて、二人が洋弓を机の上に置く。
「そう言えばお兄さんは大丈夫なの?」
話を変えようとするためか、恵美にさなえが尋ねると、三咲も「そうですよ」と続く。
「わ、忘れてたぁ」
泣きそうな声を上げる恵美に二人が顔を見合わせると、時刻が二十時を回った。
「せんぱいぃ…これって変ですよ?」
弱々しい声を上げて窓から外を眺めている三咲が外を指さすと、さなえがゆっくりと立ち上がって三咲の見ているものと同じものを見る。
恵美もカーボン製の矢の入った矢筒を左の外側の大腿部に当てて、腰のベルトに矢筒のベルトをぶら下げ、大腿部にも別の固定ベルトを巻いて、いつでも矢を抜ける様にしてから外を眺めた。
どこからともなく、雲海のような霧が発生してグランドを覆うと、瞬間的に視界が真っ白になった。
時刻は二十時を過ぎた、ということだ。時間になれば出現する濃霧も変な話だが、しっかりと真っ白な霧が見えるのだ。白夜のような明るさで蛍光灯を付けなければ少しくらいかな?という程度の明るさになる。先ほどよりも格段に明るかったが、視界は悪い。
「これはさすがに…恐ろしいわねぇ」
さなえも不安げにその先を見つめると、校舎の中も騒がしくなる。そんなに人数は残っていないはずだが、不安にもなるだろう。校舎内に残った教師陣も四人だけだったと先ほど残留生徒数を確認しに来た教師が口にしていた。
「ちぃーっす、異常ないっすかー!」
突然ドアが開いて声を張り上げられてびっくりすると、坊主頭の男子生徒が制服を来ていた。
「うわっ!」
男子生徒三人がドアの前から急いで廊下側に逃げてこちらを伺うようにして覗き込む。
恵美が素早く機械弓を展開して左手を今にも弾こうとしていた。矢継ぎ早で日本一の記録を持つ、流星三連射と名付けられた弓を三連射する姿勢になっていたのだ。
「ちょいと恵美さん、大丈夫だから矢を収めて」
さなえに言われて恵美は「はっ」と我に返る。
「ごめんなさい」
顔を真っ赤にして恵美が矢を戻すと三咲もほっと胸を撫で下ろす。身内に誤射した、などという話は耳にしたくもない。
外からこちらを覗きこんでいる三人が恐る恐る教室の中に入って来た。
「どもっす。野球部が巡回する事にしたんでよろしくッス」
三人組の男子生徒が頭を下げる。
「ちょっと…ここは女の子しかいないからノックくらいしてよね…っていうか全部しなさいよ」
恵美が腰に手を当てて大きな声で警告すると、三人の野球部員が顔を見合わせてから頭を下げる。
「さーせんっしたっ!」
どうやら上級生に言われて巡回をしているのだろう。先輩に当たる恵美に言われて三人が申し訳なさそうな顔をしている。
「御苦労さまです…。お気を付けてくださいね」
さなえがにこりと微笑むと、一年生が顔を真っ赤にして嬉しそうにはにかむ。
「がんばれぃ」
三咲もぱたぱたと手を振ると、一人が手を振ってだらしなく笑う。それをもう一人が小突いて、三人がふざけ合いながらも「失礼したっス」と頭を下げて外に出て行く。
「びっくりしましたよ。でもあんなに早く組み立てて、矢を番えることが出来るなんてすごいですね。後はリリースするだけって感じだったじゃないですか。勢い任せじゃなくてしっかり狙ってるのもすごいなっていうか、よく見てるなぁって!」
三咲が恵美の神速のような技術を間近で見られて半ば興奮したように瞳を潤ませてはしゃいでいる。
「さなえ先輩も見ましたよね?ね?」
「ええ、すごかったですわねぇ」
三咲の興奮して何度もすごい、すごい、という声にさなえが丁寧に頷いて話をしている傍で恵美は小さく肩を震わせてから苦笑した。
「私だってびっくりしただけよ…なんて言えないわねぇ…」
誰にも聞こえないように小さな声で呟くと、三咲が「ん?何かゆいました?」と尋ねて来る。
「な、なんでもないよ。ほら、あんまり無理すると体力消耗しちゃうから…あれ…?」
夜は長いのだから、今はしゃぎ過ぎると疲れてしまう、と言いかけて恵美は前に同じようなことを言われた事があるような気がして、首を傾げる。
「どうしました?」
三咲に尋ねられて、さなえも心配そうに恵美を見つめる。
「あ、何でもないよ。部長も気にしないでください」
「そう…ならいいけど」
恵美にさなえが頷くと、三人がマットの上に座る。
「座って撃てる?」
「一応、どんな姿勢でも撃てますから…安心してください」
さなえに尋ねられて恵美が答えると、さなえが「良かったわ」と頷く。
不安があるのか、とさえ思えるほど、何度も三人は弓を見ては視線を逸らす。黙っていると悪い方向にばかり思考が進んでしまう。
「映画で言うゾンビみたいな感じなんだってよ、ゴーストってのは」
「へぇ、そりゃこえーや」
「お前ふるえてんぞー?」
「まじで?お前ビビり?まじ情けねぇな、ぶわははは」
遠くでそんな声が聞こえてくる。まるで不安をあおる様な言い方をして、悪ふざけしている男子生徒だろう。
この状況で恐怖心を抱かない様な人間がいるならば、それは心が壊れてしまっている証拠だろうと恵美は思った。恐怖を振り払って強がっている方がまだ人間らしくていい。恐怖を感じる心がなかったら…。
だから、なぜそんなことを考えるの、私。
恵美は頭を左右に振って今まで考えていた事を振り払おうとすると三咲がこくり、こくりと眠り始める。
大丈夫、大丈夫だから…屋内に居れば…DMに触れるような状況にならなければ絶対に大丈夫…。避難命令も出てるんだから…ゴーストになる人だって…いない…はず。
恵美はそう思いながらも、被害者が出続ける現状を思い出した。
いくら避難命令が出ていても、ひょんなことでゴーストになってしまい、他人を襲う様な存在になってしまう可能性もある。
実際にその目でゴーストと化した人を見たこともなく、どういう風に襲いかかって来るのかも不明だ。
兄に電話をしようとしてもまだ話し中で繋がらない。いったいこんな時に限って誰と話しているのだろうか…。
毎日しつこいくらい自分の名前を連呼して、だらしなくでれでれとして来るのに、こういう肝心な時は役に立ちはしない。
「ばかあにき…」
小さな声で恵美が呟くと、三咲がこてんと倒れ、さなえが自分のブレザーをかけてやる。
「こんな時に良く寝れますよね…すごいと思いますよ」
不安を打ち消すように恵美が口を開くと、さなえが苦笑する。
「きっとあなたを信頼しているのよ。この子、新入部員で入って来た時、あなたを追いかけて来ましたって言っていたじゃない」
新入部員挨拶の時に確かそんな事を言われたような気がする、と恵美が頷く。
「あの時は色々回りに茶化されましたけどねぇ。モテモテだなぁとかって…恥ずかしかったなぁ」
恵美がその時のことを思い出しながら呟くとさなえが苦笑する。
「すごい先輩、かっこいい先輩ってこの子は回りの一年生に話をしていたそうよ。しっかり護ってあげなきゃね。可愛い後輩を…」
「そうですね…」
恵美が頷くとさなえが苦笑する。
「私も大型新人が入って来たなって思ったのよ。シューティンスターのフェニックス、なんて呼ばれてるのよ、あなた。知ってた?」
「へ?」
なんでフェニックスなのか理解出来なかったが、さなえはそう呼ばれている自覚がなかったのか、と呆れる。
「あなた全中の団体戦で負けそうだった試合を一人でひっくり返したでしょ。まるで始めから的中することが決定されていたかのように真っ直ぐに飛んで行った矢、完全に敗北すると思われた矢先の逆転劇、そしてあなたの名字…鳳凰寺の三つから、シューティンスターのフェニックスっていう話が広がったのよ」
「また、大層な話ですよねぇ」
恵美が大げさな話は都市伝説の様なものだ、と呆れると、自分の事よ、とさなえがため息を吐く。
「元々、全中時代ではメテオブレイカーなんて呼ばれてたわよね」
「弓道部の人とちょっと争いになりまして、どちらが正確に的に的中できるかで決着をつけようっていう話しになったとき、的を貼り付けていた台を粉々にしてしまいまして…それからだと思います」
恵美が頬を赤くして照れると、さなえは「恐ろしい子」と呟く。
「すごいのは私じゃなくて機械弓だと思いますよ。この子、月影弓砕覇って言う名前見たいです」
「なんか強力そうね…」
そんな大層な名前が付いているのか、とさなえも驚いた。
「お兄ちゃ…兄の敬介が調整してくれているんですけどね…。そんな名前だって…。調整と機械弓がすごいのであって、私の実力ではないかと…」
恵美の謙遜にさなえは「そうかしら」と呟く。
「その機械弓…だったかしら。洋弓は自動発射機構とか補助機構はついていないのでしょう?」
「ええ」
競技で使うくらいなのだから、当たり前の話ではある。こんな変わった機械弓は珍しがられて毎回監査だの検査を受けさせられるが、協会公認であるというお墨付きで、協議でも使用する事が許されている。
「競技で使える洋弓なのだから…やっぱり試合の結果はあなたの腕なのよ。自信を持ってあげないと弓にも失礼よ」
「はぁ」
恵美が申し訳なさそうにしていると、さなえがクスクスと口元を手で抑えて笑う。
「ごめんなさい、叱るつもりはなかったのにいつの間にかこんな話になってしまったわ」
「え、あ、そうですね」
恵美が苦笑すると「外に誰かいるぞ!」という声が隣の教室から聞こえて来た。
「なに?」
恵美とさなえが教室の外を見ると恵美は見覚えのある少女の姿を見つけて絶句した。




