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白夜のアラベスク 〜ワガノワ、戦争、そして私たち〜  作者: はまゆう


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第一部 第1話「ロッシ通りの扉」

サンクトペテルブルク ロッシ通り ワガノワ・バレエ学校 9月1日


---


重たいスーツケースを引きずりながら、私はロッシ通りを見上げた。


左右対称のクラシックな建物が、どこまでも続いている。薄黄色の壁、白い柱、規則正しく並ぶ窓。まるでバレエの基本姿勢のように、完璧に整列したファサード。


地図アプリではもう何十回も見た。でも、実際に目の前にすると、息が詰まりそうだった。


――ここが、ワガノワ。


日本のバレエ教室の壁に貼ってあったポスター。先生がいつも口にしていた「ワガノワ・メソッドではね」。その言葉の源流が、今、目の前にある。


「桜井?」


後ろから声がした。振り返ると、小柄なアジア人の女の子が立っていた。私と同じくらいの年代。黒い髪をきっちり一つに結び、背筋がピンと伸びている。


「私はリン。ベトナムから。同じ寮でしょ?」


片言の英語だった。でも、その目は緊張と期待でキラキラしている。私も同じだった。


「うん、桜井舞。日本から。よろしく」


笑おうとしたら、顔が硬直しているのが自分でもわかった。


リンがクスッと笑った。


「緊張してる顔。私も。行こう」


---


寮の部屋は、4人で使うユニットの一部だった。


私たちのユニットは、2人部屋が2つ、そしてシャワーとトイレが共同。ドアを開けると、小さな廊下があって、左右に部屋がある。


「右が私たちね」


リンが言った。私たちの部屋は、窓側のベッドが二つ。白い壁、小さな机、クローゼットは二人で共有。窓からは中庭が見える。どこかの部屋からピアノの音がかすかに聞こえてくる。


左の部屋のドアが開いた。


「やっほー! 新しいルームメイト?」


飛び出してきたのは、明るい茶色の髪をポニーテールにした女の子。目が大きくて、笑顔が眩しい。英語が聞き取りやすいアメリカ訛りだ。


「私はエマ! ニューヨークから来たの。17歳! あなたたちは?」


彼女の勢いに、リンが一歩下がった。でも私は、その明るさにほっとした。


「舞、日本から。16歳」


「リン、ベトナムから。16歳」


「やったー! 同い年くらいだ! これからよろしくね! あ、でもロシア語は全然ダメだから。今のところ言えるのは『スパシーバ』だけ。スパゲッティと間違えて覚えちゃってさ」


エマが大笑いした。その声を聞いて、もう一部屋から誰かが出てきた。


「うるさいよ、エマ。壁、薄いんだから」


韓国人だろうか。目鼻立ちがはっきりしていて、少し眠そうな顔。でも、立っているだけでセンターラインが通っているのがわかる。


「あ、ごめん。この子たち、新しいルームメイト!」


エマが紹介する前に、その子が言った。


「ユナです。ソウルから。私は去年からここにいるの。エマとは隣の部屋」


彼女の英語は流暢だった。すでにロシア語も多少できるらしく、受付のおばさんと軽く会話していたのを思い出す。


「よろしく、ユナ」


私が言うと、ユナが微笑んだ。


「緊張してるでしょ。大丈夫、最初はみんなそう。私もエマも通った道だから」


「そうそう! 私なんて、シャワーのお湯の出し方わからなくて、三日間冷水で我慢しちゃったし!」


エマがまた大笑いする。リンが小さく笑った。私も、少しだけ力が抜けた。


---


夕方、私たちは四人で近くのスーパーに行った。ユナが案内してくれた。


「ここで食料品はだいたい揃う。でも日本のものはないから、舞、覚悟しといて」


ユナが商品棚の間をすいすい歩く。エマは何を見ても「これ何?」と聞いている。リンは静かに、必要なものをカゴに入れていく。


「これ、美味しいよ」


ユナが指さしたのは、白いパックに入った何か。ロシア語で書かれていて読めない。


「 творог(トヴォローグ)。カッテージチーズみたいなもの。プロテイン取れるから、バレエの生徒はみんな食べてる」


私は言われるままにカゴに入れた。


レジの前で、エマが突然叫んだ。


「あ! おにぎりみたいなのある!」


彼女が指さしたのは、三角形のパックに入ったご飯のようなもの。でも明らかに日本のおにぎりとは違う。


「それは...何だろう」


ユナが苦笑いした。


「ご飯に何か入れて、海苔で巻いたやつ。でも日本のとは別物だと思う。エマ、おにぎり知ってるの?」


「ニューヨークに日本食レストランがあるんだ! 母とよく行ってた。あの三角形が大好きでさ」


エマは嬉しそうにそれをカゴに入れた。後で食べてがっかりするのが目に見えている。でも、なぜか私も笑顔になった。


---


翌朝、6時。アラームが鳴る前に目が覚めた。


ベッドの上で、心臓がドキドキしている。今日が、初めてのレッスン。本当の意味でのワガノワ・メソッドを、この体で受け止める日。


リンも起きていた。鏡の前で、黙って髪を結び直している。何度も、何度も。完璧なお団子ができるまで。


「舞、緊張する?」


「うん。リンも?」


「うん。でも、楽しみでもある」


彼女の笑顔は、昨日より少しだけ固かった。


ドアをノックする音。


「二人とも、起きてる? 遅れるよ!」


エマの声だ。ユナも一緒らしい。


---


スタジオは、噂に聞いていた通り、床が斜めだった。


劇場の舞台を再現しているのだと、後で知った。観客から見えやすいように。でも初めて立った時は、ただただ奇妙な感覚だった。日本のまっ平らな床に慣れた体が、無意識にバランスを取ろうとする。


クラスには、私たちを含めて15人くらいの生徒がいた。ロシア人が大半。でも、アジア系の顔も何人か。私たち以外にも、中国人らしき女の子が一人、隅で黙ってストレッチをしている。


担任は、クラスノワ先生と呼ばれる女性だった。50代くらいだろうか。白髪交じりの髪をきつく結び、背筋が針のように伸びている。彼女がスタジオに入ってきた瞬間、空気が変わった。


「ドーブラエ・ウートラ」


低く、通る声。挨拶なのに、命令のように聞こえた。


生徒たちが一斉に立ち上がり、レベランス。私も慌てて倣う。リンも、ユナも。エマだけが少し遅れた。


ピアニストが椅子に座った。50代くらいの女性。彼女は先生の顔をちらりと見て、指を鍵盤に置く。


「バー、プリー」


その一言で、全員がバーについた。


プリエ。ジュッテ。ロンデ・ジャンブ・アテール。


動きそのものは、日本でやってきたことと、そう変わらない。でも、何かが違う。


「フーイ!」


クラスノワ先生の声が飛ぶ。誰かに向けてではない。でも、その一言で、全員の足がもう半回転外側に向いた。


「ワー・ヌース!」


「かかと、前」。ロシア語はわからないけど、この言葉だけはわかった。日本の先生が毎回叫んでいた言葉だ。


でも、私のかかとは、まだ前に来ていないらしい。先生が私の前に立った。


「チャイニーズ?」


「ジャパニーズ」


私が答えると、先生は少し眉を上げた。それから、私の腰に手を当て、ぐっと回した。


「ターンアウトは、ここから」


腰の骨を指さす。骨盤。日本の先生と同じことを言っている。でも、その手の圧力が違う。もっと深いところに響く。


「あなたのターンアウトは、膝から。でも、バレエは骨盤から。わかる?」


わかる。頭では。でも、体がついてこない。


先生はそれ以上何も言わず、次の生徒のところへ行った。


私はバーに戻り、もう一度プリエをした。骨盤から。何度も何度も。


隣でリンも同じように、自分の体と格闘していた。その向こうで、ユナは先生の動きをじっと見つめている。エマはというと、眉をひそめて自分の足を見つめ、何かぶつぶつ言っている。たぶん英語で愚痴っているのだ。


---


レッスンが終わったのは、12時を回っていた。3時間。体はもう悲鳴を上げている。でも、なぜかもっとやりたかった。


更衣室で、ユナが言った。


「クラスノワ先生、すごいね。一言で全部変わる」


「でも、まだ何言ってるかわかんない」


私が言うと、ユナが笑った。


「私も半分くらい。でも、そのうちわかるようになるって、先輩が言ってた」


エマが大きなため息をついた。


「私はさっぱり。『フーイ』って何? 『ワーヌース』って何? 全然わかんない。明日からロシア語の授業、本気でやらなきゃ」


「私も」


リンが小さな声で言った。彼女は何か考え込んでいるようだった。


「リン、どうした?」


彼女は顔を上げて、少しだけ微笑んだ。


「私、ベトナムで、一番だった。でも、ここでは...」


言いかけて、やめた。でも、その先はわかる。


ここでは、誰もがそれぞれの国で「一番」だった。そして今、全員がゼロからやり直している。


ユナがリンの肩をポンと叩いた。


「ランチ行こう。昨日買ったトヴォローグ、食べてみない?」


---


その夜、寮の部屋で、私たちは四人集まった。リンの部屋(私たちの部屋)に、ユナとエマがやってきた。


「これが噂のトヴォローグ」


ユナが差し出した白いパック。私とリンとエマは、恐る恐る一口。


「...美味しい?」


エマが首をかしげた。確かに、味はほとんどない。カッテージチーズのさらさらした感じ。


「プロテインだと思って食べるものよ」


ユナが笑った。彼女は慣れた様子で、スプーンですくって食べている。


エマが突然、何かを思い出したように叫んだ。


「そうだ! 私、これ買ったんだ!」


彼女が取り出したのは、例の「おにぎりみたいなやつ」。包装を開けると、ぺったりしたご飯に、何か赤いものが混ざっている。海苔は湿気ってふにゃふにゃだ。


「...これ、おにぎり?」


私が言うと、エマが一口食べて、顔をしかめた。


「違う。これは何か別のものだ。ニューヨークのとは全然違う...」


四人で顔を見合わせて、笑った。


ユナが言った。


「これから、こんなことばっかりだよ。何もかもが『思ってたのと違う』。でも、それでいいんだと思う」


リンがうなずいた。エマも、しょんぼりしながらも笑っている。


私は、窓の外を見た。


遠くから、ピアノの音が聞こえる。誰かがまだ練習しているのだろう。マリーナさんだろうか。それとも、あの中国人の女の子だろうか。


明日もまた、あの斜めの床に立つ。


そのことが、怖くて、そしてたまらなく楽しみだった。


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