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第九話 黄金の穀倉地帯

 大陸西部。

 かつて「大地の四天王」バザルトが支配していたその地域は、大陸随一の穀倉地帯として知られていた。

 南のジャングルを抜け、馬車に揺られること数日。

 峠を越えたリディアたちの目の前に広がっていたのは、視界を埋め尽くすほどの「黄金」だった。

「うわぁ……! すごいです! 一面の大草原……じゃなくて、小麦畑です!」

 御者台に座っていたリディアが、身を乗り出して歓声を上げた。

 地平線の彼方まで続く、輝くような金色の波。

 風が吹くたびに、ざわざわと穂が揺れ、甘く香ばしい香りが漂ってくる。

「これが噂の『黄金小麦』か。……なるほど、確かに普通の麦とは輝きが違うな」

 幌馬車の荷台から、黒衣の青年――魔人アビスが顔を出した。

 彼は眩しそうに目を細めたが、その表情は珍しく穏やかだった。

 それもそのはず。

 この香ばしい匂いは、彼の好物であるパンやパスタの原料そのものだからだ。

「おい、下僕二号」

「はいっ! ここにおりますアビス様!」

 アビスが声をかけると、馬車の屋根から、ボロボロのローブを纏った女性が逆さまに顔を覗かせた。

 新たにパーティ(下僕枠)に加わった魔術師、セレスティアである。

 彼女は「アビス様の視界を遮らない特等席」と称して、屋根の上にヤモリのように張り付いて移動していたのだ。

 めくれ上がったスカートを押さえもせず、眼鏡を怪しく光らせている。

「この麦畑、魔力的な異常はねえか?」

「はい、解析済みです!」

 セレスティアは、顔を真っ赤にしてアビスに至近距離まで近づいた。

「土壌全体に、かつての四天王バザルトのものと思われる高密度の魔力が残留しています。ですが、毒性や呪いの類ではありません。純粋な『大地のエネルギー』として小麦に吸収され、異常成長を引き起こしているようです」

 そこまでは、完璧かつ迅速な報告だった。

 だが、彼女は報告を終えると同時に、鼻翼をヒクつかせ、スーハースーハーと馬車内の空気を吸い込み始めた。

「あぁ……、この密室に充満するアビス様の香り……! 私の報告を聞いてくださる時の、そのゴミを見るような冷徹な眼差し……! ゾクゾクします……! このまま踏まれたいです……!」

 セレスティアは恍惚の表情で身をくねらせ、よだれを垂らさんばかりの勢いだ。

「……チッ。報告だけなら優秀なんだがな」

 アビスは心底嫌そうな顔で、セレスティアの額を指先でピンと弾いた。

「余計なオマケはいらねえんだよ、変態」

 そう言い捨てて、アビスは馬車の奥へと引っ込んだ。

 その横で、テトがげんなりした顔で手綱を握っていた。

(……この人、本当に『人類最強』なのかよ。ただの変態じゃねえか)

 テトは、この数日で、セレスティアという人物のヤバさを骨の髄まで理解していた。

 魔法の腕は超一流だが、頭の中身というか性癖が残念すぎるのだ。


 ◇


 一行が到着したのは、街道沿いにある宿場町『ゴールデン・ウィート』。

 かつては静かな農村だったその町は、今や異様な活気に包まれていた。

 町中から漂うパンを焼く匂い。

 そして、なぜか通りを闊歩する、筋肉隆々の農夫や、やたらと殺気立った自警団の姿。「なんか……町の人たち、ガラが悪くないですか?」

 リディアが首を傾げる。

 すれ違う人々が皆、目をギラギラさせ、肩で風を切って歩いているのだ。

 鍬を持った農夫同士が「あぁん? どこの麦食って育ったんだコラ!」とメンチを切り合っている光景は、とてものどかな農村とは思えない。

「……フン。活気があっていいじゃねえか。腹が減ってるんだ、店に入るぞ」

 アビスは周囲の殺伐とした空気など意に介さず、一軒のレストラン『豊穣の食卓亭』へと入っていった。

 店内は満席だったが、アビスが無言で圧(殺気)を放つと、客たちが「ヒッ!?」と悲鳴を上げて席を空けたため、スムーズに着席できた。

「いらっしゃい! 何にするんだい!」

 威勢のいい女将が水をドンと置く。

「この店で一番美味いパンと、パスタだ。ソースはシンプルにオイルとニンニク、鷹の爪を使ったペペロンチーノにしろ。素材の味が誤魔化せねえからな」

「あいよ!」

 数分後。

 運ばれてきた料理を見て、アビスの目が僅かに見開かれた。

 カゴに盛られたパンは、焼きたての湯気と共に黄金色に輝き、パスタは宝石のように艶めいている。

「……ほう」

 アビスはまず、何もつけずにパンを一口ちぎって口に運んだ。

 サクッという軽快な音。

 その瞬間、口の中に広がる圧倒的な小麦の甘みと香ばしさ。

「……ッ!」

 アビスの手が止まった。

 そして、ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。

 その顔に、この旅で初めてと言っていいほどの「純粋な称賛」の色が浮かんだ。

「……美味い」

 短く、しかし重みのある一言。

「外はカリッと香ばしく、中は絹のようにしっとりしている。噛むたびに溢れるこの濃厚な魔力……いや、旨味。これほどのパンは、王都の王室御用達の店でも食えねえぞ」

 アビスは厨房の奥にいる頑固そうな親父に向かって、ニヤリと笑いかけた。

「おい、そこの親父。テメエ、なかなかいい仕事するじゃねえか。この焼き加減、絶妙だぞ」

 魔人から「テメエ」呼ばわりされた親父は一瞬ギョッとしたが、アビスの表情が本気の称賛であることに気づき、照れくさそうに鼻をこすった。

「へっ、当たり前よ! 俺のパンは世界一だ!」

「やったー! アビスさんが褒めましたよ! 私もいただきます!」

 リディアもパスタをフォークに巻きつけ、大口でパクリ。

「ん~っ!! 美味しいですぅ~! 麺がモチモチで、弾力がすごいです!」

「うめぇ! なんだこれ、食うと力が湧いてくる気がするぞ!」

 テトもパンを頬張りながら目を輝かせた。

 アビスもパスタに手を伸ばす。

 ニンニクの香りと、小麦の甘みが絡み合う至高の味わい。

 フォークを口に運ぶ。

 平和で、幸福な食卓。

 ――であるはずだった。


 ドガァァァァァン!!


 突然、隣のテーブルが爆発した。

 飛び散る木片。舞い上がるパスタ。

 アビスの手がピタリと止まる。

 フォークの上のパスタが、衝撃でプルンと落ちた。

「あぁん!? テメエ、俺の麦の取り分に文句あんのかコラァ!!」

「うるせぇ!! 俺は昨日、黄金パンを五斤も食ったんだ! 今の俺は無敵なんだよォォ!!」

 暴れだしたのは、地元の農夫風の男たちだった。

 一人の腕が岩のように膨れ上がり、もう一人の口からはボッと炎が漏れている。

 ただの喧嘩ではない。

 明らかに常人を逸脱した「異能」を使った殺し合いだ。

「ヒャッハー!! 力が! 力が溢れてきやがるぜェ!!」

 腕が巨大化した男が、近くの客を椅子ごと殴り飛ばした。


 ガシャーン!!


 アビスたちのテーブルに、男が飛んできた。

 皿が割れる。

 ワイングラスが倒れる。

 そして――アビスが食べていた「至高の黄金パン」が、床に転がり、男の泥だらけのブーツに踏みつけられた。


 静寂。


 店内の騒ぎが一瞬だけ遠のいたように感じられた。

 アビスは、微動だにしなかった。

 ただ、その手に握られたフォークが、飴細工のようにぐにゃりとひしゃげただけだ。

「……おい」

 地獄の底から響くような声。

 アビスはゆっくりと顔を上げた。

 その深紅の瞳には、一切の理性が消え失せ、純粋培養された殺意だけが渦巻いていた。

「テメエら……。 俺のパンを……俺の至福の時間を……」


 ゴゴゴゴゴゴ……。


 店内が急激に暗くなった。

いや、アビスから溢れ出した漆黒の魔力が、照明の光すら飲み込んでいるのだ。

「誰の許可を得て暴れてやがるんだ、あァ?」

 暴れていた男たちが動きを止めた。

 本能が警鐘を鳴らしている。

 目の前にいるのは、喧嘩を売っていい相手ではないと。

「な、なんだテメエは!? 俺たちは『大地教団』の信徒だぞ! この黄金小麦の力を得た選ばれし……」

「知るか」

 アビスが男に視線を送った。


 ドヂュッ!!


 見えない衝撃波が、巨大化した男の顔面を捉えた。

 男は悲鳴を上げる間もなく、店の壁をぶち抜いて遥か彼方へと弾き飛ばされた。

星になる勢いだ。

「ひっ!? 兄貴が一撃で!?」

「や、やっちまえ! 俺たちの炎で燃やし尽くせ!」

 残った男たちが、錯乱して炎魔法のようなものを放った。

 火球がアビスに迫る。

 だが、アビスは動かない。

 動いたのは、彼の背後に控えていた「下僕二号」だった。

「……アビス様のお食事中に騒音を撒き散らすなど、万死に値しますわ」

 冷徹な声と共に、セレスティアが杖を一閃させた。

「消えなさい。――『真空断層(ヴォイド・スラッシュ)』」


 ヒュンッ!


 空間そのものが刃となって奔り、迫りくる火球を、そして男たちの武器を、服を、あられもない姿になるまで切り刻んだ。

「ぎゃぁぁぁぁっ!!?」

「な、なんだこの女!? つ、強すぎる!?」

 パンツ一丁(それも切り刻まれてボロボロ)になった男たちが、腰を抜かして震え上がる。

 その時、客の一人がセレスティアの顔を見て叫んだ。

「ま、待て! あのボロボロのローブ……狂ったような目つき……! 間違いない! あれは『深淵の探求者(アビス・シーカー)』セレスティアだ!!」

 その名は、この辺境の地でも轟いていたらしい。

 男たちの顔色が絶望に染まる。

「あのアビス・シーカーか!? 『魔法の深淵』を追い求めるあまり、邪魔する者は国ごと焼き払うという、あの災害魔女か!?」

「なんでそんなヤバい奴がこんな所に!?」

 セレスティアは眼鏡をキラリと光らせ、不敵に微笑んだ。

「フフッ……よく知っているじゃない。 そうよ、私は深淵(アビス)を追い求める者……。今日も今日とて、アビス様の尊いお食事風景を目に焼き付けるために、こうしてお伴しているのよ!」

「……え?」

 男たちがポカンとした。

 なんか思ってたのと違う。

 真理とかじゃなくて、なんか個人的な趣味の話をしていないか?

「だが、貴方たちはその尊い時間を汚した! その罪、私の全魔力をもって償わせてあげるわ! さあ、歯を食いしばりなさい!」

 セレスティアが杖に極大魔力をチャージし始めた。

 店ごと消し飛ばす気だ。

 アビスが、鬱陶しそうにセレスティアの頭をペチリと叩いた。

「待て。店を壊すな。まだ食事が残ってる」

「はうっ! アビス様からの愛の鞭!?」

 セレスティアは恍惚の表情で崩れ落ちた。

 アビスは、呆然とする男たちに向き直り、床に落ちたパンを指差した。

「おい、テメエら。命が惜しければ、三分以内に代わりのパンを持ってこい。焼き立てだ。一秒でも遅れたら、テメエらをパン生地の代わりに捏ねてオーブンに放り込むぞ」

「は、はいいぃぃぃぃッ!!」

 男たちは脱兎のごとく厨房へ走り、親父に土下座してパンを乞うた。

 店内には、再び静寂が戻った。

 ただ、壁に空いた大穴と、うずくまる変態魔術師だけが、今の惨劇を物語っていた。


 ◇


「……ふぅ。食った食った」

 数十分後。

 何事もなかったかのように食事を終えたアビスは、満足げにナプキンで口を拭った。

 リディアとテトは、まだ心臓がバクバクしていたが、アビスにとっては些末なことらしい。

「しかし、妙だな」

 アビスは、空になった皿を見つめて呟いた。

「あのチンピラども……魔術師でもないのに、魔力回路が無理やり拡張されていやがった。まるで、外部から魔力を注入されて暴走しているような……」

「はい! 解析結果が出ましたわ、アビス様!」

 いつの間にか復活したセレスティアが、シュバッと報告書(手書きメモ)を差し出した。

「先ほどの男たちの血液と、この店の小麦を分析しました。原因はやはり『黄金小麦』です。この小麦には、バザルトの残留魔力が色濃く含まれています。これを摂取した者は、一時的に身体能力が向上し、適性があれば簡易的な『土』や『火』の魔法が使えるようになります。いわば、食べる魔力ドーピング剤のようなものです」

「なるほどな。魔力に酔っ払った状態ってわけだ」

 アビスは顎を撫でた。

「はい。しかも、常食すると精神が高揚し、闘争本能が増幅される『副作用』もあるようです。町の人々が殺気立っていたのはそのせいです」

 アビスの目がすぅっと細められた。

「……ほう。つまり、この美味いパンを食えば食うほど、馬鹿なチンピラが増えて、俺様の静かな食事を邪魔する確率が上がるってことか?」

「……理論上はそうなります」

 バキッ。

 アビスの手の中で、新しいフォークがへし折れた。

「許せねえな」

 アビスが立ち上がった。

 その背中から、どす黒いオーラが立ち昇る。

「俺様の好物を、そんな欠陥品に改造した奴はどこのどいつだ。品種改良してやる。副作用だけを取り除いて、味だけを残す。……そのためには、元凶を叩き潰して、俺様好みに作り変える必要があるな」

「アビスさん、それって……また世直しですか?」

 リディアが目を輝かせる。

「違う。食育だ」

 アビスは店の外へと歩き出した。

 向かう先は、先ほどの男たちが口走っていた『大地教団』とやらだ。

 美味いパンのためなら、神だろうが悪魔だろうが叩き潰す。

 最恐の美食家による、黄金の国での食育(?)が幕を開けた。

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