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第八話 食卓の支配者

 黄金の幻影が剥がれ落ち、露わになった現実は、あまりにも残酷で、そして悪臭に満ちていた。

 かつて栄華を極めたであろう「美食王の遺跡」の最深部。

 そこは今や、腐敗した肉と排泄物が堆積する、巨大な肥溜めのような空間と化していた。

 黄金のシャンデリアだと思われていたものは、天井からぶら下がる巨大な蜘蛛の巣と、そこに絡め取られた白骨死体の群れ。

 宝石を散りばめたような壁画は、びっしりと張り付いたカビと粘菌の模様。

 そして、リディアたちが座らされていたテーブルの上には、無数のウジが湧く魔獣の腐肉が山盛りにされていた。

「お、おぇぇぇぇ……っ!」

 リディアは胃の中のものを全て吐き出しそうな勢いでえずいていた。

 無理もない。

 彼女は数秒前まで、この汚物を「王都の高級ステーキ」だと信じ込み、あろうことか口に入れようとしていたのだから。

「うわぁぁぁん! 俺のハンバーグがぁぁぁ! ネズミの死骸だったなんてぇぇぇ!」

 テトもまた、涙目になりながら後ずさりしていた。

 夢と希望(食欲)を打ち砕かれた少年の心は、複雑骨折寸前だった。

 だが、この状況に誰よりも激昂している者がいた。

 玉座――汚物と骨で固められた小山の上に鎮座する、暴食のオークロードである。

『ブヒィィィィィッ!! 貴様ァァァッ!!』

 オークロードが、鼓膜をつんざくような絶叫を上げた。

 その醜悪な豚の顔が、怒りでどす黒く変色し、全身の脂肪がブルブルと震える。

『よくも……よくも我が王国を! 我が至高の晩餐を台無しにしてくれたなァ!! モルフェ様から賜った「夢幻の宝珠」……! あれさえあれば、私は永遠に黄金の夢の中で、美食を味わい尽くせたというのにィ!!』

 オークロードが地団駄を踏むと、遺跡全体が地震のように揺れた。

 彼は、この遺跡に迷い込んだ冒険者を幻術で惑わせ、自ら調理器具の上に寝そべらせては、それを「最高の食材」として貪り食ってきたのだ。

 その歪んだ楽園が、たった一人の魔人の指鳴らしによって崩壊した。

『許さん……許さんぞ、下等生物どもォ!! 夢が覚めたのなら、現実の恐怖を味わうがいい! 貴様らを生きたままミンチにして、我が胃袋に収めてやる!!』

 ドォォォォン!!

 オークロードが玉座から飛び降りた。

 その巨体が着地した瞬間、瓦礫の欠片が吹き飛び、衝撃波がリディアたちを襲う。

 速い。

 その醜悪な見た目からは想像もつかないほどの敏捷性だ。

「くっ……! テトくん、下がってて!」

 リディアが瞬時に体勢を立て直し、前に出る。

 彼女は口元の涎を拭うと、ファイティングポーズをとった。

「よくも騙しましたね! 食べ物の恨みと、精神的なショックの分……倍返しです!」

「ブヒャハハハ! その細腕で何ができる! 我が脂肪はあらゆる衝撃を吸収する『不沈の鎧』よォ!」

 オークロードが、丸太のような腕を振り上げた。

 その手には、巨大な肉切り包丁が握られている。

 直撃すれば、勇者といえどただでは済まない。


 ――その時だった。


「アビス様に……指一本、触れさせるものですかぁぁぁぁっ!!」

 突然、天井の闇を切り裂いて、ヒステリックな女の絶叫が響き渡った。

「なっ!?」

 オークロードが動きを止めて見上げると同時に、天井付近から凄まじい魔力の奔流が降り注いだ。

「燃え尽きなさい、薄汚い豚! ――極大焼却魔法『紅炎爆砕プロミネンス・バースト』!!」


 カッッッ!!


 視界が真っ白に染まるほどの閃光。

 次の瞬間、太陽の欠片を投げつけたかのような灼熱の業火が、オークロードの頭上に直撃した。


 ズガァァァァァァァン!!


 爆炎が渦を巻き、遺跡の石壁を赤熱させる。

 リディアとテトは、慌てて顔を覆って伏せた。

「な、なに!? 誰!?」

「すっげえ威力……!」

 もうもうと立ち込める黒煙。

 その中から、一人の人影がふわりと降り立った。

 ボロボロのローブをはためかせ、眼鏡を光らせた女性魔術師――セレスティアである。

 彼女はアビスの前に立ちはだかるように着地すると、肩で息をしながら、しかし勝ち誇ったように杖を突きつけた。

「ハァ……ハァ……! 見たか……! これが『人類最強』と謳われた私の、愛の火力よ……! アビス様の崇高な視界に、貴様のような汚物が映り込むことは許さないわ!」

 セレスティアは陶酔していた。

 ついにやってしまった。

 陰から見守るだけのストーカー生活に別れを告げ、愛する神様のために、その圧倒的な力を行使してしまったのだ。

 ああ、きっとアビス様は驚かれているに違いない。

 『まさか、こんな所にこれほどの使い手がいたとは』と、賞賛の言葉をくださるに違いない――。


 しかし。


『ブ、ブヒィ……熱いではないか……』

 煙の向こうから、不快そうな声が聞こえた。

 セレスティアの表情が凍りつく。

 煙が晴れると、そこには――全身の皮膚を赤く爛れさせ、焦げ臭い煙を上げながらも、未だ健在なオークロードの姿があった。

「う、嘘……!?」

 セレスティアが悲鳴を上げる。

「直撃したはずよ!? ドラゴンだって消し炭にする極大魔法なのよ!?」

『ブヒャハハハ! 痛いなァ! だが、それだけだ! 我が脂肪層は、魔法耐性を付与した特別製! 加えて、数百年かけて食らい続けた魔獣の魂が、魔力障壁となって我を守るのだ! 人間ごときの魔法など、我が食欲の前ではスパイスにもならんわァ!』

 オークロードの身体が、焦げた皮膚をバリバリと破りながら再生していく。

 絶望的なまでのタフネス。

 「人類最強」の魔術師の全力攻撃ですら、この怪物を倒すには至らなかったのだ。

「そ、そんな……アビス様にお見せする、最初で最高のアピールチャンスが……」

 セレスティアは膝から崩れ落ちた。

 魔法が通じなかったことへの恐怖よりも、アビスの前で無様な失敗を晒したことへのショックの方が大きかった。

『死ねェ! 小蠅がァ!』

 オークロードが、再び肉切り包丁を振り上げる。

 セレスティアは動けない。

 魔力を使い果たし、精神的にも折れている。

「あ……」

 死ぬ。

 そう思った瞬間。

「……チッ。騒々しい」

 背後から、底冷えするような声が聞こえた。

 それと同時に、セレスティアの横を、黒い影が通り過ぎた。

 魔人アビスである。 彼はポケットに手を突っ込んだまま、散歩でもするかのような気軽さで、振り下ろされる巨大な包丁の真下へと歩み出た。

「ア、アビス様!? 危ないです!」

 セレスティアが叫ぶ。

 だが、アビスは止まらない。

 そして、包丁が彼の頭蓋をカチ割る寸前。

「邪魔だ、肉塊」

 アビスは、見向きもせずに左手を軽く払った。

 ただ、それだけ。

 魔法の詠唱も、魔力の集中も、気合の掛け声すらない。

 服についた埃を払うような、無造作な動作。


 ドヂャアァァァァァァッ!!


 次の瞬間、オークロードの巨体が「弾け飛んだ」。

 斬られたのではない。

 殴られたのでもない。

 圧倒的な質量を持った「見えざる何か」に叩き潰され、全身の骨と内臓が破裂したのだ。

『ブ、ゴ……ォ……?』

 オークロードは、自分が死んだことすら理解できなかっただろう。

 上半身が消滅し、残された下半身だけが、勢いのまま数歩よろめき――そして、ズシンと音を立てて倒れ伏した。

 「人類最強」の魔法ですら貫けなかった脂肪の鎧も、魔力障壁も、アビスの理不尽な暴力の前には、濡れた紙ほどの意味も成さなかった。


 静寂が、広間を支配した。


「す……すごいですアビスさん! 一撃ですよ!」

 リディアが目を丸くして駆け寄ってくる。

「へぇ……マジかよ……。あのデカブツを、指先一つで……」

 テトも腰を抜かしたまま、ポカンと口を開けている。

 そして。 誰よりも衝撃を受けていたのは、セレスティアだった。

「あ……ぁぁ……」

 彼女は、震える手で眼鏡の位置を直した。

 理解できない。

 魔法理論が通用しない。

 あれは魔法ではない。

 ただの「暴力的な魔力の塊」だ。

 だが、そのあまりにも圧倒的で、純粋で、美しい破壊の光景に――彼女の魔術師としての本能と、変態としての(カルマ)が、限界を超えて反応してしまった。

「ん、あぁっ……! す、ごい……! あんな……あんなデタラメな力の奔流……! 私の……私の理論が、プライドが、理性が……全部、ぐちゃぐちゃに……っ!」

 セレスティアは顔を真っ赤にし、熱に浮かされたように身をよじり、その場に突っ伏した。

 ビクンビクンと痙攣するその姿は、完全に「イって」しまっていた。

「……おい」

 アビスが、冷ややかな視線で足元の魔術師を見下ろした。

「いつまでそこで寝ているつもりだ、ストーカー」

「はッ……!」 アビスの声に、セレスティアは弾かれたように顔を上げた。

 そして、即座に見事な土下座を決めた。

「も、申し訳ありませんアビス様! 私、セレスティアと申します! ずっと……ずっとアビス様をお慕いして、後をつけておりました!」

「知っている」

 アビスは短く答えた。

「ジャングルに入った時からな。……隠蔽魔法が甘すぎる。魔力の漏洩だけで居場所が丸わかりだ」

「ひゃうっ!? さ、最初からバレて……!?」

 セレスティアは羞恥と歓喜で震えた。

 神様は、私のことを見ていてくださったのだ。

 あえて泳がせてくださったのだ。

「えっ、誰ですかこの人?」

 リディアが不思議そうに覗き込む。

「さっき、すごい魔法使ってましたけど……」

「人類最強の魔術師、セレスティアだ」

 アビスが面倒くさそうに紹介する。

「まあ、所詮は人間レベルでの『最強』だがな。……見ての通り、役立たずだ」

「役立たず……! ありがとうございます!」

 セレスティアは罵倒をご褒美として受け取りつつ、必死に食い下がった。

 ここで置いていかれるわけにはいかない。

「ア、アビス様! お願いします、私を旅の仲間に加えてください! いえ、仲間だなんて滅相もない! 下僕で構いません! 家畜でも、椅子でも、足拭きマットでも!」

「断る。間に合っている」

 アビスは即答し、背を向けた。

「俺様の旅に、無能な連れは必要ない。下僕は小僧(テト)一人で十分だ」

「そ、そんなぁ! 待ってください!」

 セレスティアは這いつくばってアビスのブーツにしがみついた。

「わ、私、役に立ちます! 確かにあの豚には通用しませんでしたが……雑魚の掃除なら! アビス様が指を動かすまでもない、道端の羽虫や、鬱陶しい魔物の露払いなら、完璧にこなしてみせます!」

 彼女は必死だった。

 プライドなどとうに捨てていた。

「アビス様の高貴な御手を煩わせることなく、快適な旅をお約束します! 虫除けも、温度調節も、洗濯も、マッサージも、何でもします! だから……どうか、お傍に置いてください! あなたの魔法(ちから)を……もっと近くで見たいんです!」

 魂の叫びだった。

 アビスは足を止め、少しだけ考え込んだ。

 確かに、このジャングルでの旅は不快だった。

 虫。湿気。雑魚敵。

 それらをいちいち自分の魔力で対処するのは、正直面倒くさい。

 テトは物理的な世話はできるが、魔法的な対処はできない。

 その点、この変態魔術師ならば、便利な「自動掃除機」兼「空気調節機」として使えるかもしれない。

「……ふん」

 アビスは鼻を鳴らし、振り返った。

「いいだろう。ただし、勘違いするなよ。仲間じゃない。テメエは『下僕二号』だ。テトの下で、雑用と露払いに励め。……もし俺様の期待を裏切ったり、俺様の視界を汚すような真似をすれば、即座に肉塊に変えるからそのつもりでいろ」

「は、はいぃぃぃっ!! ありがとうございますぅぅぅ!!」

 セレスティアは感涙にむせび泣きながら、アビスのブーツに頬ずりをした。

 リディアとテトは、その光景をドン引きしながら見ていた。

「……ねえテトくん。あの人、すごい魔法使いなんだよね? なんであんなに嬉しそうなの?」

「……世の中には、関わっちゃいけない『深淵』があるってことだよ、姉ちゃん……」

 こうして、一行に新たな(そして極めて濃い)メンバーが加わった。


 ◇


 その後。

 玉座の裏にあった隠し金庫から、ついに目的のブツが発見された。

 『伝説のスパイス』。

 黄金色に輝くその粉末は、一振りするだけで、どんな料理でも絶品料理に変えるという奇跡の調味料だ。

 そして、広場では盛大なバーベキュー大会が開催されていた。

 そこにあった腐敗物と悪臭は、下僕二号(セレスティア)が全て「消去」した。

 食材は、もちろん「オークロードの肉」である。

 アビスに吹き飛ばされた下半身の、特に脂の乗った極上ロース肉。

「ん~~~っ! 美味しいですぅ~!」

 リディアが、焼きたての肉を頬張って叫ぶ。

「これ、普通の豚肉じゃないですね! 噛むたびに魔力が溢れてきて、とろけちゃいます!」

「へへっ、このスパイスもすげえよ! 泥臭さが完全に消えて、高級ハーブみたいな香りがする!」

 テトも夢中で肉にかぶりついている。

 アビス(人間形態)も、優雅にナイフとフォークで肉を切り分け、口に運んだ。

「……悪くない」

 彼は満足げに頷いた。

「程よい弾力と、甘みのある脂身。そしてこのスパイスの刺激……。これならば、わざわざこの不快なジャングルまで足を運んだ甲斐があったというものだ」

 その横で、セレスティアは甲斐甲斐しく肉を焼き、アビスのグラスにワインを注いでいた。

「アビス様、焼き加減はいかがですか? こちらの部位も希少ですので、ぜひ」

 彼女は自分の分は後回しで、ひたすらアビスへの奉仕に喜びを見出しているようだ。

 その目は、完全に「飼い主に忠実な犬」のそれだった。


 食事の後。

 満腹になった一行は、今後の予定について話し合っていた。

「さて、次はどこへ行こうか」

 アビスが地図を広げる。

 南のジャングルは制覇した。

「あの、アビス様」

 セレスティアが、おずおずと手を挙げた。

「ここに来る途中、風の噂で聞いたのですが……。大陸の西、旧バザルト領で、奇妙な動きがあるそうです」

「バザルト? 『大地の四天王』バザルトか?」

 アビスが眉をひそめる。

 バザルトは、四天王の中でも最も防御力が高く、そして最も頭の固い男だったはずだ。

「はい。あそこは広大な小麦地帯なのですが……最近、謎の『黄金の小麦』が大量に収穫されているとか。そして、その小麦を食べた人々が、次々と『能力』に目覚めている……という噂が」

「能力?」

「はい。身体能力が向上したり、簡単な魔法が使えるようになったり……。人々はそれを『神の恵み』と呼んで崇めているそうですが、裏ではキナ臭い噂も……」

 アビスの目が怪しく光った。

「……ほう。食べただけで力が手に入る小麦、か」

 彼の興味は、「人々の異変」ではなく、一点に集中していた。

「それはつまり……『美味い』ということだな?」

「え? あ、はい、おそらく……」

「決まりだ」

 アビスは地図の西側を指差した。

「次の目的地は西だ。その『黄金小麦』で作ったパンとパスタを食いに行くぞ。ついでに、そのふざけた恵みの正体も暴いてやるとしよう」

「おー! パスタいいですね! 行きましょう!」

 リディアが賛成し、テトが苦笑いし、セレスティアが「仰せのままに!」と平伏する。


 かくして。

 最恐の魔人と、天然勇者、元スリの少年、そして変態魔術師という奇妙なパーティは、新たな美食を求めて、西へと旅立つのだった。

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