第七話 幻影のフルコース
ギギギギギ……ズドォォン!!
リディアの馬鹿力によってこじ開けられた巨大な扉。
その向こう側に広がっていたのは、ここまでの薄暗い遺跡の風景とは一線を画す、あまりにも煌びやかで、狂気的なまでに豪華な「黄金の大広間」だった。
壁も、床も、天井も、全てが純金で装飾され、シャンデリアにはダイヤモンドが散りばめられている。
だが、何よりも圧倒的だったのは、その広大な空間を埋め尽くすほどの「食」の奔流だった。
部屋の中央には、百人は座れそうな長いテーブルが置かれ、その上には視界に入りきらないほどの御馳走が並べられていた。
丸焼きにされた仔豚、湯気を立てるロブスター、山のように積まれたフルーツ、そして宝石のように輝くケーキの塔。
甘美な香りが、暴力的なまでの濃度で鼻腔を蹂躙する。
「う、うわぁぁぁ……! す、すごいですぅ……!」
リディアの瞳が、宝石よりも輝いた。
口の端からは、すでに涎の滝が流れ落ちている。
「これ、全部食べていいんですか!? 食べ放題ですか!?」
「ね、姉ちゃん、ちょっと待てって! おかしいだろ、こんなの!」
テトが必死にリディアの服の裾を掴むが、そのテト自身も、テーブルの上に並べられた料理――かつて路地裏から眺めることしかできなかった、憧れの「白パンとシチュー」を見て、ゴクリと喉を鳴らしていた。
そして。 そのテーブルの最奥。
一段高い場所に設置された黄金の玉座に、その怪物は鎮座していた。
身長五メートルを超える巨体。
樽のように膨れ上がった腹と、醜悪な豚の顔。
全身に宝石や金貨をジャラジャラと巻きつけ、手には巨大な骨付き肉(何の肉かは不明)を握りしめている。
『暴食のオークロード』。
かつて四天王モルフェがペットとして飼っていた魔物が、主の消滅後に遺跡の魔力を食らい尽くし、異常進化した成れの果てだ。
『ブヒヒヒ……よく来たな、小さき客たちよ』
オークロードが、脂ぎった唇を歪めて笑った。
その声は、耳ではなく脳内に直接響いてくる。念話だ。
『我が名は美食王。この宮殿の主だ。ここまで辿り着いた褒美に、貴様らにも「至高のフルコース」を振る舞ってやろう』
オークロードが太い指をパチンと鳴らすと、リディアたちの目の前に、さらに豪華な料理が出現した。
「わあぁっ! マンモス肉のステーキ特大サイズ!!」
リディアが歓声を上げる。彼女が一番食べたがっていたものだ。
「こ、これは……『王都の三ツ星レストランのハンバーグ』!?」
テトも目を剥いた。
それは、彼がいつか食べてみたいと夢見ていた幻のメニューだった。
『さあ、食え。遠慮はいらん。腹一杯食って、その豊かな肉体を育てよ。……その後で、私が貴様らを美味しくいただいてやるからなァ! ブヒヒヒヒ!』
後半の不穏な発言は、リディアの耳には届いていなかった。
彼女はもう、フォークとナイフを構えてステーキに突進していた。
「いっただっきまーす!!」
「あ、姉ちゃん! ……で、でも、一口だけなら……」
テトもまた、抗いがたい食欲に理性を溶かされ、ふらふらとハンバーグに手を伸ばしかけた。
その時。
『……おい』
氷点下の声が響いた。
リディアのリュックサック。
そこから顔を出していた黒い毛玉――魔人アビス(犬形態)が、冷ややかな視線でテーブルを見下ろしていた。
「あ、アビスさん! アビスさんの分もありますよ! ほら、最高級の骨付き肉です!」
リディアが差し出した皿の上には、肉汁滴る極上の肉が乗っていた。
だが、アビスは鼻すら動かさない。
その深紅の瞳は、料理ではなく、玉座の豚を射抜くように見据えていた。
『……臭えな』
アビスが呟いた。
『腐敗臭だ。……それに、カビと泥の臭い。 おい豚。テメエの鼻は飾りか? よくもまあ、こんなゴミ溜めの中で飯が食えるもんだな』
『あァ? 何を言っている、矮小な犬っころが。この芳醇な香りが分からんとは、これだから下等生物は……』
『黙れ』
アビスの一喝。
空気がビリビリと震えた。
『俺様は聞いてるんだ。……なぜ、俺様の目の前に「食べ物」がないのか、と』
◇
その頃。
広間の天井付近、黄金の梁の上に、一人の人影がへばりついていた。
セレスティアである。
彼女は眼下の光景を見て、顔面蒼白になっていた。
「ま、マズいわ……! あれは『幻術』よ!」
彼女の魔眼には、真実の光景が見えていた。
黄金の宮殿など存在しない。
そこは、じめじめとした苔むした薄暗い石室だ。
テーブルに並んでいるのは、宝石のような料理ではない。
腐り落ちた魔獣の死骸、蠢くウジ虫、泥団子、そしてカビだらけのパン屑。
あのオークロードは、モルフェが遺した『大幻術の魔道具』を使って、腐肉を御馳走に見せかけ、侵入者に食わせているのだ。
それを食べた者は、猛毒と呪いで即死するか、精神を破壊されてオークの餌になる。
「アビス様が……神様があんな泥団子を口になさったら……!」
想像するだけで身の毛がよだつ。
神への冒涜だ。
世界の損失だ。
「い、急いで解呪しなきゃ!」
セレスティアは杖を構えた。
相手は四天王モルフェの遺産。術式の強度は桁外れだ。
だが、やるしかない。
彼女は全魔力を杖に集中させた。
「深淵の理よ、偽りの皮を剥ぎ取り、真実を白日の下に晒せ! ――『真実の光』!!」
極大の解呪魔法が放たれた。
眩い光が広間を包み込み、幻影を霧散させようとする。
空間が歪み、黄金の輝きが一瞬だけ揺らいだ。
しかし、次の瞬間。
――ガガガガッ!!
不快な音と共に、光は弾かれた。
「嘘……弾かれた!?」
セレスティアは愕然とした。
彼女は「人類最強の魔術師」だ。
魔法戦において、彼女に解けない術式など存在しないはずだった。
だが、モルフェの魔道具は、膨大な魔力を「核」として、半永久的に幻術を再構築し続けている。
出力が違いすぎる。
個人の魔力では、この遺跡全体のシステムに干渉できないのだ。
「そんな……嘘よ……。これじゃあ、アビス様が……!」
セレスティアは絶望した。
自分の無力さに。
神を前にして、役に立てない己の矮小さに。
リディアの手が、フォークに刺したステーキ(実体は腐った肉)を口へ運ぼうとしている。
もう間に合わない。
◇
『……ふん』
アビスは、天井付近で弾けた魔力の光に気づいていた。
あのストーカーが、何か小賢しい真似をしようとして失敗したらしい。
まあ、予想通りだ。
あれはモルフェが心血を注いで作った最高傑作、『夢幻の宝珠』。
人間ごときが解除できる代物ではない。
『……おい、リディア』
「は、はい! なんですかアビスさん! 今いいところなんですけど!」
リディアが口を大きく開けたまま静止する。
『テメエ、それを食うつもりか?』
「当たり前じゃないですか! 食べ物を粗末にしたらバチが当たります!」
『そうか。……だが、俺様は許さんぞ』
アビスは、リュックの中から這い出した。
黒い霧が渦を巻き、彼の体を包み込む。
瞬く間に、その姿は愛らしい犬から、漆黒のコートを纏った魔人へと変貌した。
彼は優雅にテーブルの上に降り立つと、リディアの目の前の皿を、ブーツのつま先で蹴り飛ばした。
ガシャーン!!
「ああっ!? 私のお肉ぅぅぅ!!」
リディアが悲鳴を上げる。
「何するんですかアビスさん! 食べ物の恨みは怖いんですよ!?」
「黙れ、悪食娘」
アビスは冷たく言い放つと、玉座のオークロードへと歩みを進めた。
かつーん、かつーん。
硬質な足音が、黄金の床(に見えるもの)に響く。
「おい、豚」
『あァ? なんだ貴様、せっかくの料理を……』
「料理? ……ふざけんな」
アビスの深紅の瞳が、怒りで揺らめいた。
それは、単なる不機嫌ではない。
彼の根幹に関わる、ある種の「美学」への冒涜に対する激怒だった。
「食事とは、生命を喰らう行為だ。他者の命を奪い、咀嚼し、己の血肉へと変える……。それは残酷で、傲慢で、だからこそ神聖な儀式だ」
アビスは、テーブルの上の「御馳走」を指差した。
「だが、これはなんだ? 味もしない、栄養もない、生命の灯火すら感じられない『虚無』だ。テメエは、俺様に『無』を食えと言ったのか?」
『な、何を言って……』
「俺様の舌を、胃袋を、そして『食』という行為そのものを愚弄した罪。……その薄汚い脂肪で償ってもらおうか」
アビスが右手を挙げた。 中指と親指を重ねる。
「幻ごときで、俺様の目を欺けると思ったか? ……消え失せろ、三流」
パチン。
乾いた音が、宮殿に響いた。
魔法の詠唱などない。
ただの、指鳴らし。
だが、その衝撃は世界を書き換えた。
バキィィィィィィィィッ!!
空間に亀裂が走った。
ガラスが割れるような甲高い音と共に、黄金の壁が、天井が、シャンデリアが、粉々に砕け散っていく。
セレスティアが全魔力を込めても傷一つつかなかった大幻術が、たった一回の指鳴らしで、物理的に「破壊」されたのだ。
「な……ッ!?」
オークロードが目を見開く。
煌びやかな宮殿の幻影が剥がれ落ち、その下から現れたのは――
じめじめとした、カビ臭い石造りの空洞。
黄金の玉座は、骨と汚物で固められた汚い山。
そして、テーブルの上に並んでいた山海の珍味は……ドロドロに腐った魔獣の肉片、変色した内臓、そして無数の虫が湧く残飯の山だった。
「う、うわぁぁぁぁぁっ!!?」
テトが絶叫して腰を抜かした。 目の前のハンバーグだと思っていたものが、半分腐ったネズミの死骸だったことに気づいたからだ。
「お、おぇぇぇぇ……!?」
リディアも顔面蒼白になり、口を押さえた。 さっきまで自分が「美味しそう」と涎を垂らしていたものが、吐き気を催す汚物だったのだから無理もない。
「み、見えない……何も見えません……私は何も見ていません……!」
リディアは現実逃避を始めた。
『ば、馬鹿な……!? モルフェ様の魔道具が、破壊されただと……!?』
オークロードは、自分の手元にある宝珠を見つめた。
幻術の核である宝珠には、ピシピシと無数のヒビが入り、光を失って砕け散った。
「さて」
アビスは、腐った床の上に悠然と立ち、ニヤリと笑った。
「不味い飯は片付けたぞ。……次はメインディッシュだ。おい豚。貴様のそのたっぷりと肥え太った肉……幻じゃなく、実体があるんだろうな?」
アビスの背後から、漆黒の魔力がオーラのように立ち昇る。
それは、食欲という名の殺意。
『ひッ……!?』
オークロードは本能的に悟った。
自分は「捕食者」ではない。
目の前にいる、この美しい魔人こそが、生態系の頂点に立つ「真の捕食者」なのだと。
――一方、天井の梁の上。
セレスティアは、その光景を見て震えていた。
恐怖ではない。
あまりの感動に、涙を流していたのだ。
「あぁ……すごい……! 術式の解析も、解呪のプロセスもすっ飛ばして……ただ圧倒的な『魔力質量』で、幻術の概念そのものを圧し潰したわ……! なんて乱暴で、理不尽で、野蛮な……! 素敵……! あぁ、抱いて……!」
彼女は鼻血を出しながら、恍惚の表情で身をよじった。
やはり、この方こそが私の神だ。
一生ついていこうと、彼女は改めて心に誓ったのだった。




