第六話 美食王の試練、悪食の迷宮
『美食王の遺跡』。
その内部は、一般的な古代遺跡の常識を遥かに逸脱していた。
石造りの回廊には、なぜか甘ったるいバニラの香りが漂い、壁面の松明の代わりには、永遠に燃え続けるアルコールランプが青白い光を放っている。
床は油で磨き上げられたようにツルツルと滑り、天井からは巨大なフライパンや泡立て器のオブジェが、処刑器具のように吊り下げられていた。
「うわぁ……なんか、お腹が空く匂いがしますね!」
先頭を行くリディアが、鼻をヒクヒクさせながら言った。
彼女の背中には、黒い毛玉が入ったリュックサック。
そしてその後ろには、巨大な荷物を背負い、周囲を警戒してキョロキョロしているテトが続く。
「姉ちゃん、暢気なこと言ってる場合じゃないって! ここ、絶対ヤバいよ!」
テトの声は震えていた。
元スリとしての勘が告げている。
この遺跡は、そこら辺のダンジョンとは訳が違う。
殺意の質が違うのだ。
侵入者を単に排除しようとするのではなく、「調理」しようとしている気配が濃厚に漂っている。
『……チッ。床が油でベトついてやがる』
リュックの隙間から、アビス(犬)が不快げに呟いた。
『俺様の高貴な肉球を汚すわけにはいかん。……おいリディア、絶対に転ぶなよ。もし俺様を落としたら、貴様の晩飯は一週間「乾燥パンの耳」だけにするぞ』
「ええっ!? それは死活問題です! 任せてください、体幹には自信があります!」
リディアは「フンッ!」と気合を入れると、ツルツルの床をスパイク付きの登山靴で踏みしめ、ガシガシと進んでいった。
遺跡の床が削れる音がするが、誰も気にしない。
一行が広いホールに出た、その時だった。
ゴゴゴゴゴゴ……!
重々しい音と共に、前方の床がせり上がり、三体の巨人が姿を現した。
身長三メートル。
全身が茶色く、ゴツゴツとした岩のような質感。
だが、漂ってくるのは土の匂いではなく、香ばしいイースト菌の香りだった。
「ゴーレム!? ……いや、あれは……!」
テトが目を剥く。
それは岩石ではなかった。
パンだ。
極限まで硬く焼き締められた、鋼鉄のごとき硬度を誇る「バゲット・ゴーレム」である。
『……ふん。古代の保存食が魔力で動き出したか。カビ臭くてかなわん』
アビスは興味なさそうに鼻を鳴らした。
だが、リディアの反応は違った。
「わあ! 焼きたてパンですね!」
キラキラと目を輝かせる勇者。
ゴーレムたちが、侵入者を排除すべく、丸太のような腕(極太バゲット)を振り上げた。
ブンッ!!
空気を切り裂く豪音。
直撃すれば人間などミンチになる威力だ。
「姉ちゃん危ねえ!」
「いただきまーす!!」
リディアは避けない。
あろうことか、振り下ろされたバゲットの腕に向かって、大口を開けて飛びついた。
バギィッ!!
「……は?」
テトが間の抜けた声を上げた。
リディアが、ゴーレムの腕を噛み砕いていた。
鋼鉄より硬いはずの超硬質パンを、強靭な顎と歯で食いちぎり、バリバリと咀嚼している。
「ん~! 硬いですけど、噛めば噛むほど小麦の味がします! 顎のトレーニングに最適ですね!」
リディアは恍惚の表情で飲み込むと、次の一口へと襲いかかった。
ゴーレムが怯んだ(ように見えた)。
捕食者が、被食者に変わった瞬間だった。
「ごちそうさまでしたー!」
数分後。
そこには、綺麗に平らげられたパンの屑と、満腹で腹をさするリディアの姿があった。
テトは絶句し、アビスは呆れてため息をついた。
『……貴様、本当に人間か? 胃袋が亜空間に繋がっているんじゃないだろうな』
「育ち盛りですから!」
一行は、物理的に「道を切り開いて」先へと進んだ。
◇
遺跡の中層エリア。
そこは、先ほどまでの「力技」が通じない、緻密で悪意に満ちたトラップ地帯だった。
通路の壁には無数の穴が空き、床には怪しげなパネルが敷き詰められている。
天井からは、巨大な包丁が振り子のように行ったり来たりして、通路を遮断していた。
「うわぁ、通りにくそうですね。壊していいですか?」
リディアが拳を構える。
『待て』
アビスが止めた。
『壁の術式を見ろ。衝撃を感知すると、通路全体が崩落して毒ガスが充満する仕組みだ。筋肉で解決しようとすれば、生き埋めになって終わりだぞ』
「えぇっ!? 陰湿です!」
『ったく、古代人の考えることはセコいな』
アビスは鼻を鳴らすと、背後にいるテトをギロリと睨んだ。
『おい、小僧』
「は、はいっ!?」
『俺様がこの程度のガラクタを消し飛ばすのは造作もないが……それじゃあ芸がねえ。 せっかくだ、お前にも活躍の機会をくれてやる』
アビスは顎で通路をしゃくった。
『あの包丁と床の仕掛け、全部解除してみせろ』
「えぇぇっ!? 俺がっすか!?」
『そうだ。貴様、盗賊の真似事をしていたんだろ? ならば、罠の解除くらい朝飯前だよな?』
「いやいやいや! スリと罠解除は別ジャンルですよ!?」
『知らん。……失敗すれば、暴走機関車が突っ込んで全員死ぬ。心してかかれよ』
アビスは「拒否権はない」と言わんばかりにリュックの中に引っ込んだ。
テトは青ざめた顔で、目の前の殺人的なトラップを見つめた。
「うへぇ……マジかよ……」
テトは観念したように肩を落とし、リュックから七つ道具を取り出した。
針金、ペンチ、謎の潤滑油。
路地裏で生き抜くために磨いた技術が、まさかこんな場所で試されるとは。
「……やるしかねえか」
彼は慎重に床に這いつくばると、パネルの隙間に針金を差し込んだ。
額から冷や汗が滴る。
(……集中しろ。失敗したらアビスの旦那に消される。罠で死ぬより、そっちの方が怖い……!)
カチッ。
微かな音がして、床のパネルの一つが光を失う。
成功だ。
テトは額の汗を拭う暇もなく、次は振り子包丁の制御装置へと向かう。
複雑な歯車の動きを目で追い、一瞬の隙間に工具をねじ込む。
ガキンッ。
巨大な包丁が、動きを止めた。
「……ふぅ。解除、完了……」
テトはその場にへたり込んだ。
全身汗びっしょりだ。
『……ほう』
アビスが、感心したように声を上げた。
『手際は悪いが、勘所は良い。魔力感知もできない凡人にしては、上出来だ』
「えっ、褒めてくれたんすか?」
『勘違いするな。下僕として「使えなくはない」と言っただけだ。……行くぞ』
アビスはツンとそっぽを向いたが、テトの顔には少しだけ誇らしげな色が浮かんだ。
この絶対的な支配者に、少しだけでも認められた気がしたからだ。
◇
しかし、彼らは気づいていなかった。
テトが必死に解除したトラップの裏で、もっと厄介な「魔法的な迎撃システム」が作動しかけていたことを。
通路の天井。
そこには、侵入者を自動追尾して焼き尽くす「小型浮遊砲台」の群れが潜んでいた。
テトが物理トラップを解除している間、それらは静かに起動し、死角からアビスの背中を狙っていたのだ。
だが。 その砲台が火を噴くことはなかった。
「……アビス様の背後を狙うなんて、万死に値しますわ」
暗闇の中。
音もなく唱えられた呪文が、空間を凍てつかせた。
極小範囲に圧縮された氷の針が、砲台の魔力回路を正確に貫く。
カスン、カスン……。
砲台は音もなく機能を停止し、床に落ちることなく、氷漬けになって天井に張り付いたまま沈黙した。
セレスティアである。
彼女は『認識阻害』と『消音』の魔法を完璧に展開し、一行のさらに後方、天井の梁に張り付いて移動していた。
その姿は、まるで黒いヤモリか忍者のようだが、表情は恍惚としていた。
「あぁ、素敵……。下僕の少年を見守るアビス様の、あの尊大な視線……。『やるじゃないか』と言いつつも、決してデレない孤高の精神……! 尊い……尊すぎて魔力回路がショートしそう……!」
彼女は鼻血を拭いながら、アビスたちの進行方向に新たな敵影がないか目を光らせる。
露払いは完璧だ。
彼女は「人類最強の魔術師」の能力を、ただひたすら「推しの快適な旅」のためだけに浪費していた。
(アビス様……気づいていらっしゃいますよね? 私のこの献身的なサポートに。ふふっ、今はまだ無視されているけれど、いつかきっと『よくやった』と頭を踏ん……撫でてくださるはず!)
セレスティアは妄想を糧に、再び闇へと溶け込んでいった。
リュックの中のアビスは、微かに背後の気配に耳をそばだて、(……チッ。勝手に掃除する掃除機か。まあ、手間が省けるなら好きにさせておくか)と、あくまで「便利な道具」として放置を決め込んだ。
◇
そして、一行は遺跡の最深部手前、「地獄のスープ・エリア」に到達した。
「うわぁ……暑いです! さっきのジャングルより暑いです!」
リディアが顔をしかめる。
目の前に広がっているのは、巨大なプールのような空間。
だが、満たされているのは水ではない。
グツグツと煮えたぎる、真っ赤な液体。
強烈な唐辛子の匂いが鼻を突く。
『激辛マグマスープの池』だ。
『……最悪だ。カプサイシンの揮発成分が目に染みる』
アビス(犬)は、前足で鼻と目を覆った。
犬の嗅覚にとって、この空間は拷問に近い。
『おい、どうやって渡る気だ。飛ぶか?』
「飛ぶ魔法なんて使えませんよ! アビスさんがやってください!」
『断る。今ここで変身したら、コートに激辛臭が染み付く。クリーニングに出しても落ちんぞ』
「そんなぁ……」
途方に暮れる一行。
すると、煮えたぎるスープの中から、バシャバシャと何かが飛び出してきた。
全身が真っ赤な鱗に覆われた、巨大な魚人たちだ。
『レッド・マーマン』。
激辛スープの中で進化した、熱と辛さに耐性を持つ魔物である。
「ギョギョギョーッ!」
マーマンたちが、手にした槍(唐辛子型)を構えて襲いかかってくる。
足場は狭い通路のみ。絶対的不利な状況だ。
「ひぃっ! 囲まれた!」
テトが叫ぶ。
リディアが構えるが、敵はスープの中に潜ったり飛び出したりと、神出鬼没な動きを見せる。
その時。
アビスが、不機嫌そうに唸った。
『……鬱陶しい。おい、ストーカー』
アビスは、誰もいないはずの虚空に向かって、ボソリと呟いた。
テトとリディアには聞こえないほどの小声。
だが、その言葉は、隠れていた「彼女」の鼓膜には、雷鳴のように響いた。
(ス、ストーカー!? 私のこと!? アビス様が私を呼んでくださった!?)
天井裏で待機していたセレスティアは、感極まって卒倒しそうになった。
だが、すぐに「否、これは指令だ!」と理解する。
アビス様は、手を汚したくないのだ。
この薄汚い魚人どもを、私の手で処理しろと仰っているのだ!
(承知いたしましたぁぁぁーーっ!!)
セレスティアは心の中で絶叫し、杖を振るった。
詠唱破棄。
超高速の魔力構築。
――氷結魔法『ダイヤモンド・ダスト・コフィン』。
キィィィィィィィン……!
一瞬にして、灼熱のスープ池の温度が急降下した。
空中に飛び出していたマーマンたちが、そのままの姿勢で氷漬けになり、カチンコチンと音を立ててスープの上に落下する。
さらに、煮えたぎっていたスープの表面が、分厚い氷で覆われていく。
「え……?」
リディアが目をぱちくりさせた。
「す、すごい! 急に涼しくなりました! 敵も凍ってます!」
「な、なんだ!? 何が起きたんだ!?」
テトも訳が分からず周囲を見回す。
アビスだけが、つまらなそうに鼻を鳴らした。
『……ふん。仕事は早いが、加減を知らんな。少し寒すぎる』
彼はリュックの中で丸まり直し、暖を取る体勢に入った。
「よくわかりませんが、これなら渡れますね!」
リディアは「ラッキー!」と叫ぶと、凍りついたスープの上をスケートのように滑り始めた。
「ちょ、待ってよ姉ちゃん!」
一行は氷の道を渡り、ついに最深部への扉の前へとたどり着いた。
扉の向こうからは、今までとは桁違いの魔力と、芳醇なスパイスの香り、そして何より――強烈な「幻術」の気配が漏れ出していた。
『……着いたか』
アビスが顔を上げる。
ここから先は、あの小手先の『掃除屋』の手には負えない領域だ。
四天王モルフェの遺産と、それを食い荒らした怪物が待っている。
「行きますよ! 開けゴマ!」
リディアが、巨大な扉を筋肉(物理)で押し開けた。
ギギギギギ……ズドォォン!!
開かれた扉の向こう。
そこには、目も眩むような黄金の広間と、山盛りの御馳走、そして玉座にふんぞり返る、醜悪な豚の怪物の姿があった。




