第五話 魔境のジャングルと、粘着質な追跡者
大陸南部。
かつて四天王の一角、「策略家モルフェ」が支配し、常時深い霧に閉ざされていたその地域は、主の消滅と共にその姿を大きく変えていた。
霧は晴れた。
だが、それは秩序の回復を意味しなかった。
モルフェが森中に張り巡らせていた強力な幻術回路が主を失って暴走し、植物や魔獣たちは異常な進化を遂げ、極彩色の花々が咲き乱れる「魔境のジャングル」へと変貌していたのである。
うだるような暑さと、肌にまとわりつく湿気。
腐葉土の匂いと甘ったるい花の香りが混ざり合う密林の獣道を、奇妙な一行が進んでいた。
「あー、暑いですぅ……。蒸し焼きになっちゃいます……」
先頭を歩くリディアが、手で顔を扇ぎながらぼやいた。
彼女の燃えるような赤髪は汗でぺたりと首筋に張り付き、自慢の体力もこのサウナのような高温多湿な環境には削られているようだ。
だが、彼女以上に、今にも世界を滅ぼしかねないほどの不機嫌オーラを垂れ流している存在がいた。
「……おい、小僧。扇ぎ方が弱えぞ。もっと腰を入れて扇げ」
「へ、へい……!」
最後尾を歩く少年テト。
彼は自分の背丈ほどもある巨大な荷物を背負いながら、右手で必死に大きな葉っぱを動かし、風を送っていた。
その風の先――リディアのリュックサックの中に、黒い毛玉が鎮座している。
魔人アビス(犬形態)である。
『……チッ。最悪だ。湿気で自慢の毛並みが爆発しちまったじゃねえか』
アビスは不快げに鼻を鳴らした。
普段は絹糸のように滑らかなポメラニアンの被毛は、湿気を吸ってボサボサに膨らみ、まるで巨大な黒いマリモのようになっていた。
魔人としての威厳もへったくれもない姿だが、本人は至って真剣に、この世の終わりのような顔をしていた。
『こんな不快な場所になんか来るべきじゃなかった。……おいリディア、やっぱこの森を丸ごと焼き払って更地にしてから進まねえか?』
「ダメですよ! 自然は大切にしないと!」
『知ったことかよ。俺様の毛並みの方が、自然環境なんぞより一億倍重要なんだよ』
アビスの傲慢かつ乱暴な発言に、テトは引きつった笑いを浮かべた。
この魔人(犬)なら本気でやりかねない。
前回の蒸気都市での一件を見て以来、テトはアビスの言葉を「比喩」ではなく「実行可能な選択肢」として捉えるようになっていた。
「でもアビス様、この森を抜けないと『美食王の遺跡』には着かないっすよ? そこには『伝説のスパイス』があるんでしょ?」
『……む』
テトの言葉に、アビスがピクリと動きを止めた。
伝説のスパイス。
どんな料理も絶品に変えるという、古代の調味料。
アビスがこの不快極まりないジャングルに足を踏み入れた唯一の理由がそれだ。
『……仕方ねえ。スパイスのためだ、我慢してやるよ』
「へいへい。……っと、うわっ!?」
テトが突然、素っ頓狂な声を上げた。
目の前の茂みがガサリと揺れ、巨大な影が飛び出してきたのだ。
それは、花弁の代わりに鋭い牙を生やした、巨大な食肉植物だった。
『人食いラフレシア』。
かつてモルフェが品種改良で作った、動く植物兵器の成れの果てだ。
「シャァァァァァッ!!」
ラフレシアが、涎を垂らしながらテトに襲いかかる。
テトは荷物の重さで動けない。
「ひぃっ! た、助けてくれぇぇぇ!」
「あら、大きなサラダですね!」
リディアの声が響いた。
彼女はテトの前に飛び出すと、嬉々として両手を広げた。
恐怖など微塵もない。
彼女の目には、その怪物が「新鮮な野草」にしか見えていないのだ。
リディアは襲いかかる植物の触手を素手でガシリと掴むと、
ブチィッ!!
「ギャッ!?」
根元から引きちぎった。
植物が悲鳴(?)を上げるが、リディアは止まらない。
彼女は引きちぎった触手をそのまま口に放り込み、ムシャムシャと咀嚼した。
「ん~! 意外とシャキシャキしてて美味しいです! ドレッシングがあれば最高ですね!」
「……えぇ!?……マジかよ……」
テトがドン引きする中、リディアは「おかわり!」と言わんばかりにラフレシア本体へと突撃した。
――ドゴォン! バキィッ! ムシャァ……。
数分後。
そこには、綺麗に「収穫」された植物の残骸と、満腹で幸せそうなリディアの姿があった。
『……ふん。悪食め』
アビスはリュックから顔だけ出して呆れつつも、内心で評価を修正した。
(まあ、現地の食材調達係としては優秀か。毒見役も兼ねられるしな)
不快な環境だが、少なくとも食料に困ることはなさそうだ。
一行は再び歩き出した。
だが、彼らは――正確にはアビス以外の二人は、気づいていなかった。
その背後の密林の奥深くから、じっと彼らを見つめる、熱っぽい視線があることに。
◇
一行から約百メートル後方。
極彩色のシダ植物の陰に、ボロボロのローブを纏った人影があった。
魔術師セレスティアである。
彼女は泥だらけになりながら、這いつくばって地面を調べていた。
高温多湿な気候のせいで、ローブの下の肌は汗ばみ、豊かな胸元や太ももに布地が扇情的に張り付いている。
眼鏡の奥の瞳は、獲物を追う狩人のように鋭く、同時に恋する乙女のように潤んでいた。
「……あぁ、ここだわ。ここを通ったのね……神様」
セレスティアは、アビス(リディアに背負われたリュック)が通過した地面の土を、愛おしそうに指で掬い上げた。
そして、その土の匂いをスーッと深く吸い込む。
「感じる……。微かだけど、あの絶対的な魔力の残滓……。この土に残った残り香だけで、ご飯三杯はいけるわ……ハァハァ……」
彼女は変態だった。
そして同時に、天才的な魔術師でもあった。
彼女は自身の気配を完全に遮断する『認識阻害』の術式を展開しながら、アビスたちの後を完璧な距離感で追跡していたのだ。
彼女の目的は一つ。
蒸気都市で見せつけられた、アビスの「魔導炉の再構築」――あの奇跡のような魔法の神髄を、もう一度見ること。
そしてあわよくば、その教えを乞うこと。
そのためなら、ストーカー呼ばわりされようが、泥水をすすろうが構わなかった。
「あの赤い髪の女……勇者ね。物理一辺倒の野蛮人。神様の玉体を背負うなんて……! その背中で神様の温もりと重みを独占する権利、万死に値する光栄よ。ああ、今すぐ代わってほしいわ……!」
「そして、あの荷物持ちの小僧……ただの凡人。神様に団扇で風を送るだなんて……。その風が神様の頬を撫でるのよ? 私がその団扇になりたいわ……!」
セレスティアはブツブツと独り言を呟きながら、手帳にアビスの行動を詳細に記録していく。
『○時×分、あくびをした。可愛い』
『○時△分、鼻を鳴らした。尊い』
『○時□分、湿気で毛が爆発している。抱きしめて整えて差し上げたい』
「ふふっ、待っててくださいね、アビス様……。あなたが困った時、ピンチになった時……私が颯爽と現れて、華麗に魔法でサポートしますから! そうすれば、きっと私を下僕……いいえ、一番弟子にしてくれるはず!」
彼女は妄想を膨らませ、上気した顔で身をよじった。
その艶めかしい肢体と色っぽい仕草、そして残念すぎる言動のギャップにツッコミを入れる者は、この森にはいない。
◇
日没が近づき、一行は森の中の少し開けた場所で野営することになった。
リディアが手際よく焚き火をおこし、先ほど狩った魔獣の肉や、怪しげな色をしたキノコを鍋に放り込む。
「今日は『ジャングル闇鍋』です! テトくん、味見係お願いね!」
「なんで俺なんだよ! 毒見だろそれ!」
テトが抗議するが、リディアはニコニコして聞かない。
アビスは、そんな騒ぎを無視して、犬の姿で、テトが用意した即席のベッド(ふかふかの巨大な葉っぱを何枚も重ねたもの)の上でくつろいでいた。
『……おい小僧。虫除けはどうなってんだ。羽音が聞こえたぞ』
アビスが不機嫌そうに唸る。
彼は虫が大嫌いだ。
特に耳元で飛ぶ羽虫の音は、殺意を覚えるほどに不快だった。
「やってますよ! この『特製防虫香』、もう三つも焚いてるんですから!」
テトは涙目になりながら、煙たいほどに香を焚き、両手の団扇で煙をアビスの方へ必死に送っていた。
アビスほどの魔力があれば結界で虫など弾けるはずだが、彼は「下僕がいるのに何故俺様が魔力を使わねばならん」というスタンスだ。
そのため、魔力のないテトは物理的な手段で徹底的に排除するしかない。
『……チッ。煙てえな。蚊が一匹でも近づいたら、てめぇをカエルの姿に変えるぞ』
「無茶言わないでくださいよぉ……!」
下僕生活は過酷だ。
だが、不思議と嫌ではなかった。
路地裏で空腹と孤独に震えていた頃に比べれば、この騒がしくも温かい(物理的に暑いが)旅は、少なくとも退屈はしなかった。
「できましたー! いただきまーす!」
リディアが鍋の蓋を開ける。
毒々しい紫色の湯気が立ち上る。
周囲の植物が心なしか枯れたように見えた。
テトが顔を青くする中、アビスは黒い霧と共に人間の姿に戻り、優雅にスプーンを手に取った。
月光の下、銀髪の美青年が姿を現す。
鋭い深紅の瞳が、妖艶な光を放つ。
その美しさは、この不気味なジャングルにおいてあまりにも異質だった。
「……見た目は最悪だが、香りと味は悪くねえな」
アビスは一口啜り、意外そうに眉を上げた。
「……ほう。この毒キノコの痺れる辛さが、肉の泥臭さを消してやがる。合格点だ」
「やったー! アビスさんに褒められました!」
リディアが無邪気に喜ぶ。
その光景を、木陰からセレスティアが指をくわえて見ていた。
彼女の視線は、鍋の中身ではなく、アビスの口元、そして彼が使っているスプーンに釘付けだった。
「い、いいなぁ……。私も神様が召し上がったお料理を食べたい……。いっそ、あのスプーンになりたい……。……あのお鍋の残り汁だけでも舐めさせてくれないかしら……」
彼女の腹が「グゥ~」と情けない音を立てた。
彼女は保存食の硬い乾パンをかじりながら、涙を飲んだ。
今はまだ、出る幕ではない。
遺跡に到着し、彼らが古代の罠に苦戦した時こそが、自分の出番なのだと言い聞かせていた。
(……それにしても、人間のお姿は、なんて素敵……。あんな冷たい目で罵られたら、私、おかしくなっちゃう……)
セレスティアは、アビスの冷酷な横顔を見つめながら、熱い吐息を漏らし、頬を紅潮させた。
その時。
アビスは、スプーンを口に運びながら、微かに眉をひそめて森の奥を一瞥した。
(……またあの気配か)
彼は最初から気づいていた。
ジャングルに入ってからずっと、背中にへばりつくような粘着質な視線と、微弱だが歪んだ魔力の気配があることを。
敵意ではない。
だが、獲物を狙う獣のような、あるいは信仰対象を見る狂信者のような、ねっとりとした気配。
(……不快な虫だ。潰すか?)
アビスは指を動かそうとした。
だが、すぐにその手を止めた。
(いや、面倒だ。殺気もねえし、あまりに魔力が弱すぎて脅威にもならん。今は満腹で指一本動かすのも億劫だ)
アビスは視線を切り、ソファ代わりの葉っぱに深く体を沈めた。
彼は知っていた。どれだけ見つめられようと、羽虫が巨象に何もできないように、その視線の主も自分には何もできないことを。
だからこそ、彼は「無視」を選んだ。
それが、後にどれほど面倒な事態を引き起こすかも知らずに。
◇
翌日。
森の植生がさらに異様さを増してきた頃。
テトが前方を指差して叫んだ。
「あ、ありました! あれじゃないですか!?」
密林が開けた先に、巨大な石造りの建造物が現れた。
古代神殿のような柱と、ドーム状の屋根。
ツタに覆われ、所々崩落しているが、その威容は失われていない。
だが、通常の遺跡と決定的に違うのは、入り口に巨大な「ナイフとフォーク」のレリーフが刻まれていることだ。
『美食王の遺跡』。
古代の王が、究極の美食を求めて建造したとされる、狂気と食欲の迷宮。
『……ふん。ようやく着いたか』
アビス(犬)がリュックから顔を出し、鼻をひくつかせた。
遺跡の奥から漂ってくる、微かだが芳醇なスパイスの香りを感じ取っていた。
『間違いねえ。あそこには俺様の舌を満足させる何かがある』
「行きましょうアビスさん、テト! お宝ゲットです!」
「へいへい、罠に気をつけてくださいよ……」
三人は遺跡へと足を踏み入れた。
そしてその後ろから、セレスティアもまた、決意を秘めた表情で忍び込む。
「待っていてください、アビス様。このセレスティアが、必ずやお役に立ってみせますわ! ……そして、あわよくば頭を撫でていただくのです!」
しかし、遺跡の中で彼らを待ち受けていたのは、単なる罠や魔物ではなかった。
遥か古代の『美食王』が遺した、狂気と食欲の試練。
そして、かつてこの地を支配した「策略家モルフェ」が残した負の遺産――暴走する幻術と、主亡き遺跡を乗っ取った新たな怪物の姿だった。




